2008/3/17

あなたはそこにいるだけで十分に「かけがえのない存在です」  はなこ的考察―良いこと探し

 「自分探し」や「自己実現」。多くの人が自分の生き方を模索する中で、ひとつの目標(指標?)として念頭に置いている概念だろう。自分は「ただ生きる」のでなく、「何者か」でありたい。社会である一定のポジションを獲得し、他者に優る「特別な存在」でありたい。そういう他者との差別化で、自分自身のアイデンティティを確認したい。

 しかし、それに囚われるあまり、苦しんでいる人が多いようにも見える。本当に今の在りのままの自分では駄目なのか?在りのままの自分では、この世に、社会に、存在価値はないに等しいのか?自分は誰かに容易く取って代わられるような、そんな無価値な存在なのか?

 例えば、職場という限定的な場ならば、自分の代わりは幾らでもいるのかもしれない。常にスキルアップしなければ、自分のポジションはすぐさま他の誰かに脅かされるものかもしれない。しかし、人間の究極の生きる喜びは、ひとりの人間として、いかにその存在を認めて貰えるかどうかだろう。「職業」や「能力」は確かにかなり大きな部分を占めるかもしれないが(そしてその割合は人によってそれぞれ違うだろう)、それでも自分自身の人生の一部に過ぎない。本来ならば、ひとりひとりの人間の存在証明の方法は多様なはずだ。それなのに社会の大きな声は”キャリアアップ”と言う限定的な捉え方で「自己実現」を語り、多くの人々はそれ絶対視して自らの現状に不満を抱き、焦りを感じ、「自己実現」を図るべく、自らを追い立てている。

 しかし現実問題として社会の受け皿は思いの外小さく、人々の傾注した努力が社会的地位の獲得や経済的成功という形で報われることは少ない。おそらく人も羨むような「自己実現」を果たした人々の多くはごくごく一握りのスーパーマン か、余程の強運の持ち主か、或いは、その成功の代償に確実に何かを失っているはずである。それを一様に目指せと煽るマスコミは罪作りだと思うし、より良い人生を目指して努力することの意味は、それ以外のいろいろな価値観でもっと語られるべきものだと思う。もう少し社会が多様な価値観を認める器であれば、人々が自らの生き方の選択で苦しむこともないだろうに。

 …と言うようなことを、最近友人達と話していて感じた。私から見れば十分に恵まれた環境にあり、人間として十二分に魅力的な友人達が、懸命に努力しても報われない、必死に学んで(INPUT)もそれを還元(OUTPUT)する場がない焦りで苦しんでいるのを目の当たりにして、偏った価値観の下での上昇志向の脅迫観念に抗いたい気持ちになった。ひとりひとりの人間がもっと在りのままの自分を肯定できる社会になって欲しい。人々がそれぞれの立場を尊重できる社会であって欲しい。他者の生き方を徒に否定するような社会ではあって欲しくない。そうでなければ誰にとっても生きることは苦しいばかりになり、自らの人生に喜びが見いだせないと思うから。




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