昨日の続き

2021/3/3 | 投稿者: pdo

JYパークが人生を賭けて打ち込んでいる信仰の問題について生半可なコメントで片付けてはいけないと思い直したのでもう少し書く。

JYパークは、死の床にある患者のところに行って、枕元で聖書について語り聞かせる活動を行っているそうだ。そこでその人の魂を救えなかったと感じた時には、良心の呵責で眠れない夜を過ごすという。

彼は、罪の回数や大小は問題ではなく、人間は小さな罪が一つでもあれば地獄に行くのだという。生涯にいかなる些細な罪も犯したことのない人間など存在しないので、全ての人間は地獄行が必定ということになる。

しかし、ただ一人だけ例外がいる。それが神のひとり子であるイエス・キリストである。

まったく罪のない人間であったイエス・キリストは、すべての人間の身代わりとして、人間のあらゆる罪を背負って十字架にかけられた。それは、神が人間を愛するからである。

救いようのない人間を救うために、神はみずからのひとり子であるイエス・キリストを犠牲にしてすべての罪を解消したのである。

だから、人間はすでに救われているのである。それが<福音>であり、信じるとは、みずからがすでに救われていることを信じるのである。

JYパークは、キリスト教の聖職者からそのような説明を受けても、ピンと来なかった。だからテレビの番組の中で、「僕は頭では聖書に書かれたことをを信じているけれど、ハートから受け入れることができない」とインタビューに答えた。

そのテレビを見たある牧師が、パークに手紙を書いてきた。パークはその手紙を大事に保管し、7年後に「救われた」と実感できた後に、その牧師に返事を書いて、面会した。牧師はまさか7年間も自分の手紙を覚えていてくれていたとは、と驚いていたという。

だから、信じるとは頭で信じるのではない。信じようとする努力は人間の側のことであって、信仰とは<与えられる>ものなのだ。いったん信仰を与えられたから、それはもはや自分の中で疑うことができないものとなり、それ以前とは同じではなくなる。彼は文字通り生まれ変わったのである。洗礼とは、そのように生まれ変わった人間のみが受けるべきものであり、その前に受けるべきではない、とパークは書いている。

パークは韓国の芸能界で成功を収めた後、アメリカ進出に失敗し、私生活でも離婚という挫折を味わった。それで人生の意味について思い悩み、聖書を読むようになったという。

聖書に没頭するようになってから、自分が本当に救われたと実感するまでには7年かかった。彼がその実感を得て<信仰>に目覚めたのは2017年であったと書いている。

それ以来、彼の人生の最大の目的は、、一人でも多くの人を信仰に目覚めさせることとなった。もっとも、彼は自分のエンターテイメント・ビジネスと宗教活動をきっちり分けていて、自分の会社の従業員やアーチストに信仰を勧めるようなことはしていない(と思う)。

昨日も書いたように、芸能界で信仰に目覚めて表には出さないが熱心に宗教を信じている人は多い。プリンスもマイケル・ジャクソンも熱心な「エホバの証人」の信者だったことは知られている。

信仰は最も個人の内面に関わる事柄であり、信教の自由は基本的人権の一つである。

誰がどんな宗教を信じることも自由である。逆に言えば、「宗教を強いられない自由」も同じくらい尊重されなければならない。

JYパークについて、僕は彼の信仰を理由に彼の音楽が好きになったり嫌いになったりすることは一切ない。しかし、世の中には、こういう本を出したことで彼を胡散臭い目で見る人もいるだろう。それを覚悟の上で敢えて出版したことをリスペクトしたい。
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