2015/6/8

『トイレのピエタ』(日本、2015)&野田洋次郎の舞台挨拶  映画(今年公開の映画を中心に)

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 昨日、幸運にも川崎チネチッタ(本当にチネチッタは上映作品のチョイスが素晴らしい!)で、本作の舞台挨拶付き上映を見て来た。

 舞台挨拶では出演者の生の姿を見られるのと同時に、製作裏話を本人や監督自身の口から聞けるのが嬉しい。今回は本編上映終了後、余韻覚めやらぬうちに、松永大司監督と主演の野田洋次郎が登壇。お二方の挨拶の後、短いながらも観客との質疑応答の時間もあり、おかげで個人的には作品への愛着がより深まったように思う。

 舞台挨拶での発言:

 監督:郷里に戻った時に森林を背景に「威風堂々」を口ずさむシーンは、実はすべての撮影が終わった後に撮った拘りのシーン。なかなか納得のいくロケ地が見つからず、最後になってしまった。
 野田氏:死期を悟った宏の心情に寄り添い、宏として口ずさんだ。

 野田氏:実際の病院のロケでは、患者が使用直後のトイレで便座に顔を埋めるシーンを撮影したりと、多少キツイものがあった(笑)。

 野田氏:プール撮影のシーンは夕方からで、主演の自分は濡れてはいけないので、日中ひたすらプールに落ちた枯れ葉を掬っていた。撮影準備のスタッフはともかく、なぜか監督までプールに入っていた(笑)。


 本作は、野田洋次郎演じる園田宏(以下、宏)が、ある日突然、余命3カ月のガン宣告をされてからの日々を綴った物語だ。宣伝コピーでは「恋愛映画」と謳うが、個人的にはそれ以上に、自らの余命を否応なく知らされたひとりの人間の、生々しい生き様がドキュメンタリータッチで描かれていたのが印象的だった。本職はロック歌手だと言う野田氏が、あまりにも自然な佇まいで宏として居るので、そんな風に感じたのかもしれない。時折挟み込まれる何気ない風景描写も、宏の心情を映し出しているようで印象的だった。

 漫画家、故・手塚治虫の病床日記の中にあった草案をもとに、監督自ら脚本を書き上げた本作の撮影は1年にも及んだらしい。ヒロイン真衣役のオーディションにも1年をかけて、出演女優を選び抜いたと言う(その期待に、杉咲花は見事な演技で応えている)。最近の邦画にしては丁寧に時間をかけて作り込まれた作品であることは、本作を見ていて随所に感じられた。

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 宏は美大卒で、美大時代はその才能を高く評価されながらも、今は筆を折ってビル清掃に従事する20代後半のフリーターだ。そんな自分を宏は、「ビルの窓にへばりつく虫」と喩える。宏が絵を描くことを止めた理由は映画の中で語られない。宏自身も語らない。

クリックすると元のサイズで表示します 私は美大時代、絵画制作に没頭する学生を何人も見て来たし、卒業後は美術館の教育普及ボランティアとして、ギャラリートークの準備の為に様々な文献資料を読む中で、美術史に名を残した数多の画家の苦闘の生涯を知った。その経験を踏まえて改めて思うのは、才能で身を立てることの難しさである。

 才能、タレントは、熟練によって磨かれる技術、スキルとは明らかに異なるものだ。酷なことに、本人の努力とはあまり関係のないところで、天賦としか言いようのない他を圧倒する才能に"運"(←時代の変化の波に上手く乗れたとか、自分を引き上げてくれる人物との出会いとか、人を惹きつけて止まない恵まれた容姿の持ち主であるとか、生活不安を感じることなく創作に没頭できる経済環境にあるとか…)も味方して初めて、作品が世に出ることの方が多いのではないか?一握りの成功者の陰には、無数の夢破れた無名の人々がいる。

 だから宏が筆を折った理由も想像に難くない。その証左として、美大時代のかつての恋人さつき(市川紗椰)が登場するのだ。
 
クリックすると元のサイズで表示します タイトルの『トイレのピエタ』が意味するものは何か?それは、宏が自身の残された時間を費やして全身全霊をかけて遺した、彼が生きた証なのだと思う。実際、どのような作品なのかは、映画のクライマックスとも言えるその製作過程も含めて、映画で是非見ていただきたい。

 一般にイタリア語のピエタ(Pieta)は「哀悼」と訳され、十字架降下後のキリストの亡骸を抱えた聖母マリアの姿を表現した、キリスト教美術でも最もポピュラーな主題のひとつだ。

 長い歴史の中で繰り返し描かれ、彫られて来た主題だが、中でもヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロ作のピエタが最も有名である。これはミケランジェロが23〜25歳の頃の作品で、彼の初期の傑作と言われている。

 本作のレプリカが映画の中でも登場するが、さりげないほんの数分のシーンながら、宏が"表現者"として再び覚醒する重要なシーンだと思う。そこで、そのタイミングで、ピエタに出会わなければ、宏の中で「トイレにピエタ」なんて発想は湧かなかったはずだ。宏は、息子を失って悲しみの中にあるはずのマリア像の、かすかに微笑んでいるかのように見える柔和な表情に、安らぎを見出したのだろうか?

 ここで宏を"画家"ではなく、敢えて"表現者"としたのは、内側から迸る表現欲求に駆られて、憑かれたように創作に没頭する境地に至った人間は、もはや世間に認められたい、才能で名を成したいと言った功名心を超越した、純化した存在だと思うからだ。だから尊敬の念を込めて"表現者"と呼ばせて貰う。

 命の期限を知り、その後に出会った人々との関わり合いを通して、彼の中で潰えていたかに見えた創作への意欲が再び湧き上がる。都会の中で、自分は孤独で、取るに足らない存在だと思っていたのに、最期になって彼に対する人々の温かな思いを知る。死を間近に感じたからこその、感覚の鋭敏化とでも言おうか。

クリックすると元のサイズで表示します 17歳の女子高校生、真衣(杉咲花)。彼女もまた、人には言えぬ重い現実に喘ぎ、怒りと哀しみと孤独を抱えて生きていた。

 その真衣と宏の人生が、思いがけず病院の待合室で交差する。恋愛ドラマと言うには、あまりにも味気ない二人の出会い。互いの素性もあまり知らないまま、互いの孤独感を埋め合わせるかのように、二人は次第に心を通い合わせて行く。

 真衣は時に辛らつで、強引で、激情を所構わずストレートにぶつけて来る。死期の迫った重病人の宏に対してさえ遠慮会釈なく。しかし、病人として気遣われるより、その方が宏には気が楽だった。真衣の強引さに振り回され戸惑う宏だったが、彼の中で彼女の存在は次第に大きくなって行く…

 真衣を演じた杉咲花が、その小柄な身体のどこからエネルギーが迸るのかと思うほど力強い演技を見せてくれた。以前、彼女がバラエティ番組にゲスト出演したのを見たことがあるが、普段の彼女は、耳をそばだてないと聞こえないほどか細い声でしゃべる人のようだ。ところが、映画の中の彼女は、全速力で走り(転倒し)、大声で喚き、自在に泳ぎ、まるで別人のようだった。まさに憑依型の女優と言えるだろうか?ともあれ、今後が楽しみな若手女優のひとりだと思う。

 今回、彼女の舞台挨拶も楽しみにしていたのだが、残念ながらチネチッタには来場せず。演技と違って、素の彼女は、大勢の前で素の自分をさらけ出せるような大胆さを持ち合わせていないと言うことなのだろうか?
 
 他に、最近俳優としての活躍が目立つリリー・フランキーが一見飄々として掴みどころのない中年男の、拠り所のない哀しみを巧く表現していて印象に残った。ほぼ同世代と言うこともあってか、彼の台詞が逐一心に引っ掛かった。彼は演技巧者と言うより存在そのものが稀有な持ち味で、最近の人間ドラマには欠かせない役者になったなあ。

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 私はどちらか言うと長生き願望がなく、自分が幼い頃に思い描いた人生をこれまでにほぼ実現しているので、いつ死んでも悔いはないと思っているが、こうした作品を見ると、改めて自分の生き方について考え込んでしまう。自分が生の充実感を持つ瞬間て、人生の中で一体どれだけあるのだろう?50年あまり生きて来て、果たして今まで、何回あったのだろう?自分は与えられた命を大切にしているのか?寧ろ粗末にしているのではないか?もっと真剣に人生に向き合うべきなんだろうか?と。

 エンドロールに流れた野田氏の作詞作曲による主題歌も、歌詞が映画の内容と見事にリンクしていて、画面上の歌詞を目で追いつつ、野田氏の歌声を聴きながら、作品世界の余韻に浸れて、とても良かった。撮影終了5日後、打ち上げの席?でスタッフに初披露したと言うその曲の歌詞は、野田洋次郎と言うより、宏の心情をそのまま綴ったかのようだった。少なくとも撮影の間、野田氏は宏そのものであったのかもしれない。

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