天才はあきらめた

2018/9/2 | 投稿者: pdo



今日は本屋で見つけたこの本を読んだ。

解説をオードリー若林が書いている。

テレビもラジオも縁遠くなっている自分は、山里亮太について余りよく知らないのだが、この本を読む限り、若林も解説で指摘している通り、タイトルとは違って彼は「天才」である。

「天才とは努力し続けられる才能のこと」と言ったのは羽生善治だ。この定義に山里はきっちりと当てはまる。

嫉妬や他人から傷つけられた体験による負の感情を「努力」へのガソリンに「変換」するという覚悟と決意が繰り返し語られている。

ルサンチマンを根源的なモチベーションとする成功というものは、究極的にはそれによって得られたエゴのプライドの満足度合いに比例する虚無感を生み出すものだと思っているが、この本を読む限り山里亮太はそのようなダークゾーンには落ちていない。

それはあくまでも自己を客観視できる「自己凝視」の能力が身についているからだと思った。

オードリーの若林もそうだが、自虐や自意識の痛みを「芸」にまで高めるためには、どうしてもこの一切の自己幻想や願望的思考を取り去ったリアルな「自己凝視」の視線を潜り抜けなければならない。

山里がこの本の中で赤裸々に告白している周囲への怒り、憎悪、そして相方にすら向けられる嫉妬などの負の感情は、この「自己凝視」の視線に晒されることで浄化され、変態(メタモルフォーゼ)を遂げた。その過程が、ラジオやテレビにおける山里のトークを彷彿とさせる巧みな筆致で鮮やかに描き出されているから、読者は彼の毒と屈折した愛を含んだ独白にぐいぐいと引きこまれる。終章にかけての、相方のしずちゃんとの関係性を含んだくだりは感動すら呼び起す。

いいものを読んだ、という爽やかな読後感を味わった。
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