只の虚無

2019/9/17 | 投稿者: pdo

『悪霊』について、しつこく書く。

スタヴローギンは、この物語に登場する時点では、既に精神的な廃人になっている。

小説の中の彼は、幻となった「告白」の章を除いては、まるで亡霊のような存在感だ。彼は、幼少時に父が不在で、根無し草のようなステパン先生から骨のないリベラル精神(その実は偽善に満ちた理想主義)でスポイルされ、16歳で寄宿舎に入るや、野獣のような情欲に目覚め、一切の制約を感じず、放埓を恣にした。その退役将校時代に、ペテルスブルグで例のマトリョーシャの事件があり、海外を放浪する頃にはすでに彼の生活力、生命力、精力は事実上尽きていたのだろう。もう何をやっても救われようがなかった。

彼はあらゆるものについて心底どうでもよかったのであり、気が狂うほど退屈で、何の偏見も持たず、善悪の区別もつかない。神や国家の運命といったテーマを弄び、シャートフやキリーロフを感化しうるだけの見せかけの情熱と知性を示すことはできても、心の中ではそれを軽蔑している。ピョートルやその仲間たちが必死になっている革命運動にも何の真剣な興味も持てない。

彼はマトリョーシャへの罪悪感から自殺したのではない。ただただ退屈で、生きることに倦んだにすぎない。彼にとっては、スイスでウリヤ市民としてダーリヤやワルワーラ夫人と一緒に暮らすことも、実家の屋根裏で首をくくることも完全に等価な行為であった。

小林秀雄が喝破したように、このような底なしの虚無は、ドストエフスキーが創造したもう一人の人物、ムイシュキン公爵とも同じ根を持っている。ただ現れ方の違いに過ぎない。

二人とも、時に驚くほど無邪気で、純粋で、生活能力に欠けている。スタヴローギンにあってムイシュキンに欠けているのは、ただ野獣のような情欲であるが、前者は若くしてそれを使い果たしてしまった。

スタヴローギンはニヒリストにすらなれない只の虚無だ。この人物に移入するのは身の毛もよだつような体験なのに、そうせずにいられないのがドストエフスキーの仕込んだ猛毒だ。

『悪霊』は、基本的に男の物語だ。ステパン、ピョートル、レビャートキン、シャートフ、キリーロフをはじめ、新選組のような男衆の匂いが立ち込めている。

ここには、ソーニャやナスターシャ・フィリポヴナのような圧倒的な女性はでてこない。びっこのレヴャートキナもリザヴェータもダーリヤも、それぞれに魅力的ではあるが、この物語においては役不足である。

この物語で支配的な役割を演じうる女性は、ただワルワーラ夫人があるのみである。

ステパン・トロフィーモヴィチとワルワーラ・ペトローヴナの25年来のロマンス(?)とその結末は、本来ならこの物語の主軸となるべきだったのだが、スタヴローギンというモンスターが作者のイデーに割り込んできたために、大幅な変更を余儀なくされた。

それでも、ステパンが今わの際に放った言葉の輝きは、この暗黒舞踏のような長編に光を差し込んでいる。

おお、ぼくはぜひとももう一度生きたい! 人生の一刻一刻、一刹那、一刹那が人間にとって至福の時とならなければいけないのです。

人間にとっては自分一個の幸福よりも、この世界のどこかに万人万物のための完成された、静かな幸福が存在することを知り、各一瞬ごとにそれを信じることのほうが、はるかに必要なことなのです。


この思想は、あのキリーロフがシャートフに「きみには永遠調和の瞬間というのがあるか?」と尋ねた、あの思想と無関係ではない。

キリーロフについては稿を改めて論じなければならない。

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