R.I.P Number10

2020/11/26 | 投稿者: pdo

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ぼくは魔法使いじゃないよ。ぼくはフィオリートで生まれたディエゴだ。でも、魔法使いとはフィオリートに住む人びとをさすと言っても間違いじゃない。彼らは1か月を1000ペソ(ほとんど最低限の生活しか賄えない額)で暮らしているんだから。

―ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(1960−2020)



国内外問わず、プロのサッカーの試合をリアルタイムで追いかけなくなってからもう久しいが、ぼくにとってマラドーナは常にサッカーの代名詞だった。いや、サッカーだけではなかった。

アルゼンチンの人々やイタリアのナポリの人々やその他大勢の人々にとって、マラドーナはサッカー選手以上の存在であり、自分の感覚もそれに近い。だが、ここはやはりサッカーについて語るべきだろう。

ぼくは、小学生4年から6年まで、親に勧められて、地元の少年サッカークラブに通っていた。

田舎の、特に強豪でもないチームだったが、ぼくの運動神経では一軍でのプレーは叶わず、二軍のチームで地元の大会に出ては1回戦で負けていた。

それでも、何も練習していない子供よりは多少ボールが扱えたので、小学校のサッカーチームではそこそこ活躍でき、それがぼくにとってスポーツで楽しかった唯一の思い出だ。

その頃、日本はJリーグができる前で、サッカー少年がプロのサッカーの試合が見れる機会は、テレビで毎週土曜日に45分だけ海外のサッカーリーグの試合を放映する「ダイヤモンドサッカー」という番組があるだけだった。

その番組で、当時アルゼンチンのボカ・ジュニアーズというチームでプレーしていて、ワールドユース大会のため来日するディエゴ・マラドーナという注目選手の特集をしていた。

強烈なドリブルが武器で、一人でゲームを支配できる決定的な才能は、もはや全世界が注目していた。1978年のアルゼンチン・ワールドカップには出場しなかったが、今アルゼンチンで最も期待されている選手ということだった。

当時ワールドユースの試合は見ていないが(後日、埼玉県営大宮公園サッカー場でのアルゼンチン代表の試合のNHK中継(解説岡野俊一郎)のビデオを入手して観た)、『サッカーマガジン』の記事を切り抜いて、部屋にマラドーナのポスターを貼っていた記憶はある。

それは、舌の先をチョロっと出しながら全力でドリブルしているマラドーナの写真で、こんなポーズで走っていたら転んだ時に舌を噛み切るから危ないので真似しないように、と親だかサッカーのコーチだったかに言われたのを覚えている。

ぼくにとってのマラドーナとの本格的な出会いは、1982年のスペイン・ワールドカップだ。そのためにVHSのビデオデッキを親が購入して、日本では真夜中に行われる現地の試合の生中継を録画し、リアルタイムでも夜中に起きて観ていたと思う。

うっすらと覚えているのは、二次リーグのアルゼンチン・ブラジル戦で、マラドーナが相手選手の腹に蹴りを入れて退場をくらったシーンである。

十字を切りながら天を仰いでフィールドを後にしたマラドーナの髭の顔が一瞬イエス・キリストのイメージとダブった。明らかに反則を犯したたのはマラドーナの方なのに、何だか殉教者に見えて同情することしかできなかった。

マラドーナはその前の試合(イタリア戦)で、「殺し屋」とも呼ばれたディフェンダーの激しいマークを受け、プレーを封じられて苛立っていたという話もあった。後にマラドーナは、スペインのF.C.バルセロナに移籍してからも、マンツーマンの執拗なディフェンスによるファウル攻撃に苛立ち、試合中に大乱闘を演じたこともある。

マラドーナの黄金期は、言うまでもなく1986年のメキシコ・ワールドカップと、その後のイタリアのナポリ移籍後の活躍である。

メキシコのワールドカップをリアルタイムで体験できたことは(もちろん現地に行ったわけではなくテレビ越しに観ただけだが)、ぼくの最も幸福なサッカー体験の一つである。

このときのマラドーナの活躍は、まさに魔法使いのようだった。

ボールを持つたびに、信じられないプレーをした。

有名なイングランド戦の「5人抜き」、準決勝のベルギー戦の2得点、そしてあのイングランド戦の「神の手」ゴールと、すべてが伝説になっている。

それ以外にも、マラドーナがこの大会で見せた人智を超えたようなプレーは無数にあって、今でもユーチューブなどで見れると思う。

マラドーナは、イタリアのセリエAではあまりパッとしない弱小チームのナポリに移籍し、そこでチームを二度スクデット(優勝)に導くという奇跡のような御業を行った。ナポリでの活躍は、残念ながら日本には中継がなかったので、リアルタイムではほとんど見れていない。時々「ダイヤモンドサッカー」で放映していた程度だ。

このナポリ時代のプレーを見たくて、大人になってから、何十枚もの輸入DVDを購入した。そこでもマラドーナは魔法としか言いようのないことをしていた。

だが、彼の身体はこの時点で既にコカインをはじめとするドラッグに汚染されていた。夜通し酒やドラッグをやった後で、ろくに練習もせず試合に臨んで、このようなプレーをしていたのだから、彼は神から与えられた無限の才能を濫費し続けていたとしか言いようがない。

あるいはアルゼンチン国民やナポリの人々、世界の貧しい恵まれない大衆に喜びを与えるために特別な許可を神から与えられていたと言うべきか。マラドーナは、「ぼくは髭づら(キリスト)とホットラインでつながっている」と豪語していたという。

マラドーナの死去を報じるにあたって、ほとんどすべてのメディアが「神の子」という表現を使ったのが興味深い。

実際、全盛期の彼のプレーは神がかりのように見えた。あれほどの執拗なマークとファウルすれすれ(今の基準なら明らかにファウル)のタックル攻撃を浴びながら、数少ないチャンスの中で試合を決める決定的なプレーをした。あのオランダの名将ヨハン・クライフの「トータル・フットボール」がチームワークの賜物とすれば、彼の作る試合は、個の力による芸術作品のような感動を与えた。

神がかりの威光に陰りが見え始めたのは、1990年のイタリア・ワールドカップだった。

ここでマラドーナは、満身創痍になりながら、決勝まで進んだ。

準々決勝のブラジル戦では、猛烈なドリブルからのキラーパス一本で試合を決め、準決勝では、開催国イタリアと戦い、ナポリのファンたちを複雑な思いにさせた。マラドーナはここでヒール(敵役)を演じる不幸な巡りあわせとなった。

1994年のワールドカップ以降の、「お騒がせセレブ」のようになってしまったマラドーナについてはよく分からない。それでも、彼の奇跡を体験したアルゼンチンやナポリやその他のサッカーファンの多くと同じく、ぼくも彼を責めたり、非難したり、軽蔑したりする気にはなれなかったし、口幅ったい言い方をすれば、愛することしかできなかった。

彼が亡くなった今も、それは変わることはない。

彼は自分の影響力を使って常に、権威者たちの欺瞞を告発し、同類たる社会的弱者たちへの愛情の籠った労りの言葉を発していた。

彼が第三世界の貧しい人々から圧倒的な支持を受け続けた理由がそこにある。

ディエゴ・アルマンド・マラドーナを地に遣わしてくださったサッカーの神に感謝。

彼の魂がいまやそのみもとで安らかにあらんことを。





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