Buried a Girl

2021/8/27 | 投稿者: pdo

【今日の一曲目】エンジェル・ダスター/ストリート・スライダーズ(ハリーの回復祈念)

※動画は曲とは無関係です

作家・桜庭一樹が「文學界」9月号に発表した中編私小説「少女を埋める」がホットなトピックになっているもよう。

何が問題になっているかというと、自分が見た感じでは、

1 この小説を書評家・鴻巣友季子が朝日新聞の文芸時評の中で取り上げた。

2 そこには、主人公(作家である私)の母親が、夫である作家の父親を介護中に虐待していたと書かれていた。

3 作家は、自分が小説に書いていないことを書いたかのように書かれていると抗議し、記事の訂正を求めた。

4 しかし書評家は論評の範囲内であるとして訂正を拒否し、朝日も訂正記事を載せるつもりはないと返事した。

5 そこで作家は、訂正されなければ現在関わっている朝日関係の仕事から全部降りると朝日に通告した。

6 作家は、この一連の経緯をツイッターで公表した。

この小説は今全体の3分の2くらいが無料公開されている

朝日の文芸時評は、ネット上で全文を読むことは出来ない。

作家がツイッターの中で引用している部分には、こう書かれている。

語り手の直木賞作家「冬子」も故郷から逃げてきた、ある種のケア放棄者だ。地元を敬遠するようになった一因は神社宮司との結婚話にある。「神社の嫁になり、嫁の務めを果たしながら空き時間で小説を書け」という勧めに抗し、冬子は小説家のキャリアを選ぶが、家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は「怒りの発作」を抱え、夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ(下線部は引用者による)

ちなみに、ネットで読める冒頭部分では、文芸時評のタイトルが

ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む

となっており、

サン=テグジュペリは第2次大戦中、米国に亡命し『星の王子さま』を書いた。同作には祖国を出ていった者の惑いが投影されている。

王子の内なる闇が、子供の私には理解できなかった。ところが最近再読すると、この少年がヤングケアラーに見えてきたのだ。


という書き出しで始っている。

この紛争の中にはいくつもの論点があって、それぞれ分けて論じる必要がある。

(1)この文芸時評の記述が〈テキストの合理的解釈を逸脱した誤読〉であるといえるか

(2)この文芸時評の記述が、「評者が読み解いた解釈を、テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」もの(作家の主張)だといえるか

(3)そもそも作家が書評の訂正を求めることができるか

(4)訂正されなければ他の仕事を降りるという作家の要求方法をどう考えるか

(5)これらの経緯を作家自身がツイッターで公表することについてどう考えるか

(6)私小説という創作物への批評において実在のモデルに対する名誉棄損等が成立するか

(7)文芸批評において、小説内容についての記述は〈批評そのもの〉には含まれないと考えるべきか

(8)私小説という表現方法の孕む問題について、作家と批評家の倫理について

派生的なものも含めまだまだ論点はあると思うが、とりあえず上に挙げたものだけについてもそれぞれにかなりの考察が必要であろう。

(1)については、書評者が自らの解釈の理由を書いている。

8月の朝日新聞文芸時評について。

この中で評者は、テキストの中から二か所の具体的記述を指摘しつつ、主人公が小説家を目指して上京した後、独りで夫の看護・介護を担っていた主人公の母が、父が病気になる前にも、看護・介護中にも父を「いじめ」ていたと読み取ったと主張している。

またそのように読み取った別の理由として、「本作は時系列に沿って語るのではなく、過去・現在と時間を行き来し、父とその葬儀のこと、冬子の進行中の仕事のこと、友人たちとのLINEでのやりとりなどが並列で語られ、そこに冬子の心情や考えなども織り交ぜながら重層的に語られてい」る、「挿話と挿話の連携はゆるやかで、そのなかに家族の来し方が、ときに断片的に浮かびあがって」くるなどの「語り」の手法を選んだ時点で、読者に余白の解釈をゆだねるような書き方がされていることを述べる。

そして、「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいこと」であるという。

僕はこの評者の意見を先に読んで納得してしまったため、作者が誤読であると主張する理由がよく分らなかったのだが、その後にnoteで(3分の2だけ)公開された小説自体(上記リンク参照)を読むと、確かに作者の言い分も分るな、と思った。

僕がこの小説(の3分の2)を読んだ最初の感想は、これは私小説というよりはエッセイ(随筆)であり、一個の私小説作品としては弱すぎて成立していない、というものだった。

私小説は当然ながら純然たる〈フィクション(創作物)〉である。日記や随想ではない。僕がこれまで読んで来た〈私小説〉の基準からすると、この〈小説〉は作者が小説の主人公〈わたし〉を十分に突き放しておらず、ほとんど完全に同化してしまっている。だから〈わたし〉と母親、〈わたし〉と父親の関係は生(ナマ)の作家である自分と完全に“地続き”のものであり、〈わたし〉とこの小説世界との関係も、作者と、この小説を読み、また朝日新聞の書評を読むであろう世間の(作者の地元の)人々との関係と完全に地続きである。僕の理解では、私小説とはそうしたものではありえない。ここに今回の問題の根源がある。

それを前提とした上でいえば、書評者の、母が介護中に父を「いじめ」ていた(虐待していた)という小説内容(あらすじ)の要約は、作者の意図とは異なるという意味では〈誤読〉である。

だが、テキストを丹念に読み込めば、そのような〈読み〉を否定することもまたできない。というより、そのように(作者の意図を超えて)読み込んだ方が、ずっとこの作品は興味深い(面白い)ものとなるだろう。

たとえば、〈わたし〉が父親が危篤であるとの知らせを母から受けた後、病院に入院している父親とリモート面会するときの描写。

 日差しの暖かい窓際の床にiPadを置き、覗きこんだ。オンライン上で、わたしが斜め上から覗き、父はベッドからこちらを見上げている形になる。
 意識があるかわからない。「お父さん」と話しかける。言いたいことはたくさんあったが、自然と口をついて「ずっと帰らなくてごめんなさい」「わたしが全部悪かった」「あんなに可愛がってくれたのに、あんなにいいお父さんだったのに、本当にごめんなさい」「お父さん」「お母さんとも仲良くするからね」「お父さん」と言葉が出た。
 それ以外のことは、これからもしばらくは生きているだろう自分が抱えるのだと思った。


東京で小説家になり、七年間いちども帰省していない娘が、液晶越しに意識があるかわからない父親に語りかける言葉の、とってつけたような薄っぺらさの底に、何か深く抑圧された感情を読み取ることは十分に可能であろう。

そして、次の箇所からは、この核家族の〈解体〉の中に〈わたし〉もその原因のひとつである両親相互の関係の深い亀裂が含まれていると読み取ることもできる。

 うちは父母と娘の核家族だった。平凡な、日本中にたくさんある、ごく普通の家族だった。
 あの家族はなぜ解体したのだろうか?「わたしが全部悪かった」とさっき、とっさに言った。確かにこの口がそう言った。……では、そうなのか? 誰が、もしくは何が悪かったか……べつの犯人もいるのか?
 いや、それともやはり、このわたしが犯人か。


そして僕が一番気になったのはこの描写である。

 十年以上前から、母は実家にわたしをなるべく入れないようにしていた。帰省したとき駅前のビジホに泊まるのは、コロナに関係なく以前からのことだ。年末年始に帰省し、一人でビジホに泊まるのは、正直気が重かった。実家には夕飯時に訪ね、食事して、居間とトイレだけを使っていた。
 一軒家の二階にあるわたしの子供部屋だった部屋は、母が使うようになっていたのだが、最後に二階に上がったとき、部屋の壁すべてと、勉強机と、ベッドサイドに、筆記体のような読み辛い文字を書いた大小様々な付箋が『耳なし芳一』の昔話みたいに隙間なくびっしりと貼ってあった。
 いま実家の内がどうなっているのか、わからない。


娘が帰省しても実家に入れないようにする母親。それが十年以上続いている。

ベッドサイドに『耳なし芳一』の昔話みたいに隙間なくびっしりと貼られている、筆記体のような読み辛い文字を書いた大小様々な付箋。

これらのイメージから、実家の中で進行していた何か不穏な事象を感じることも可能だし、むしろそのような連想に誘うよう意図的に書かれているとしか思えない。

なんせ全体の3分の2しか読んでいないのでこれ以上の指摘は止めるが、この小説には、家族内の不穏で緊張した関係を暗示する描写がいくつもあり、それにもかかわらず、作者自身は全体として何か肯定的なもの(家族間の絆とか愛情とか)を伝えようと(無理)していることが感じ取れる。このような「書き方」は作者の意図とは外れた〈誤読〉を容易に生み出しうるし、むしろ積極的に〈誤読〉することが、作者自身が意識していない何か不穏な緊張を炙り出すことにつながる。

今回の作者によるヒステリックとも思える反応は、その不穏な緊張の発現のひとつとも思えるのである――。

以下つづく(かもしれない)


【今日の二曲目】Charles Mingus - The Black Saint and the Sinner Lady



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