抱擁家族(11)

2021/7/19 | 投稿者: pdo


「だんなさま」
 とみちよが寄ってきた。
「だんなさま、どうして奥さまに話されたんですか。胸にたたんでおくものとばかし思ったんで話したんですよ。奥さまにどうなさったんですか。夫婦生活の座談会に出たりなさるから物わかりのいい方だと思って話したんですよ。奥さまだって、先生は理解があると思っていらっしゃるんですよ。だから・・・」
「だから、ああいうことをしたというのか」
 俊介は息をはずませた。
「きみは、向うへ行っていたまえ、よかったら荷物をまとめて帰るがいいよ」
「何でございますか」
 いつものように言葉だけは丁寧だが、みちよは、顔をあげ、彼を睨んだ。その顔は真っ赤になっていた。これはいけないと警戒しながらも、彼はいった。
「きみまでもいっしょになって、毎日そんなことばかり茶のみ話にしていたんだろう」
「私はひきとらせていただきます」
「いいかね、これは僕がそういったのだ。家内とかんけいなく、僕がきみにそういい、それできみは帰るのだ。これからは一切僕の命令の通りにする。きみはおれのいう通りにするのだ」
 俊介はわざと時子にきこえるようにいった。それによって、みちよを宥めたつもりだった。
「私は誰にも命令されません」
 みちよはまた顔をあげて、こんどは軽蔑したように口をゆがめ大ゲサに肩をゆすぶって笑いだした。
「いいか。ヘンリーさんにもいってくれ。どうしてあんな男をこの家へよこしたのだとね」
 俊介は応接間へ引返した。ヘンリーがよこしたとは俊介も思っているわけではなかった。時子は頬に手をあてたままぼんやり考えこんでいた。


時子に問い詰めたら「あんたがそんなんじゃだめよ」と逆にたしなめられ、今度はみちよにも「どうして胸にたたんでおかなかったのか」と叱られる。

この個所については、何度も引いている「男流文学論」からまた引用したい。

上野 …他の作家と(小島信夫の)どこが違うかといえば、たとえば三島はアレゴリーそのものの小説を書く人ですね。谷崎もそうですね。小島のこの作品はアレゴリーでは全然ない。アレゴリカルな小説だったら、ある類型がどういうときにどういう行動をしてというふうな一種のパターンがありますね。これはパターンが読めない混乱がそのまま出ているでしょう?

富岡 いちばん小説的ですよ。

上野 そうです、そのとおりです。たとえばみちよが、「だんなさま、どうして奥さまに話されたんですか。胸にたたんでおくものとばかし思ったんで話したんですよ。」というシーンがあります。谷崎流のアレゴリカルな小説作法なら、主人公が秘密を胸にたたんだその時点から、夫婦ゲームがスタートするんです。

富岡 そう、そう。ないしょで日記を読んだりね。

上野 で、妻のほうは、あの人は私がジョージとできているのを知っているに違いない、だがそのことを、私は気がついていないというふうにあの人に思わせなければならない、とかね。そういうところからダイナミックスがはじまるんだろうと思うんですが、これはそうじゃないでしょう。だとしたら、そういうことを胸にたたんでおく人間と、そうじゃない人間をくらべれば、私はたたんでおく人間のほうが好きだ、という好みの問題です。

富岡 そっちのほうが、いわゆる「文学的」なんです。たたんでいるほうが。昔風にいう文学的なんですよ。胸にたたむほうが。小島信夫の新しさというのは、たたまないことですよ。


この理屈でいえば、時子もみちよも俊介のことを「文学者」だと思っていて、文学者というのは、こういうことを知らされても「胸にたたむ」人間だと考えていたということか。

もうひとつ、時子の行動については、大庭みな子が「時子が小島信夫の『女流』を読んでいたから」という説を唱えていてこれも面白いので、また紹介したい。
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