抱擁家族【10】

2021/7/18 | 投稿者: pdo

 俊介はみちよの言葉をぼんやりときいていた。それから、もうよせ、お前が時子に電話して帰るようにいえ、いや、僕がそうする、と俊介はたてつづけにいって受話器をとりあげた。
「はい、はい」という時子の明るいおちついた声がした。
 第三者の前ではそういう声を出すのだ。俊介は時子がもどってくるのを外に出て待っていた。時子が角をまがってうつむき気味にやってくると、俊介は自分から近づいて、「ちょっと家へ入れ」といった。一刻も早く家の中に入れてしまおうと思った。時子のあとについて家に入った俊介は、時子の背中を押してソファの上へ倒して「お前、何をした」といった。
「何よう」といいながら時子が起きあがった。これから何をいい、何をしたらいいだろう。そういうことは、どの本にも書いてはいなかったし、誰にも教わったことがない。
「お前があの男としたことは、全部きいた。お前は三時間もあの男をはなさなかったそうじゃないか」
 俊介はまだ半分倒れたままになって自分を眺めている時子の髪の毛の中に手をつっこんで一にぎりすると、身体をひきずりあげた。それからまた転がすように倒して、拳骨で二つ三つなぐりつけた。
 時子は髪に手をやりながら、
「誰がそんなこといったのよう」
「みちよがいったんだ」
「みちよが?」
 時子は頬をおさえながら考えこんだ。
「おれが最初から嫌いなみちよがそういったんだ」
「どうして、みちよが・・・」
「ジョージがみちよにいったんだ」
「ジョージが?」
 俊介が大きな声でいった。
「これからのお前が、あの男にはこわいのだそうだ」
「私はそのうち話すつもりでいたのよ」
 時子は呟くようにいった。
 俊介はうつろに笑った。
「さあ、出ていくか、どうするんだ」
「これは私の家よ。私が苦労して建てた家よ」
「もうお前の家じゃない」
「おねがいだから、そうわめかないでよ」
「・・・・・・・・・」
「こういうときにあんたがわめいちゃ、だめよ」
 と時子がいった。
 俊介は時子をそのままにして奥へ入った。


みちよから、妻の時子がジョージと関係していることを告げられた(具体的にどう告げられたのかについては書かれていない)俊介は、みずから時子に電話をかけて戻って来いという。

外に出て時子の帰りを待ち、時子を家の中に入れると、ソファの上に倒して、「お前、何をした」という。これまで、てれたり、優しい声で調子を合わせたりして、時子に卑屈とも思えるような態度をとってきた俊介の、ずいぶん思い切った行動である。

しかし、内心では途惑っている俊介であった。

これから何をいい、何をしたらいいだろう。そういうことは、どの本にも書いてはいなかったし、誰にも教わったことがない。

内心ビクつきながらも、何とか威厳を保とうするかのように、俊介は時子に暴力をふるう。

時子もまた途惑っている。それは、俊介に詰問されたからというより、いつか俊介に知られるだろうと予感はしていたが(いざとなったら自分からいうつもりもあったが)、こんな風に、みちよが告げ口するとは思っていなかったからだろう。

時子はみちよにはジョージとのことを話していなかったのに、どうして知っているのか? まさかジョージがみちよに話したのか? どうして? 時子の関心はそこにあり、俊介が自分をどうこうできるなどとは思わないから、恐れることもない。時子は俊介の内心のビクつきを見抜いている。

「こういうときにあんたがわめいちゃ、だめよ」

と時子がいうのは、妻を寝取られて取り乱す夫、という見苦しい姿をみちよに見せてはいけない、みちよだけでなく、妻である私に見せてもだめだ、といっているのだ。

このことについてはまた触れるとして、ここでも注目すべき箇所は、俊介の

「おれが最初から嫌いなみちよがそういったんだ」

という絶妙に情けないセリフである。

こんなところで「おれが最初から嫌いな」なんていう必要なんてないのに、「みちよが来てからこの家は汚れている」とずっと心の中でつぶやいていた俊介の本音がポロっとでてしまった。

これが志賀直哉の小説だったら、むしろ啖呵を切った、と思えるようなセリフを、小島信夫は完全に骨抜きにしている。

こういうコミカルさは、『抱擁家族』以前の日本の小説に存在したのだろうか。『抱擁家族』は、日本人に〈悲喜劇〉というものの精髄を味わわせてくれる、たぶん日本で初めての小説だったといえるのではないか?
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