親密さ(2)

2017/1/27 | 投稿者: pdo

第一部の終わりに、衛と令子が歩きながら、令子が暗唱する衛の詩。この場面以外にも、何か所かで断片的に出てくる。


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言葉のダイヤグラム


言葉は想像力を運ぶ電車です

日本中どこまでも想像力を運ぶ「私たち」という路線図

一個の私は想像力が乗り降りする一つ一つの駅みたいなもので

どんな小さな駅にも停まる各停みたいな言葉もあれば

仕事をしやすくしてくれる急行みたいな言葉もあるし

分かる人にしかわからない快速みたいな言葉もあって

いちばん言葉の集まる駅にしか停まらない新幹線みたいな言葉もあります

地下の暗闇を走る言葉もあります

地下から地下へ受け渡される邪(よこしま)な想像力たち

でも時折地下から地上に顔を出して

ビルの谷間を潜るとき

不意の太陽が無理やり縦縞に変えようとするから

想像力は眉をしかめたりします

時々届くのが早いほど 言葉は便利な大事なものに思えます

だけど本当に大事なのは

想像力が降りるべき駅で降りること

次に乗り込むべき言葉に乗ること

ただそれだけです

だから

ダイヤグラムの都合から

ぎゅうぎゅうづめの急行と

すっかすかの各停が

同じ時刻に出発して

ほんの一瞬

同じ速さで走るとき

急行の中の想像力がうらやましげに

各停を眺めることもあるのです

2012年には

東京メトロ副都心線と東急東横線がつながるみたいに

今までつながれなかった

あれもこれもつながるんだろうか

そんなことを想像しています

(2011年2月3日 武蔵小杉のドトールで)


次は、衛が演じる第二部の演劇の主人公「衛」が、「北の詩人たち」という朗読会で読み上げる「暴力と選択」という詩。

自己紹介ではボソボソ呟くように話していた衛が、この詩を朗読する時は、何かに憑りつかれたかのように激しい口調になる。

彼は山崎のパン工場で週4日、1日13時間働いている。「そのことは、詩の内容とは関係ない。特別な痛みだけが痛みではない、そんな詩を書きたい」と言う。


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暴力と選択


暴力とは何かとずっと考え続けてきた

最近ようやく答えの一つが導き出された気がする

選択肢を与えないこと

もしくは選択肢がないと信じさせること

つまりは選ぶという人間精神の根本的な自由を否定し奪い去るもの

それが暴力だ

このことで身体的な次元にとどまらない暴力まで説明できる

身体的な暴力が否定されるべきは基本的に二点ある

それが人を不可逆的に損ない選択不可能性であるところの死へと近づけるから

もしくはまたそうした身体的な暴力が未来における選択の可能性を狭める

もしくは狭めるよう要求するからだ

しかしこれはより大きな暴力の一つの形にすぎない

人に「選ばせない」選ぶことができると信じさせない力

それが暴力だ

それは身体的な暴力にとどまらない

言葉と関係による精神の暴力があり

運命の暴力もまたある

しかし一般に暴力と思われているもの

それを世に放っただけで暴力は暴力になるのではない

この世には放たれた不完全な暴力が漂っている

それはもはやそれを吐きだしたのが誰かもわからないような

常に着床の機会をうかがう暴力の胞子だ

われわれに選べることは少なくとも二つある

一つは少なくとも自分はできるかぎりその胞子を吐きださないようにすること

もう一つは自分がその胞子を着床させないということだ

極端なことを云えば人を殴ることは必ずしも本質的な暴力ではない

殴られた人間は自分を被害者だと感じたとき

自分は不当な影響力の下に置かれたと感じたときにのみ

暴力は完全な暴力となる

このことからある種のけんかや体罰が必ずしも暴力ではないという現実的な事態が説明できる

ちなみにもしそれが人に死をもたらすものなら

選択の可能性を奪うそれはそれ自体で成立する暴力だ

誰かを殴ることはもちろん暴力の胞子を吐きだすことだ

それが悪意に基づくものならそれはかなりの確率で着床するだろう

しかしそれはまだ完全な暴力ではない

それはまだ人の選択を奪い去りはしないからだ

このとき被害者然とふるまう人々

彼らこそが実は暴力を完全なものとするのであり

彼らもまた暴力の担い手なのだと言ったら彼らは驚くだろうか

自分たちはただ暴力の純粋な被害者だと彼らは訴えるだろうか

彼らは言うかもしれない

そんなことは選べない だって私は殴られたのだから

そんなことは選べない だって私は罵られたのだから

そんなことは選べない だって私は傷ついたのだから

しかし単に人を傷つけることは 人に傷つけられることは

それがいずれ癒えるならそれはまだ暴力ではない

人はすべてを選ぶことができる 何かを選ばないことも

ただ一つだけ選べないのは「選べない」ということである

人は「選べない」ということを選ぶことはできない

その時人はもう既に何かを選んでいるからというトートロジーだけが問題ではない

人が「選べない」と口にするそのときに

自らの精神から選択を奪ってしまうのならば

そのときに人は自らのうちに暴力を育てているのだ

自らの精神から選択を奪ってしまうのならば

彼彼女は知らず知らずのうちに自らに暴力をふるう

そして彼らが暴力をふるうのは実は自らに対してのみではない

彼らは自分自身を通じてすべての人間に暴力をふるう

このとき暴力は単なる胞子であることを超え

根を張り大地へと侵食する

人は何度でも選ばなくてはならない

なぜ選ばなくてはならないのか

暴力が奪い去ることならば選択とは与えることだからだ

選ぶことはいつも過去から未来へと向けられている

選ぶことは信じることと同義である

既に確かな何かを信じることはできない

不確かな何かを信じ未来に向かう力を与えることが

選ぶということの本質だ

もし人が互いに不確かなまま出会い

それでも互いを未来へと向けて選びあうなら

互いに力を与え続けることもできるはずだ

それは信じあい 選びあう力だ

ただ暴力だけは選ばないための力だ

暴力も暴力の胞子も もうなくなりはしない

ただ私たちはいつもそれを選ばないことを選ぶ

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