”死”を考えますか?  社会

死ぬのが恐い。死を前にして、何もかも無駄に思えると相談を受けることがあります。

いずれ死ぬなら生きていても仕方が無いと考えてしまうのです。

人はこの世に誕生し、自我が芽生えた頃に、ふと気づきます。いずれ誰もが死ぬということに。

そして多くの人はその事実に愕然としながら、受け入れるではなく、考えないようにして生きていきます。

考えても答えが無いことは考えないと。しかし、人間の根底にはこの”死”というものは常に恐怖として付きまといます。

思春期は誰もが何故人は死ぬのか?などと悩んだりするのですが、そのうち考えないことにします。

人間とは何か?何故生きているのか?などとずっと考えている人は生きるのが苦しくなります。

”死”は全てを虚しくさせるからです。

死が恐いのはそれが未知のものであると考えているからです。未知への恐れなのです。

国や時代によっては”死”など日常茶飯事の場所もあります。そこでは死の概念はかなり違い、人間の生活の一部となっておりあまり恐れはありません。

私は”死”を考えることはより良き”生”に繋がると思います。誤魔化しているといつまでも脳裏から離れず恐怖感があなたを捉えて離しません。

それが行動の動機となってしまうと幸せ感は刹那的となるでしょう。

死とは”無”に還ることです。”無”は文字通り”無”です。この”無”の境地は誰もが体験しています。

それは母体に宿った時、あるいは着床する前の精子や卵子の時代。

あるいは、毎日の睡眠。熟睡している状態が”死”と同じです。

だけれど熟睡が恐いとは誰も思いません。

”死”は恐いものではありません。それは質の良い睡眠と同じです。

死を恐れるのは、自我です。赤ちゃんは11ヶ月で自我が芽生え、自他を区別しだし、人見知りが始まります。

そして、その後、いろんな情報がインプットされ自我は欲を欲しがり、サバイバルを始めます。

死を恐れているのは、自我であり、生存欲です。欲がなければ”死”は恐くありません。

死が恐いのは、生きて体験する痛みを自我が嫌がるのです。

死は怖いものではありません。それは睡眠と同じです。生はその束の間に観ている”夢”です。朝起きたら”夢”は忘れます。

同じように生まれ変わると、もう忘れているのです。

生とは大海の波のようなものです。波はいずれ崩れて大海へと戻ります。波が波である時はほんの一瞬です。

崩れて海の全体と同化します。

死を恐れて生を楽しめないのは残念なことです。せっかく波になったのであれば、その波を楽しめばいいのです。

いずれ疲れたら死(睡眠)に入ります。

恐れているのは自我(エゴ)です。エゴに人生を支配されていると苦しみしかありません。

抜け出しましょう。自我と自己同一化してはいけません。自我を飼いならし、客観的に眺め観察し見つけ出しましょう。

自我(エゴ)は恐れおののく可愛い奴なのです。
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