パッション  社会

今、キリスト教、聖書を読み返している。欧米の文化や思考方法を知るには、やはりキリスト教は避けて通れない。特に日本に大きな影響を与えているアメリカのことを知ろうと思えば聖書を読まなければならない。

政教分離と言いながら、大統領が聖書に手を置いて、バチカン(ローマ法王)の方を向いて宣誓を行う国なのだ。ハリウッド映画だって、聖書の言葉が理解できなければその映画を表面的にしか理解できない。

聖書を勉強しているからといって、別にキリスト教に宗教を変えようと言うわけではない。私は仏教である。といってもどこかの宗教団体に所属している訳でもない。1人仏教徒である。

ということで、聖書関連で、

メル・ギブソンの2004年の映画「パッション」を観た。

主なシーンのみ、

http://www.youtube.com/watch?v=elrWBHHIlAE&feature=relmfu


ここからパート4まである。※心臓の弱い方、未成年及び、宗教を理解してい無い方は見ないで下さい。(実際に映画を観て心臓発作で亡くなった人がいるとのこと)残酷で凄惨な映像にしか見えません。新訳聖書を読み映画をきちんと観る事をお勧めします。

キリストの受難から磔刑までが描かれている。いろいろと物議を催したが、細かいところは別として、聖書で読んだ通りの展開が描かれる。違うのは、聖書の内容(キリストの受難)を映像にすると相当、凄惨で残酷であることがわかる。

一見すると残虐さだけが強調されているようにみえるが、当時のローマではこのような刑罰を行っていたので、事実はもっと残酷なものであったと思う。

この映画を観てわかったのは、キリスト教は、この神の子であるイエスが迫害され磔刑になるまでのいわゆるキリストの受難があり完成していることがわかる。キリストの受難がなければ、現代のキリスト教は存在しただろうか?


凄い映画だ。観ている間、私の爬虫類脳(サバイバル脳)はずっと刺戟され続けた。それは映画であり自分が鞭を打たれたり、磔になり釘を打ち込まれたりしている訳でもないのに、
心は恐怖で支配される。現代においても、みせしめの刑罰と言うのが残っているが、反抗心を砕くには十分な方法である。挫けて心が折れる。

実際、弟子のペトロは、イエスの仲間かと問われた時、3回知らないと答えた。恐怖を乗り越えることが出来なかったのだ。

しかし、イエスは、恐怖を乗り越えた。残酷な刑罰に耐え、神の言葉を忠実に伝えた。死ぬ間際にまで、自分を殺そうとしているユダヤ人を許そうとした。”主よお許しください。彼らは自分のしていることがわからないいだけなのです”と。

イエスは恐怖を乗り越えた人なのだ。キリスト教信者はここに強烈な宗教的パッションを感じているのだと思う。


キリストは神の言葉を伝えた。神を信じなさい。神を疑ってはいけない。神を試してはいけないと。

ただ、最後に(死ぬ前に)イエスはこう言う。”主よ何故、私をお見捨てになられたのですか?”これは一瞬だけ神を疑ったように見える。しかし、それは一瞬で、そのあとは”主の御心のままに”と言う。ここが人間であるイエスが一瞬発露したところとして描かれているのだろうか?

キリスト教は救済の宗教である。神を自分の外に置くことで、その偉大な神の救済を求めている。そして、神と契約を交わす。これは絶対的な約束である。彼らが、無神論者を信じないというのは、考えてみると良く理解できる。

無神論者は、神がおらず契約も交わしていない。一体何を基準に生きているのかわからない。もうそれは、同じ人間として考えられないくらいなのかもしれない。

キリスト教について、私はあまり詳しくないので宗教的に詳しい説明は全くできないが、ただ映画を観て、イエス・キリストが非常に魅力的で尊敬に値する人であることは理解できた。

恐怖を煽られる映画であったが、同時にそれを(わが子の悲惨な現実を)最後まで見届ける母マリアの愛の物語でもあった。

キリストを死刑にせよと叫んだユダヤ人の民衆(反ユダヤ主義だと批判された様だが、聖書にはそう書いてある)は、どこの国にも見受けられる無知で浅はかでバカな一般大衆である。本当にそう思う。これは日本の一般大衆に当てはまる。本当にバカで無知だ。もちろん私も含まれる。

恐怖に反応する爬虫類脳であるが、これは同時に生き残りをかけたサバイバル脳でもある。生きるぞっていう欲望を掻きたてる本能的な部分でもある。この映画を観て、やはり生きていかなければならないのだなと強く思った。そして、やはり平和を目指さなければならない。世界はますます怪しくなっている。一般大衆も混乱を望んでいるとしか思えない。解決したくない心理が私には見える。

確かに、今の人類の精神性では解決は学びにつながらない。困難や苦難に学びがあるのかもしれない。いつになれば人類は学びを終えた平和な生き物になるのだろうか?キリスト教も終末思想を持っている。もう時間が無い。

私は、混乱は嫌だ。平和を望む。

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2012/4/29  15:09

投稿者:みーたん

あらぁ〜Σ(|||▽|||)
危険だったの?
全く自覚ない……σ(・_・)

自由じゃないのね(┰_┰)

修正は気にしませ〜ん。
逆にありがとうです。

2012/4/29  9:46

投稿者:元気

みーたんさん

コメントありがとうございます。せっかくコメント頂いたのですが、ちょっと危険かな(笑)と思い後半部分を勝手にカットさせて頂きました。

宗教は微妙な問題なのですみません。

以下、みーたんさんのコメント(修正済み)

みーたん
2012/4/28 21:19
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の『神=ヤハェ』なんだよね。
古くからヤハウェの名は、「存在」を意味する語根らしい。

モーゼはヤハェを絶対存在とし、契約をする。
秩序を保つ為?
キリストは、それを終わらせ、各々の秩序(自立・自律)で幸せになれると説いてたのだろうが、
後の人々は、そのの意識に達することが出来ず…、結局、神に依存し、宗教にし、今に至るのだろうね。

悟れば『存在』にすら執着はしなくなり、
ヤハェの存在価値は必要なくなる。

宗教などは、存在価値に執着するエネルギーそのもの。
この世も、自分の存在価値を慾するから、洗脳仕組みが成り立つのだろう…と繋がるのかな…と。

だから、悟りは邪魔される。

>宗教などは、存在価値に執着するエネルギーそのもの。

私もそう思います。人間を個人に分裂、分離、対立(争い)させている。それが宗教の目的?


2012/4/28  19:37

投稿者:元気

みーたんさん

神を自分の外に置き、神と契約を交わすことで救済を得る。完全な他力宗教であるが、これは、お天道様が観ていると同じで、神が観ている感というのがあり、しかも約束をしているのだから守らなけらばならない。しかも、自分が弱くなっている時にも、神がついていて下さるということは非常に心強いことだろう。

さらに、キリストは恐怖を乗り越えた存在であり、こういう言い方をすると良くないが、カッコいいともいえる。確かに魅力を感じる。仏教は自力と他力であるが、仏様と契約を交わしている訳ではない。出家と言う形はあるが、現代では非常に難しい。お坊さんのほとんどが出家できておらず、拝金主義に取り込まれている。やはり、仏教を勉強するには、1人仏教にかぎる。誰かに頼りたい人はキリスト教か?
みーたんさんの言っていることは良く分かります。これから旧約聖書を読みます。

2012/4/25  22:38

投稿者:みーたん

拷問シーンは実話に近いんだろうな…と思って観たわ。
道具とかも検証されているんだろうな…。

身体を張って、生命をかけて”受難”を体現してみせた結果が免罪符では、キリストはガックリだろうな。

ゲッセネマの瞑想中に『退け!サタン!』と言ったのは、
自分自身の自我や恐怖に対してだろう…と解釈しています。

神様の手前に控える”闇”は、
『その祈りは本物か?』
『その正義は本物か?』と尋ねる。
真実をさらけ出さなければ、神様には会えないんだろうな…と思うよ。

真実を知って欲しくないヤツらは、それを『悪魔』と呼ぶんだろうな。
邪気に厳しく、無邪気にはきっと優しい存在の”闇”。
試したり、おとしめる為にいる訳ではなく、
ただ真実を見つめさせるから怖いんだ。
真実を語り、真実で行動するコトは悪いコト…と洗脳されているから、向き合えない…。

本当は悪魔は自分自身の中にいる。

>”主よ何故、私をお見捨てになられたのですか?”

キリストは神様の子として死んだのではなく、
人の子として死んだ証ではないだろうか?

意識は既に超越し、信じる世界で生きているだろうから。

無知な私達への共感だったのかもしれない。
『三次元の人生はこんなものさ…だから大丈夫だよ。』みたいな…。

な〜んて♪


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