興福寺で「阿修羅像」と再会する
現在、私は兵庫県宝塚市に居住しているが、昨年3月に阪神電鉄と近鉄が地下鉄で結ばれて以降、
「神戸三宮発、奈良行きの直通快速急行」が 走るようになり、筆者は、この便宜を活用できるようになった。
時間的にはこれまでと変わらないのだが、
座ったまま乗り換えなしで奈良まで行けるのが有難い。
今回、そのルートで奈良へ出かけた。この奈良紀行は2回に分けてご紹介する予定だが、まずは
感激も新たな「阿修羅像」との対面。
「阿修羅像」は、東京、福岡で特別展示が行われ、
東京では2カ月の会期中に80万人という大変な数の観客を同動員したことは記憶に新しい。
この殺伐とした時代にあって、
「阿修羅像に癒される」という人が多いらしく、日頃、テレビ や新聞・雑誌などでよく取り上げられる。
このため、私自身、阿修羅像と対面するのが久しぶりという感覚はなかったのだが、考えてみれば20年くらいは訪れていなかった。
興福寺の国宝館は人もまばら
今年の3月に興福寺国宝館がリニューアル・オープンして以来、
「平城遷都1300年祭」 人気もあって、
連日大混雑、平日でも待ち時間ができる状況とのニュースを耳にしていた。
しかし、11月にイベントも事実上終了し、
師走半ばの12月16日は奈良公園を歩く観光客はまばらだった。 (何よりも、この日は寒波到来で、昼間でも奈良は冷え込んでいた)
先に薬師寺を回って、近鉄奈良駅前で遅い昼食をとった後、
興福寺国宝館に着いたのは15時頃だった。国宝館の入り口には人気がなく、中に入っても入場者は多くなかった。
このため、ゆっくりと立ち止まって一つ一つの仏像(国宝が多い)を鑑賞できたのだが、この半日ツアーの目的は、
「八部衆」、特に「阿修羅像」と決めていたから、もっぱらこの鑑賞に時間を費やした。
「山田寺仏塔」は必見
ただ、昨日の投稿記事にコメントをいただいた「satoyama」さんもおっしゃっていたが「
山田寺の仏頭」(国宝)は、まさに仏像の頭部だけしか残っていないのだが、写真のとおり
実に気品のある凛然としたお顔をされている。
白鳳文化を代表する作品であり、さすがに、この仏塔だけは、前で立ち止まり、しばし見とれていた。
八部衆像がそろう姿は壮観
これらの八部衆像は、頭部だけが残った「五部浄像」を含めて、国宝館の一番最後のコーナーに横一列で安置されている。
以前の国宝館では、ガラスのショーウインドの中に像が安置されており、光の反射などで見にくかったが、
リニューアルを契機に、参拝者との間の障壁を取り除いた。
国宝の中の国宝であり、不埒な輩が悪さをしないとも限らないが、必ず警備を兼ねて、ボランティアの人を配置し、不測の事態に備えているとのこと。
仏像達は、
淡い光を放つ電球に照らされて、
神々しい姿を 見せている。
すべてが一堂に会する姿は壮観である。
阿修羅を含めて、
八部衆は、仏法を守護する神であり、仏敵に対しては「戦闘神」として行動するため、通常は甲冑を見に付けているが、なぜか阿修羅だけは甲冑をまとっていない。
ちなみに、興福寺の八部衆像は、 阿修羅のほか、五部浄、沙羯羅、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆、迦楼羅、緊那羅、 畢婆迦羅(ひばから)と呼ばれている。
20年ぶりに阿修羅像と再会
20年ぶりに「阿修羅像」と再会した。そしてとたんに言いようのない感動が身体を駆け巡った。手をのばせば届きそうなところに阿修羅像が佇んでいた。ドレスの裾はこれがそ塑像とは信じられないくらいに、ふわっと柔らかである。
うましうるわし奈良「Again」
http://www.youtube.com/watch?v=NHiWSSeeWx4
実物はこんなに赤くない。
写真などで見る 赤味がかった阿修羅像に比べると、えも言われぬ
「淡い色合い」であり、
見る者の心をゆったりと、優しく包んでくれる。
当たり前のことだが、やはり実物は全然違う。
上の二本の手で、太陽と月を支え、中の二本の手は弓矢を持つポーズ。そして下の手 は前で祈りのポーズをとっている。しかも両手は合掌寸前の時、わずかに隙間が見える。
このことは、堂内のボランティアの方(拝見したところ70才台の方が多いようだ)に教えていただいた。
軍神の阿修羅がなぜ祈りを?
本来は軍神である「阿修羅」が、興福寺では、
微かに眉に憂いを帯びつつ、真剣に祈りを捧げる少年の像として作られている。
いかに日・月を支配し、武に秀でていても、それだけでは仏教を信ずる衆生の安寧・平安は得られない。
最後に残るのは「祈り」「信仰心」である・・製作者はそう言いたいのだろうか。
少年のような表情の阿修羅は、一体何を思って祈っているのだろうか?
この表情が「誰かに似ている」と雑誌などに載っていた。私は、
バイオリニストの 庄司紗矢香さん、フィギュアスケートの浅田真央さんの、瞬間的な表情が「阿修羅像」に似ている と思うのだが・・。
師走の平日の午後3時頃。
国宝館には人もまばらで、30分ほど阿修羅の前に立ち 尽くしていた。どこにも腰かけられず、足は厳しかったけど、それ以上に心の感動と癒しが得られた。
なお、阿修羅像以外でも、
「沙羯羅立像」(写真/水中の龍宮に住み、雨を呼ぶ魔力を持つ)のあどけない顔に惹かれた。
すべて734年に造立された八部衆
現在、興福寺・国宝館に安置されている
八部衆像は、すべてが天平6年(734年)に製作された。
製作者は、
百済からの渡来人(将軍万福、秦牛養)を長とする仏師集団、で、今風に言えば、「日韓合同の八部衆・製作プロジェクト」ということになる。
仏教伝来(538年)から1世紀がたち、日本に渡ってきた百済等の仏師は、帰化して日本の女性達と婚姻を重ね、その子、孫の中に、優れた腕を持つ仏師が誕生したと思われる。
だが、豊富な経験・スキルに加えて、全体を統率する力を持ったプロジェクト・リーダーが十分に育っていなかったのかも知れない。
さて、このプロジェクトの
発案者は光明皇后である。
亡き母の慰霊のために、中金堂の建立 と、その中に安置するあまたの仏像(釈迦如来、釈迦の十大弟子、四天王、八部衆像など)の製作を命じた。
時の権力者:藤原不比等の娘であり、聖武天皇の后として、その命はあまねく行き渡った ことだろう。
脱活乾漆造りの「八部衆」・・ずいぶん軽量である
ちなみに、「八部衆」や「十大弟子像」(これも国宝館にある)などは、「八部衆や十大弟子像などは、
「脱活乾漆造り」と呼ばれる技法が用いら れている。
すなわち、
粘土で造形した上に麻布を貼り、漆(うるし)で塗り固め、後に内部の土を 取り除き、彩色を施している。
ボランティアさんの話では、
八部衆は中ががらんどうなので、25sと軽く、火災の時でも速やかに避難いただくことができる。これが
1300年を生き抜いた秘訣ではなかったかと。
なお、当時、漆は米の10倍以上の値段がするとても貴重なもので、
中金堂造営経費の1/5を漆が占めるほどであった。
光明皇后の真意は?
だが、
「悲田院」、「施療院」を造り、病気に倒れた貧しい人達を率先して介護したと言われる光明皇后である。
自分の亡き母のために新たに金堂を作り、あまたの仏像を造るよう命令を発し、多くの人民を使役につかせるなどは、民の収奪者だったということになり、大いにイメージが減じてしまう。
光明皇后は、母の慰霊とともに、きっと衆生の安全、安寧を祈ったと、私は思っている。
(それでも、多くの民が借り出され、「中金堂」の建立工事に携わったことに変わりはないが・・。 )
ちなみ、
中金堂は1717年に焼失し、以降、阿修羅を含め八部衆や十大弟子像などの居場所がなくなって、300年に及ぶ借家生活を余儀なくされてきたのだが、現在
「中金堂建設工事」がスタートしている。完成は8年後である。

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