対局は聖なるもの

2020/4/4 | 投稿者: pdo

4月1日、日本将棋連盟は、感染が拡大する新型コロナウイルスへの対応について見解を示した。

各スポーツ界は中止や日程延期などの対応を取っているが、将棋の対局は観客もなく対局者、記録係、観戦記者を含めても少人数で行われることも理由に、劇的な措置は取っていない。しかし、狭い密室空間で行われ、距離間も近く、40枚の駒を介した濃厚接触が常となる競技でもあるため、感染者が発生した場合、クラスター化するケースも十分に想定される。

今後、特別措置法に基づく「緊急事態宣言」が出される可能性もあるが、将棋連盟は公共交通機関の機能が確保される限りは対局を継続する意向を示した。

「対局は聖なるもので何事においても続行されるべき」という精神も将棋界の根底にはあるが、オフシーズンが存在せず、各棋戦のスケジュールを消化していかなくてはならないという事情も背景にはある。

2011年3月11日に、大きな揺れを感じた後も、東京の連盟の対局は続行された。このとき、対局中だった郷田九段は、自分たちは指し続けるが、記録係は危険を感じたら退出するようにと声をかけたという。

後に郷田はこう語っている。

「対局者が動かないのに、記録係の奨励会員が逃げられるわけがない。棋士はいいんだ、自分の身は自分で守れるし、棋士になってやれることをかなりやったんだから。でも修行中で、まだ何もやれていない奨励会員に何かあったら、僕は耐えられない。」

棋士にとって対局が何を意味するかを物語るものとしては、1991年天王戦決勝の村山聖と谷川浩司の対局のことが思い出される。

決勝の前々日、村山聖六段(当時)は、高熱のため(アパートの階段を降りて外に出るだけで精一杯)、不戦敗を決意する。

村山から手合課に打診したところ、このことが師匠の森信雄五段(当時)に伝わった。

森は早速村山のアパートへ行き、「もし、指せなかったら、引退するしかない、それでもええんやな」と告げる。

これまでも何度か体調不良からくる不戦敗はあったが、天王戦決勝はタイトル戦と同様、主催社が何ヵ月もかけて対局場を設営し、立会人を依頼して、そしてこの決勝戦のために1年間棋士たちの棋譜を新聞に掲載してきている。「この不戦敗は、それらを全部無駄にしてしまうということなんやぞ」と。

「ファンやスポンサーのために棋士は全力で将棋を指す、それが宿命であり責任なんや。もし、それが果たせないのなら残念だけど引退するしかない。それで、ええんやな」とも。

村山の体調のことを一番理解している森が、このようなことを告げなければならなかったのは本当に辛いことだったろう。

村山は、高熱で苦しかったのか、その場では何も言わなかったが、森が自分の住むマンションに戻ってしばらくすると、村山から「僕、引退しなければいけないんですか」と電話がかかってくる。

「将棋を指します。だから、僕を引退させないでください」

そして森は、村山を伊豆まで連れて行った。(新幹線で三島まで、そこからはタクシー)

当時の観戦記にはこう書かれている。

「決勝対局は、静岡県「大仁ホテル」で行われた。対局者は対局日前日の夕刻までにホテル入りし前夜祭に出席することになっていたが、予定の時間を過ぎても村山がなかなか現れず関係者はやきもき。夜も更けてから村山は、師匠の森信雄五段に抱きかかえられるようにして対局場にたどり着いた。持病である腎臓の具合が急に悪化したとのことで、対局だけはなんとかやり抜こうと、必死の思いでやってきたのだった。」

森は、40度近い熱を出している村山の額に濡れタオルをあて、一晩中それを交換した。

翌朝、村山の熱は嘘のようにひいていた。

将棋は谷川の攻めが冴えわたり村山のボロ負けに終わった。しかし、村山はなんとか棋士の責任をまっとうすることができた。勝ち負け以上にそのことが森と村山に与えた喜びは計り知れないものがあった。

その6日後、村山は羽生との対局に快勝した。
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