2014/4/2


人に優しく。

たぶん最近、どこかで目にした、或いは耳にしたフレーズなのかもしれない。なぜか、このフレーズが頭から離れない。

最近、身近で"いじめ"を目撃したからかもしれない。

大人になっても人間て、懲りずに弱い者いじめをするもんなんだな。いい年した大人の女達が少女時代の延長でつるんで、他人に特定の人の悪口をいいふらし、帰属する集団から排除しようとしている。いろいろ理由はあるんだろうけれど、傍から見ると、気に入らない人間をいじめているようにしか見えない(ついでに言うと、私は「女子会」なる言葉が大嫌いだ。人間はどうしても自分の使う言葉に縛られる。支配される。その原理で考えれば「女子会」は、女性の成熟化を妨げている。少女還りを促している)

道理で、子どもの世界でもいじめはなくならないわけだ。しかも、いじめる側の人達は根っからの悪人でもない。優れた能力を持ち、素晴らしい一面も持った人達なのだ。それだけに、とても残念だ(ここで断っておきますが、このことで彼女達を嫌いになることはないです。なぜなら、すべてに完璧な人間など存在しないし、かくいう私も短所を幾つも持った人間だからです。ただし、いつ、その攻撃の矛先が私に向けられるか知れない、と言う不信感は芽生えてしまったかもしれない…)

そうしたいじめへの対抗策は、彼女達の悪口に同調しないことだ。悪口の対象になっている人物を色メガネで見たりせずに、今までと変わりなく付き合うことだ。

『負け犬の遠吠え』で知られるエッセイスト酒井順子女史は、その著書『下に見る人』で、僅かな差異をことさら大きく捉えて他人を格付けし、帰属する集団から異質な存在を排除しようとする(著者自身も含めた)人間の"業"のおぞましさを、個人的体験を淡々と綴りながら分析していたけれど、人間は所詮そんな生き物なんだと端から諦めて良いはずがない。


言うまでもなく、人間の能力には個人差がある。思うに、それは生まれながらのものに、環境や教育機会の差や本人の性格等、さまざまな要因が相俟って生じたものだろう。

それでは、その能力差は人間の存在価値を決定づけるものなのか、と言えば、そんなことはないはずだ。そもそも能力と一口に言っても、実際はさまざまなバリエーションがあるだろう。社会で求められる能力も、時代や社会の在り方によって変わるはずだ。

一般に現代社会において重視される仕事の効率性で言えば、「情報処理能力」「判断力」「注意力」「問題発見&解決能力」などが問われるんだろうけれど、それが多少劣るからと言って、それで個人の存在を全否定されるいわれはないと思う。

もし、チームで仕事をするなら、(人命や組織の存亡に関わる事など)よほど重要な仕事でない限り"少数精鋭"である必要もなく、志のある何人かが寄り集まって、その中の能力のより高い者が低い者をサポートすれば良いだけの話。たとえ個々のメンバーにとりこぼしが発生したとしても、他のメンバーのリカバリーで、無事に仕事の目的が達せられたなら、それで良しとする。チームで働くと言うことは、つまり、そういうことなのではないか。殆どの組織が、実質そんなものなのではないか?

私自身、特段能力が優れているわけではない。だから、「あの人は能力がない」とか誰かが、誰かを罵っているのを耳にすると、まるで自分が罵られているかのように思えて、心が苦しくなる。特に、身近な人の悪口は聞きたくない。


想像してみて欲しい。

世の中、秀才ばかりで(結局、その中でもちょっとした差異で格付けがなされるんだよね)、常に他者に負けじと切磋琢磨し、競争の絶えない社会を。

常に効率優先で、それを妨げる存在を容赦なく排除する社会を。

うわぁ、殺伐としている…

常に競争に晒される状態では、緊張感で神経が磨り減ってしまいそうだ。自分で自分の命を削るようなものだ。実際、そのような社会は高ストレス社会で、自殺者も多い。

仮に現在、心身共に健康で頭脳明晰でも、いつ何時、事故や病気で、社会的弱者になるか知れない。さらに、誰もが確実に年を取り、衰えて行く。

未来永劫、絶対強者でもない自分を自覚してもなお、自分より「格下」(と、自分で思っているだけ)の人を、「能力が劣るから関わりたくない。一緒に仕事したくない」と言えるのだろうか?

「格下」と見ている人物の意欲や努力は、一切評価しないのか?


結局、他人の失敗を許せないのは、自分の心が「寛容さ」を失っているということではないのか?(キリスト教の観点から言えば、それは自分自身に「愛」が足りない状態、人を思いやれる余裕が心にない状態なんだろうね) 

他人の失敗が許せない時、それは本当に許し難いことなのかと、まず、自分の心に問いかけるべきではないのか?(聖書には「貧しい者は幸い」など、逆説的な表現が多いけれど、それは謙虚に自分自身を見つめ、自分の足りない部分を自覚する者こそが、神に愛される存在と言いたいのかなと、私なりに解釈している。別にクリスチャンではないけれど)


因果応報。人に厳しくすれば、それはいつか自分に返って来る。結局、自分で自分の首を絞めることになる。

人に優しくすれば、それもいつか自分に返って来る。思いがけず、人の情けに救われることがあるかもしれない。「情けは人の為ならず」の原理である。

人に優しく(自分には多少厳しく)。結果的に、それが自分も他人も生かすことになるのではないか。


「人に優しく」することは、自分自身が人間として抱える"業"との闘いなのかもしれないけれど、だからこそ、私は行動規範として「人に優しく」を心がけたい。他人を変えようと直接働きかけるのでなく、自分の考えは、自分の行動で示すしかないと思っている。

なぜなら人間は謙虚に他者から学ぶ姿勢がなければ、何の気づきも得られないし、自分で変わろうと思わない限り、変われないから。50年余り生きて来て、そんなことをつくづく思う。

類似したテーマの本ブログ中の記事:「このままで良いのか?」



2014/4/8  7:52

投稿者:管理人はなこ

Sakuraiさん、コメントをありがとうございます。

かつて数学者にして大道芸人のピーター・フランクル氏が講演会で、「貧しい国の人々が助け合うのは、そうせずには生きて行けないからだ」と言っていました。

逆に日本人は経済的豊かさを得るにつれ、お互いに助け合わなくとも生きて行けるようになり、かつてほど他人を気遣う必要性を感じなくなってしまったのかもしれませんね。

それに都会は一極集中の弊害で、ことさら効率性。利便性を追求する土地柄です。それを妨げる存在を必要以上に厭う傾向が否めません。赤ちゃん然り、障がい者然り、老人然り。

さらに、私の世代以降で進学を機に地方から上京した人は、地方でも豊かな家庭の出身者が殆どでしょう。もちろん全員とは言いませんが、中には自分自身の能力に自信がある一方で、地方出身であることに少なからずコンプレックスを抱き、都会で生まれ育った人以上に、都会人であろうと粋がる人もいるのかもしれません(過剰適応?)。そういう人に限ってコンプレックスの裏返しで、やたらとプライドが高く、慢心して、人を見下す傾向があるように思います。尤も、そう言う常にアグレッシブ?な人の存在が、東京と言う街を活気づけている一面も否定できないわけですが。

そもそも出身を問わず、慢心状態にある人は、自分中心に物事を考えがちで、他人を見下しがちです。自分の状態を本人が一番分かっていません。他人に指摘されても、それを認めようとはしないでしょう。

自分自身の誤謬性を常に忘れるな、が、頂門の一針です。この記事を書いた私も、厳密には「人に優しい」とは言えないのかもしれません。

2014/4/5  22:05

投稿者:Sakurai Eiji

団塊の世代以降の人は、日本の経済発展と共に公園や遊び場所を失ってしまったこともありますが、TVやゲームの普及で友達と遊ぶ機会も必要もなくなり、学校では偏差値偏向教育で仲間と足の引っ張り合いの中で育って来た人が多い結果、誰もがそうだというわけではありませんが、「人に優しく」という気持ちが失われてしまったのだと思います。
そういう大人が次の世代に「人に優しく」なんて言っても説得力がないのは当然だと思います。悲観的なことを言うようですが、日本がかつての敗戦のように、一度どん底まで落ちて一致協力して再建を図るような事態にならない限りこの風潮は改まらないと思います。

http://ouno


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