抱擁家族(5)

2021/7/12 | 投稿者: pdo

 みちよがいった。
「奥さま、坊やにダンスを教えてもらいなさいよ」
「まあ、そのうちにね」
 みちよはそれから、ジョージに「支那の夜」を歌わせた。
「歌詞はともかくとして、オンチだわね」
 と妻がいった。俊介は自分で歌ってきかせた。そうしているうちに、彼は次第に我を忘れていった。
「あんた、よしなさいよ。こんな下らんことのおつきあいをしてないで、出かけるなり仕事をするなりしてよ。いい年をして、若いつもりでいても、もう四十五よ」
 俊介は立ちあがった。
 妻がそのままにしているのを見ると、俊介は隣りの部屋からちょっと、と呼んだ。
「何よ」
 時子はしぶしぶやってきた。
「何って、旅行は行かないことは分ったが、車は当分買えないよ。免許をとって気の毒だけどな」
「そんなこというために、私を呼んだの」
 俊介は、出かけるところが急になくなってしまったような気がした。忙しいのに昔の流行歌まで声をはりあげてうたっていたことに、腹を立てながら、その仕事である翻訳をするために、妻の部屋を通って書斎に入った。書斎に行くには、どうしても妻の部屋を通らねばならなかった。
 一時間ほどして俊介は外へ出る支度をはじめた。オーバーのボタンが一つ落ちたままになって、尻尾のように糸がぶらさがっていた。つけておくように、時子にいったのは数日前のことであった。俊介は廊下につったって台所へ声をかけてみちよを呼んだ。みちよが出てくると、今日でなくてもいいから、これを頼むといった。
「これに合ったボタンがないのでしたね、奥さま。そのうちつけますから」とみちよはこたえた。


みちよに「シナの夜」を歌わされるジョージの歌を聴いて、「歌詞はともかくとして、オンチだわね」といいきる時子もなかなかの女である。

ジョージに教えるため、流行歌を歌っているうちに、次第に我を忘れていくという俊介の姿はケッサクである。時子にそれをたしなめられ、自分でも後になって恥ずかしく思う。



隣りの部屋に時子を呼んで、わざわざ「車は当分買えない」ことを伝える俊介もちょっとどうかしている。これでは時子でなくともあきれるだろう。

書斎に入るには妻の部屋を通らねばならない、というのも一つのポイントである。後に家を新築するときに効いてくる。

オーバーのボタンが外れて、尻尾のように糸がぶらさがっているのを何日も治してもらえない。みちよにいいつけても、「そのうちつけますから」と素っ気ない対応。

俊介の「この家の主人」としてのいたたまれない状況がこれでもかというくらいに続く。というより、この小説全体が、俊介の〈イタさ〉を描くためにあるといってもよいほどだ。時子にコケにされ、みちよにもナメられ、ジョージからも内心軽蔑されている様子が伝わってくる。
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