すまほ

2021/6/16 | 投稿者: pdo

来年の3月でガラケーが使えなくなるとさんざん脅されて、とうとう観念してスマホに変えた。

とはいっても普段iPadを使っているので、iPhoneはそれまでのガラケーと同じ使い方しかしないつもり。

どうもああいうケイタイショップで職員の説明を聞いていると騙されているような気分しかしないので一人ではとても行く気になれず、家人に一緒に行ってもらわないととてもじゃないが店に入る気になれなかった。

小島信夫『別れる理由』を読み始めるが、『抱擁家族』の続編であることが文体からも明瞭で、ひじょうにおもしろい。

『別れる理由』の後妻・京子との関係はリアル。『抱擁家族』の妻・時子と同じくらいリアル。でも時子の方がリアル。「主婦を連れてきてくれよ」と言った長男は、若く官能的な京子がまんざらでもなく、バーのホステスのような目で見ている。自分の部屋が夫婦の寝室の隣にあるのがいやで地下室(永造の書斎)に移りたい、といい、やがてアパートで独り暮らししたいという。長女で高校生の光子は京子としょっちゅう甲高い声で言い合いをする。京子に再婚してくれと熱心にかき口説いたのは永造だ。「あなたは再婚すべきだ、そうでないと不幸になる」と上から目線で説得した。京子の前夫の友人内山から、「二人はアーサー・ミラーとマリリン・モンローのようだ」といわれる。内山は、京子と前夫(伊丹久、久ちゃん)の子で小学生の康彦がしばしば家出をし、京子の所へ行っているのではないか、と疑っている前夫の気を鎮め説得するために永造を連れて伊丹の家に行く。内山はブルー・フィルムの会を主催している。伊丹の家でも上映会をやったことがある。永造も参加したことがある。伊丹は写真家で、中学を出たばかりの百合子というモデルと深い仲になり、それを知った京子が離婚を申し出た。二人は離婚し、伊丹は百合子と再婚し、二人の間には早苗という赤ん坊ができた。康彦は伊丹が引き取ったが、ときどき家出をする。康彦は一度京子の働いていた外国人相手の不動産屋のオフィスに来たことがある。そのとき京子は不在であった。
永造と内山と伊丹の三人は伊丹の家で天丼を食べる。緊張感の中で面白くない会話を交わす。伊丹は、京子が康彦に決して会ったり近づいたりしないことの証文を書くことを求めている。永造はその代わりに伊丹と話に行く。その場はなんとなく収まる。
永造は康彦の小学校の担任の女教師に話をしに行く。喫茶店で話していると、教師が永造の愛読者であることが分かり、誘惑的なことを言われる。永造は京子の友人の会沢恵子とは子供の頃からの知り合いで、京子に出会う前、妻陽子に隠れて関係を持っていた。

いまのところ、そんなに小説的な破綻はみられない。

小島は、『残光』が出た頃のインタビューで、こんな風に語っている。

「今は、目が見えづらくなったせいもありますが、僕はもともと、書いた小説を読み返さず、手直ししません。この小説を若々しい作品と思っていただけるのは、昨年の半年間を『現在』として書いているからだと思う。要するに、急に頭をはたかれた感じで驚いたり、潜在的に隠れているもの、言いたいけれどいっぺんには出てこないことがあったり、そんなことが繋がって日常がある。全身で考えながら書いていると、自分と世の中との繋がりの部分が小説に現れてきます。日常的な繋がりが現れて変化する様子が、作者としては面白い」

「高等学校時代に、僕らは西田幾多郎の『善の研究』を読もうとして、なかなか難しかったんですが、その本には“純粋経験”について繰り返し語られています。個人をつくる一番のもとになるのは自然との関係で、知覚して自由に意志を持つ。僕は小説家だから、小説の場合も純粋経験から始まるところがある。いわば純粋経験の組み合わせが小説で、それもあって僕は書いたものを読み返さないのだと思う。これはうまく行ったということが書けても、舌なめずりして喜んでいるわけにはいかない。それはその時だけでね。さまざまな動きの中で出てきただけだから、改めてゼロから出発しなければいけない。書いたら終わり。書き足すこともなく、いつでも新しく出直しです」


「純粋経験の組み合わせが小説」という言い方がおもしろい。

思ったままを、正直に書く、というのは、すぐれた私小説に不可欠の条件で、志賀直哉はそういう文章だ。そしてそれは、〈自我を貫く眼差し〉を伴っていなければならない。どんなに巧みに書かれていても、自己正当化や自己憐憫、要するにナルシシズムがくっついていたり隠されていたりする文章は臭くて読めたものではない。太宰や三島の文章には、若干その香りが残っている。もちろんプロの小説家として、読者を捕らえて話さない工夫はされているから、面白く読める作品にはなっている。だが、彼らに真の意味での私小説は書けないだろう。

小島信夫は、たとえば『うるわしき日々』の、痴呆症の妻とアル中患者の息子を抱えて右往左往するような悲惨な日常を、自己憐憫などの感情からまったく切り離されたところから書いている。この彼の〈眼差し〉は先天的なものか、彼の人生経験の中で培われてきたものかは分からないが、その「エゴの突き放し度合い」は、他の現代作家と比べても突き抜けたものがあるように思える。だから、『抱擁家族』のような小説は、今読んでも、おそらく百年後に読んでも新しいままだろう。
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タグ: 小島信夫



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