2014/3/17

我が子への贈り物(1)  はなこ的考察―良いこと探し

待望の我が子を授かって私が思ったことは、「我が子をできる限りいろいろな所に連れて行き、さまざまな経験をさせてあげたい」だった。

生後3カ月の息子をベビーカーに乗せて動物園に行ったのを皮切りに、私なりに(まあ、殆ど私の趣味に付き合わせた形だけれど)いろいろな所へ息子を連れて行った。

無謀と思いながらも、生後4カ月の息子を背中におぶって、渋谷の美術館にも行った。初めて訪れる美術館の雰囲気に、息子がどんな反応を見せるか不安だったが、意外にも美術館独特の雰囲気にのまれることなく、息子は私の肩越しに物珍しげに作品を覗いては、時々楽しそうに手足をバタバタと動かした。母親の楽しい気分が、背中の温もりを通して息子にも伝わったのだろうか。

その後息子が7カ月の時に中東に赴任し、駐在は彼が3歳半になるまで続いたので、彼の乳幼児期は少し特殊な環境で過ごすことになった。まず、赴任先には同年代の日本人の子どもが皆無で、息子は同年代の遊び相手に事欠いた。さらに、そもそも家族帯同者が少なかったので、末端の駐在員妻である私でさえ、たびたび大使館の行事に駆り出され、息子をフィリピン人のベビーシッターに預けなければならなかった。

日本と違って児童公園などなく、私たちが住む山手地区は基本的に車社会のせいか、近所で日中、外を出歩いている親子連れを見かけることも殆どなかった(小柄な東洋人の私などが出歩くと、メイドに間違われたりする)。同世代の子どもとの交流が殆どない息子があまりにも不憫だったので、彼が3歳の時に現地の保育園に毎日午前中預けてみたこともあった。しかし、保育園から戻って来た直後の彼のグッタリした様子を見ると、やはり日本語もおぼつかない時期に、全く未知のアラビア語の中で過ごさせるのは酷だと感じ、数カ月でやめさせた。

結局、良くも悪くも、その間、息子は自宅では両親の日本語とフィリピン人ベビーシッターの英語、保育園ではアラビア語のシャワーを浴びたことになる。息子は英語は分からないながらも、彼をとても可愛がってくれるベビーシッターの愛情は理解していたようで、彼女にとてもなついていた。帰国する頃にはカタコトのアラビア語も理解し、自分のことを「アナ(アラビア語で「私」)と呼んだり、日本語の発音が時折アラビア語っぽくなることがあった。

そんな環境で幼児期を過ごしたせいか、或いは、私の日本語での言葉かけが足りなかったせいなのか(←今、振り返ると、これが一番の原因だったような気がする。帰国後、若いお母さんがゆっくりと丁寧に我が子に話かけているのを見て、自分自身の親としての至らなさを反省した当時はインターネットを使える環境になく、周りに気軽に相談できる相手もおらず、孤独で手探りの子育てだったこともあるが…)、さらには中途半端な時期に帰国した為、幼稚園にも入れず、公園に行っても親子共々、既存の遊び仲間にも入れて貰えなかったせいもあってか、息子には言葉の遅れが目立った。

半年余り親子で幾つかの公園を放浪後、やっと幼稚園の年中組に入れた息子には、言葉の運用力、ひいては国語力に難があり、そのことが原因で、中学生の頃まで学校の勉強にも苦労したようだ。特に読解力が弱く、読書や作文が苦手だった。その苦手意識は大学受験まで尾を引いた。

ただ、息子の言葉に遅れに関して、私はそれほど心配はしていなかった。なぜなら、私自身、小学校の低学年の頃まで、学校では年に一言、ふた言程度しかしゃべらない、かなり無口な子で、語彙力に難のある子だったからだ。親が教育に無頓着で、私は小学校に入るまで字も書けず、入学後に初めて、左利きでは漢字を書く時に運筆が不便だと気付いたほどだ(右利きの人は気付かないかもしれないが、左利きは左から右に運筆することが苦手である。だから左から右に運筆することの多い漢字は書きづらく、手首にも負担がかかるのだ)。そんな私でも、引っ越しで環境が変わったのを機に、努力して国語力を磨き(具体的には小3の時に、1日に1冊以上の本を読むこと、ローカル新聞を隅から隅まで読むことを自らに課し、知らない言葉があれば片っ端から、それこそ国語辞典一冊がボロボロになるまで引いて調べた)、高学年になる頃には作文で幾つものコンクールに入賞するまでになった(内、一作は全国誌に掲載され、それを読んでくれた秋田県在住の子から文通を申し込まれ、以後、文通は14年間続いた。)

人間は他者と積極的に触れあい、コミュニケーションを取る中で、知的刺激を受け、言葉の運用能力も上達して行くものだろう。幼児期の息子には、その機会が圧倒的に欠けていた。だから他の子ども達より発達が多少遅れているのは仕方ないし、これから時間をかけて徐々に追いついて行けば良いと私は考えた。それに、人間の自己表現の手段は言葉だけではない。息子は幼稚園で絵を描くことの楽しみを知ったようで、小学校に入ると近所の絵画教室に通い始めた。

絵画教室では水彩画や工作はもちろん、油彩画も手がけ、年に1度は県展のジュニア部門に作品を出品する機会もあった。息子は色彩豊かな作品を描く。何度か挑戦する中で2度入賞を果たし、その内の1点は海外交流展の作品に選出され、海を渡った。そんな経験を重ねるうちに、言葉の遅れもあって引っ込み思案だった息子も、徐々に自信を得て行ったようだ。

小学生の間は他にも地元の子供会や、自治体が主催する子ども向けのサークル活動や、卒園した幼稚園が主催する林間学校などに参加して、地域の人々との交流も大事にするよう心がけた。息子は何れ地元を離れることになるかもしれないが、自分が育った地元への愛着は持ち続けて欲しいと思う。

小3〜小4にかけて、息子は英語劇で有名なMLSにも通った。通常はネイティブの教師の指導の下、英会話を学び、年に1度、大きな会場で英語劇を披露する。普段は恥ずかしがり屋の息子が、舞台上では大声で堂々と演技する姿に、子どもの無限の可能性を感じた。どんな子どもでもチャレンジの機会が与えられれば、新しい自分を発見し、成長する可能性を秘めていると確信した。

息子が幼稚園の年中組に入ったのとほぼ同時に、マンションを購入した。駅からバス便とは言え比較的交通至便であったのと、マンションの駐車料金を含めた自家用車の維持費が無駄に思えたので、車は購入2年で手放し、移動にはもっぱら公共交通機関を利用するようになった。交通機関では、よほど疲れていない限り、息子を座席には座らせなかった。

さらに、今も開催されているのか知らないが、息子が小学生の頃、鉄道会社の主催で、沿線のウォーキング・コースを数時間かけて踏破するイベントが毎月のようにあり、我が家はそれに積極的に参加した。コースは多彩で、平坦な道だけでなく、箱根の旧東海道や広大な緑地の遊歩道など起伏に富んだ地形を踏破するものも多く、数時間、汗だくになって歩くことも少なくなかった。これと並行して、ガイドブックを頼りに、都内を中心に街散歩にも家族でよく出かけたので、息子は自ずと足腰が鍛えられたのではないだろうか?おかげで息子は、今では旅先でも長時間の歩行を厭わない人間になっているし、休日など思い立って数時間、散歩に出かけることも多い。

最近は、駅のホームやバス停で、ほんのわずかな時間さえ立ち続けることができないのか、突然座り込む若者や子どもの姿を多く見かけるが、普段から足腰の鍛錬が足りないのではないかと、見かけるたびに思う。山登りにグループで意気揚々と出かける年配の方々の方が、彼らよりよほど足腰が丈夫なのではないだろうか。また、地方は都会以上に車社会で、車で子どもの学校や塾への送迎をしたり、買い物や公園など、どこへ行くにも自宅から目的地まで車での移動が多く、自分の足で歩く機会は都会の人間より少ないと聞く。ウォーキングは気軽に持続的に、生涯に渡ってできる運動である。その習慣づけが子どものうちになされないのは、将来の健康が思いやられる事態だと思う。




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