2019.9.16

2019/9/16 | 投稿者: pdo

清水正は『「悪霊」の謎』の中で、作中で物語の執筆者という設定になっているアントン(G)について、ステパンの念友だったとか、ピョートルと同じ任務を果たしていた政府のスパイであったとかのトンデモ説を真面目に論じていて、急に萎えた。

そういう読み方をするのは勝手だし、ドストエフスキー作品をそんなふうに解釈して楽しむのもいいが、文学者としての読み方ではないだろう。まあいいんだけど。

図書館で、埴谷雄高の千ページもあるドストエフスキー評論集(座談や対談も含む)も読んでみたが、戦後の文学者にはこんな風に読まれてきたのだなあ、という勉強にはなったものの、思わず膝を叩くような興味深い読み方は発見できなかった。

小林秀雄の『悪霊論』は、途中で終わっていて、最後の方は「スタヴローギンの告白」が延々と引用されているだけで、小林秀雄ですら持て余す作品だったのだなあという感想だ。

要するに、ドストエフスキーの『悪霊』という怪物作品について、これは、という読み方に未だ巡り合っていない。

もっとも、新潮社の全集の付録についていた、中村健之介のキリーロフ評などには「そうそうそう」「だよねえ」と思いながら読んだ。

『悪霊』は、スタヴローギンの物語だと思って読むように一般の「読者ガイド」はミスリードしているが、脇役が実に面白い人物だらけで、脇役を味わうための作品といっていい。

誰一人として興味深くない人物がいない中で、物語の語り手である「G」だけがこれといった個性のない人物であるが、これは設定上仕方がない。

ほんのチョイ役で出てくるだけの人物も、途方もなく面白い。祭りの日の講演会の最後に出てくる演説者(「政治バカ」)とか。自分の中では、昔見た選挙の立会演説会で熱弁を振るっていたお爺さんの姿とダブって、思い出すだけで笑ってしまう。

自分の中で、こうした脇役たちを、個人的な記憶の中の人物とダブらせると、それだけで楽しめる。
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