後世に伝えたい戦争の記憶D(特攻/この壮絶なる自決)
1.特別攻撃隊
太平洋戦争末期に日本軍が編成した、連合国軍艦艇に対する体当たり攻撃を実行するための飛行部隊である。「
特攻隊」と略す場合が多い。
沖縄近海で特別攻撃隊機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母ヴィクトリアス
具体的には、
爆弾を搭載した軍用機や、爆薬を載せた高速艇等の各種兵器が、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たりする戦法である。
太平洋戦争末期の日本で、陸海軍あげての大規模な作戦として実施されたが、
乗員が生還する可能性は皆無に等しく、突入すなわち「死」を意味すると言えた。
知覧特攻平和会館の前にある特攻銅像「とこしえに」
背景には、
太平洋戦争末期における
@日本軍の航空機の数的不利、A航空機燃料の品質悪化(ガソリンが入手困難に)、Bアメリカ軍やイギリス軍の対空迎撃能力の飛躍的向上により、通常の航空攻撃では充分な戦果を敵艦隊から挙げにくくなったこと・・等があるとされる。
だが、
なぜ、そのことが「特攻」という名の自決戦法の実施につながるのか??当時の軍上層部の狂気としか言えない決断を私は理解できない。
1944年10月25日神風特攻隊敷島隊に突入された護衛空母「セントロー」
2010年08月現在確認されている特攻隊員戦死者数は、
海軍:海軍航空特攻隊員:2,531名ほか、計:4,156名、陸軍:陸軍航空特攻隊員:1,417名ほか、計:1,689名、合計:5,845名にのぼる。
海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた。
以下は、
これから死にゆく者達が、残された家族に宛てた遺書の中から、抜粋したものである。
いずれも10代〜20代ばかりである。
【特攻隊員の遺書から】
@枝 幹二(大尉 昭和20年6月6日 知覧から出撃戦死 22歳)
(作戦指令を待っている間に)
あんまり緑が美しい。今日これから死にいくことすら忘れてしまいそうだ。真青な空、ぽかんと浮かぶ白い雲、6月の知覧は、もうセミの声がして夏を思わせる。
小鳥の声がたのしそうだ。俺もこんどは小鳥になるよ。
本日13時35分、いといよ知覧を離陸する。なつかしの祖国よさらば。使いなれた万年筆を”かたみ”に送ります。
出撃を前に記念撮影。馴染みの食堂の女将と。
A相花信夫(少尉 昭和20年5月4日 知覧から出撃戦死 18歳)
母を慕いて。母上様御元気ですか。永い間本当に有難うございました。
我六歳の時より育て下されし母。継母とは言え世の此の種の母にある如き、慈しみ育て下されし母。有難い母。尊い母。
俺は幸福であった ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが何と意志薄弱な俺だったろう。
母上お許し下さい。さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん お母さん お母さんと。
出撃前に、可愛がっていた子犬とたわむれる特攻隊員
B塩田 寛(一等飛行兵曹 昭和19年10月26日 レイテ沖にて特攻戦死 18才)
戦いは日一日と激しさを加えて参りました。父母上様、長い間お世話になりました。
私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。私は潔く死んでいきます。今日の海の色、見事なものです。決して嘆いて下さいますな。
この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。
数々の思い出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。
しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。
お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。
いつまでも仲良くお暮らし下さい。私も喜んで大空に散っていきます。
出撃機を見送る知覧の女学生
C久野正信(少尉、昭和20年5月24日、第3独立飛行隊として出撃し沖縄にて戦死 29才)
5才の長男と2才の長女に宛てた遺書。原文は、手紙を早く読めるように、子供達が最初に習ったカタカナで書かれている。
父は姿こそ見えざるも、いつでもお前たちを見ている。よくお母さんの言いつけを守って、お母さんに心配をかけないようにしなさい。
そして大きくなったら自分の好きな道を進み、立派な日本人になることです。
他人のお父さんを羨んではいけなせんよ。正憲、紀代子、お父さんは神様になって、二人をじっと見ています。
二人仲良く勉強をして、お母さんの仕事を手伝いなさい。お父さんは、大きな重爆機に乗って、敵を全部やつけた元気な人です。お父さんに負けない元気な人になってください。
鹿児島県・知覧にある特攻平和会館の展示室
D穴沢利夫(陸軍大尉;中央大学学生、 昭和20年4月12日、一式戦闘機「隼」にて知覧を出撃、沖縄洋上にて戦死、21才)
「にっこり笑つて出撃したとは、当時、知覧高女学生で、出撃を見送った前田笙子さんの日記から。
穴沢少尉(後に二階級特進で大尉)は、白い飛行マフラーの下に、婚約者の智恵子さんから贈られたマフラーを締めていた。
「神聖な帽手や剣にはなりたくないが、替われるものならあの白いマフラーのように、いつも離れない存在になりたい」
穴沢少尉は彼女の一途な思いに、このマフラーを彼女の身替りとして、肌身につけ出撃する。婚約者へのご遺書の中に「今更何を言ふか、と自分でも考へるが、ちよつぴり慾を言つてみたい」と三つあげている。
「一、読みたい本」として「万菓」「旬集」「道程」「一点鏡」「故郷」を挙げ、「二、観たい画」としてラファエルの「聖母子像」と芳岸の「悲母観音」を挙げている。
そして「三、智恵子」とあり、「会ひ度ひ。.話したい。無性に」とあった。
遺書は最後に「今後は明るく朗らかに。自分も負けずに朗らかに笑つて征く」と締めくくられていた。
その日、穴沢少尉は、桜を打ち振り見送る前田笙子さんら女学生に、軽く手を挙げ笑みを返して飛び立って征った。
戦後の長き年月、婚約者智恵子さんの生きる支えになったのは、穴沢少尉の日記に記された次の言葉である。
「智恵子よ、幸福であれ。真に他人を愛し得た人問ほど幸福なものはない」
達筆に描かれた神風特攻隊員の遺書
2.学徒出陣
東京で行われた学徒出陣の壮行会
学徒出陣とは第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する
20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。
1944年(昭和19年)10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、
学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。
ただ、
死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。
ある者は南洋や中国の戦地に、ある者は特攻隊員として、若い人生を終えているものと推測される。
出陣学徒を見送る女学生
私の父も、帝大(法学部)在学中に応召され、滋賀県坂本にあった海軍航空隊の基地で特攻に備えた飛行訓練を続け、秋には特攻基地に赴くはずであったが、8月15日に坂本で敗戦日を迎えた。
よって、今日、私と弟がある。海軍は比較的リベラルと言っても、入隊時には、古参将官から、点呼の声が小さいと言っては頬を拳骨で殴られ、前歯が折れたそうである。
自宅に将兵(海軍少尉)として腰に差していたサーベルがあり、小さい頃、その錆びついた刀剣でチャンバラごっこをした思い出がある。
3.太平洋戦争の戦死者
太平洋戦争の戦死者 軍人・軍属約210万人 準軍属約20万人 一般日本人80万人(戦災50、外地30) 計約310万人(「日本人」のみ) ・・と推定されている。
兵士として徴用された210万人の多くが20代〜30代の若者であったため、戦後の復興を支える「働き手」が少なくなり、逆に戦争未亡人という名の寡婦を多く生み出した(
昭和25年時点、全国の戦争未亡人の数は約180万人)のである。
(むすび)
昭和20年6月11日、アメリカ軍が目前に迫る中、
追い詰められた沖縄・海軍司令部の将官達は集団自決を行う。
その直前に、軍司令部壕の中で、
山田弘国中佐(32才)が息子の雅弘に宛てて書いた手紙(以下に記載)が発見された。短い走り書きだが、その内容は読む人の胸を打つ。
なお、戦後、この軍令部壕の中から、
約1500の遺体が発見されている。
沖縄海軍軍令部の将官が息子にのこした遺書
雅弘よ
父は「バドン」をお前に渡したよ!!
父が望んで達する事の出来なかった
更に大なる飛躍こそは
お前以外に誰が襲いで呉れる
ひとがあろうか…
昭和二十年 海軍壕にて
この軍司令部壕には、10年ほど前、沖縄を旅した時、立ち寄ったことがあるが、地下にはりめぐらされた壕の中に、集団自決を遂げた将官達の遺書が展示されている部屋があった。
家族に宛てられた手紙は、残された父母、妻子への思いを残しつつ、間もなく死にゆく者の張りつめた心情が伝わって来て、とても涙なしには読めなかった記憶がある。
私が印象に残る遺書は、ある将校の次のような内容の手紙だった。
幼い子供達には「今から死にゆく」とは告げず、
「お父さんが帰るまで、兄弟仲良くして、お母さんの言うことをよく聞きなさいよ」と諭している。
妻に宛てた手紙には、
「今から最後の戦闘に向かう。生還は期待しがたい。私が亡き後は、いろいろ苦労すると思うが、二人の子供達を頼む。本当に楽しい結婚生活だった。ありがとう。」としたためられていた。ぐっと胸に詰まった。
このことは、2度訪れた鹿児島県・知覧の特攻平和会館での同じであり、多数の若者が書いた遺書を前にして、涙をこらえるのに苦労した思い出がある。
出撃前に別れの杯を交わす特攻隊員
現在の平和な日本は、彼らの尊い屍の上に築かれていることを、我々は決して忘れてはならない。
まもなく65回目の敗戦記念日がやってくる。
「語り部が少なくなりて敗戦忌」
(なりひら)
「核の傘たたむ国なく原爆忌」
(なりひら)

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