かつての橋本は、京(大坂)街道の宿場町として栄え地名は、僧・行基が淀川の対岸・山崎に架した橋のタモトに由来します。
行基が架橋した山崎橋は宇治橋、瀬田の唐橋と並んで日本三大橋の一つに数えられました。その後、何度も流出と架橋を繰り返し橋が無い期間は渡船で代用されました。やがて元禄年間に再び架橋されたのが現在の観音寺前辺りと伝えますがこの橋も流された後は、再び架橋される事はありませんでした。以後の橋本は渡船場として賑わい、橋本の渡しは昭和33年(1958年)4月1日、売防法が施行されるまで続いていたと伝えます。また旧街道沿いには、かっての傾城町(遊郭)の名残の建築意匠の建物が現存しています。

近年、そんな家屋も徐々に取り壊されて姿を消し空き地が目立つようになってきました。橋本は、かつての宿場町の面影が色濃く残っている数少ない町です。
今も異彩を放つ木造建築は見るからに傾城町特有の建物であるが建築意匠の素晴らしい!
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京阪電車・橋本駅前にある火の見櫓と道標石正面に「橋本渡舟場三丁」、「山崎停車所十丁」の碑文がある。当時、対岸の山崎間に渡し船が運航(昭和37年/1962年まで存続)されており、対岸にある鉄道停車場(現JR東海道本線・大山崎駅)の道案内石碑

同じく道標石側面に「湯澤山茶久蓮寺(ゆたくさんちゃくれんじ)跡」と記されている。
これは、羽柴秀吉が山崎の合戦で明智光秀と戦った時、当地の寺に立ち寄りお茶を所望した。寺の住職は、秀吉が茶人であることから、下手にお茶を差し出したら文句を言われるだけと苦慮して白湯(さゆ)のみを差し出した。
秀吉は、住職が聞き間違えたのか・・と今一度お茶を所望するが、同じように白湯が差し出された。秀吉は、立て続けに白湯のみを差し出された事の次第を察し「この寺は、お湯ばかりでお茶をくれなくてもよい、今後は寺の名を『湯たくさん茶くれん寺』とするがよい」と洒落(しゃれ)たとの伝承による。
現在、湯澤山茶久蓮寺跡には浄土宗・西遊寺があるが、この湯澤山茶久蓮寺は、妙見宮旧常徳寺の話と伝えられて常徳寺は曹洞宗の禅寺で、元は石清水八幡宮の麓にありました。その後、橋本の当地に移されたが、文化10年(1813年)正月に焼失したと伝える。


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