2009/2/3

子供に育てられる  はなこのMEMO

最近は一般人でも「でき婚」(所謂、妊娠をき っかけに結婚すること)は珍しいことではないが(実際私の2人の妹もそうだったし(^^;))、若い芸能人カップルの結婚には、特にこのケースが多いような気がする。個人的には若いカップルが二人の絆を深める間もなく、親になる心の準備もないままに妊娠して、一度に結婚生活と親業を始めることには、その継続に懸念を抱いている。印象として「でき婚」カップルは、そうでないカップルに比べ離婚率も高いように思うのだが、実際のところはどうなのだろう?

以前、「でき婚」後ほどなくして離婚してしまったアイドル歌手、今井絵理子について、批判めいた記事を書いたことがある。その今井絵理子は昨秋、10年近く休止していた所属グループ「SPEED」の活動を再開させた。そのきっかけのひとつは、今4歳になる息子が生まれながらに聴覚障がい者であることを公表したことだった。今日の日経夕刊の「子どもと育つ」と言うコーナーに、その彼女へのインタビュー記事が掲載されていた。彼女の人間としての成長が滲み出た内容で、私は素直に感銘を受けた。子育ては人を成長させてくれるものなのだなあ…と改めて思う。以下はその記事の抜粋(漢字表記は記事の通りに)。

◆生後3日目で障害が分かった時は、涙ってこんなに出るのかというくらい泣いた。でも翌日には、どう育てていくかと頭を切り換えた。今、笑顔でいられるのは、その後に出会った母親仲間のおかげ。子育てで一緒に悩み、考えられるようになったからだ。

元々自分は人見知り。息子が生まれてくれたからこそ、人と人のつながりの大切さを学ぶことができた。今は自分が励まされたように、母親仲間を「独りじゃないよ」と励ましてあげたい。息子が私を母親に選んだのは、この役割を与えるためだったのではと思っている。

◆一番辛かったのは2歳の頃。息子が言いたいことをわかってあげられない。息子ははがゆさから、かんしゃくを起こしていた。でも、二人で手話を習い始めてからはうまくいくようになった。(中略)こちらも一生懸命勉強して、彼の思いを受け止めないといけない。

◆手話では表情も大切。息子は耳が聞こえない分、目でたくさんのことを感じている。だから、いつも息子と同じ目線で表情を見せる。どんなに仕事でストレスが溜まっていても、彼にはしかめっ面は見せない。(後略)。

◆(前略)彼には「聴覚障害はあなたの個性。不便ではあるけど不幸ではない」と伝えていきたい。人一倍努力しないといけないだろうが、その分、楽しみや喜びも多く感じることができるはず。私自身の後ろ姿で、そのことを伝えたい。

今は彼を授かって本当に人生で得をした気分。昔は想像もしなかったことを学べるし、より多くの喜びや悲しみも味わえる。沖縄には「なんくるないさぁ」という方言がある。どうにかなるさという意味だ。私はこのプラス思考を両親から受け継いだ。彼にも「何事もなんくるなるさぁ」の精神を伝えていきたい。

私は叔母のひとりが知的障がい者で、一時期一緒に住んだこともあったので、障がい者は身近な存在だった。しかも現在は障がい児も健常児と共に義務教育を受ける統合教育が一般的にもなっているので、子ども達にとっても障がい児はけっして遠い存在ではないし、息子たちを見ても互いの違いを受け入れて共に育っているのを感じる★1(←但し、その為には学校側の細心のケアが欠かせない)。もちろん障がいの程度に応じて、相応の専門的教育を受ける体制も整っていることが前提だ。

それでも一部の母親には未だ偏見が残っていて、徒にその存在を恐れたり、煙たがったりする人もいる。ある人は「障がいを持って生まれたお子さんは、自分達の子どもに成り代わって障がいを引き受けて生まれてくれた有り難い存在」というような発言をされていたが、これはこれで、健常児の親としての傲慢な発言とも受け取れて(悪気なないんだろうけれど、何だか障がいを得たことが”外れクジ<当たりクジ?>”と言っているようにも聞こえて)、私は素直に頷けなかった。

今井絵理子さんは、何より息子さんのありのままを受け入れ、息子さんを通して多くのことを新たに学んだだけでなく、溢れるような感謝の思いで日々を生きながら、多くの人々に対して力強いエール(応援メッセージ)を送っていることが素晴らしいと思う。彼女の歌手活動を通じて、中学生の頃からの彼女を知っているが、立派な大人になったなあ、頼もしい母親になったなあと、その成長には感慨深いものがある。その成長を促したのは他でもない、聴覚障がいを持って生まれた息子さんとの出会いだろう。その意味では、彼女の「でき婚」にも大きな意味があったのだろう。人生で経験することに無駄なことはひとつもないのだと、彼女の人間的成長を目の当たりにして、改めて思い知らされたような気がする。

★1 以前、テレビでボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に自宅が砲撃を受け、大やけどを負った少女が日本のNGOの援助で度々来日し、手術を受けているレポートを見た。その中で戦争の惨禍を訴えるために小学校を訪問するシーンがあったが、そこでも大やけどの後遺症で容貌に損傷のある(何度かの手術でだいぶ改善はされている)彼女を見た小学生は「気持ち悪い」「怖い」と言う容赦ない言葉を初対面で吐きながらも、一度うち解けて(=受け入れて)しまえば、彼女と屈託なく楽しげに会話していた。「子どもとは、そんな存在なのです」と付き添いのNGOの女性も、偏見に囚われない子どもの鷹揚さ、柔軟性を称えていた。だからこそ、子ども時代にさまざまな経験、見聞を通して視野を広げることは大事なんだと思う。

【追記】

彼女が息子さんの聴覚障害を公表したのが日テレの番組「24時間テレビ」中であったことを私は知らなかったが、その際に賛否両論あったことも知らなかった。ネット上のコメントを見るとかなり激しい批判もあったが、どんな言動であれ、さまざまな考えの人々がいる以上、多少の批判は避けられないことだろう。

しかし人間は自覚的に生きることによって絶えず成長することができる存在だと思う。彼女の過去の言動だけを見て、現在の彼女を批判することに何の意味があるのだろうか?彼女の人生において、彼女の過去の過ちを引き受けるのは彼女自身である。そのことによって息子さんも少なからず影響は受けるだろう。しかし、それが親子関係でもある。否応なく親と言う存在に振り回されるのも、子どもの運命のような気がする(だから、何でこんな親のもとに生まれたんだろうと悩むことになる)。誰しも自分自身を振り返れば思い当たることがあるのではないだろうか?

そもそも完璧な人間なんていない。その完璧でない人間が他者を批判することは、かなり高いハードルをクリアして初めて可能なことなのではないだろうか?そうでなければ、ただのイジメでしかないような気がする。他者を批判する前に、自分自身がそうするに値する人間なのか、常に自問する必要があるのかもしれないなあ…自戒を込めて




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