ぶっこわす

2016/7/22 | 投稿者: pdo


ブログ!書きます!!!

でも話題ないです。

適当でもいいから更新してほしいものですか?それとも適当なら更新いりませんか?


参院選にも圧勝し目下絶好調、改憲に向かってまっしぐらの安倍総理の強力な支持母体である「日本会議」の影の主役は「生長の家」の教祖谷口雅春である。

菅野完著『日本会議の研究』でも指摘されているとおり、現在、宗教団体としての「生長の家」は「日本会議」とは対立的な関係にある。だが、「日本会議」のメンバーは、我らこそが谷口雅春聖師の教えを正統に継承するものであると信念をもって活動しているに違いない。そういう意味で、安倍総理の強力な支持母体である「日本会議」の影の主役は「生長の家」の教祖谷口雅春であるといえるだろう。

では、谷口雅春とは、どんな人物なのか。

谷口雅春は生前、膨大な量の著作を発表しているが、「生命の実相」というシリーズに詳細な自伝(第19巻、第20巻)が含まれている。

それによると、彼は神戸の烏原村で生まれた。明治26年11月22日の明け方6時であった。生まれて間もなく、実父母から養父母に預けられて、そこで育った。

市岡中学では直木三十五の1年下級生であった。中学では先生によく反抗し、「お前は虚無党だ(ロシアの革命党派)」といって叱られたりもした。親の反対に遭うも、文学がやりたくて早稲田の文科に入学した。彼はそれからの学生時代を自伝の中で「芸術至上主義時代」と名付けている。

夏休みに故郷の家に帰っていたとき、鈴木三重吉の『千鳥』という作品に影響を受けて、戯れで近所の娘にラブレターを渡したら、相手が本気になって一緒に上京することになった。娘を言い含めて1週間だけ付き合い、また東京に送り返した。

それから1週間くらいたったある日、娘が東京の下宿にやって来て、自分は前科者だと告白した。娘は14歳で芸者に仕込まれるためにお茶屋に出され、そこで同輩の衣服を盗んだことが二度に及び、少女囚として1年半収監されていたのであった。

正治(雅春は後に改名したものであるので以下この表記にする)は戸塚にささやかな家を借りて二人で移り住んだが、次第に正治の心は同棲中の17歳の房江から筋向いに住む中年夫婦の10歳の娘久子に惹かれていく。やがて房江は雅春との子を流産し、看護代や治療費に金がかかったため金策に追われる。

親からも縁を切られ、学校も退学し、数か月たっても就職口も見つからず、房江と二人で死のうと思って金もないまま宿に泊まり、金を作ろうとして出て行った房江が警察に捕まって、新聞沙汰となる。結局正治は房江と別れさせられ、実家に引き取られる。房江に再び一緒に逃げようと促されるも、復学したいからと言って断り、房江は借金のカタに台湾芸者に売られていった。正治は結局養母に金を出してもらえず復学はできず。

中学の同級生の伝手で紡績工場に就職、非正規社員として勤務をし、内職で外国の紡織雑誌の記事を翻訳した。昇進のため大阪高等工業を受験したものの身体検査で不合格となり、前途に希望を失って生活が乱れる。

「そのころわたしは二人の女を同時に知った。一人はその紡績会社の上役の姪であったし、その一人は、ある色町の一人の遊女であった。一人と一人の関係よりもその構図が三角形になる方が絵画においては落ち着きがあるように、わたしは意識してその恋愛を三角形にことさらに構図したのであった。」

「ね、わたくし、こんな稼業をしていましても、あなたのほかに誰にも身をまかせません」という「高尾」という源氏名をもつ女と遊んだ後に、悪性の症状に悩まされる。正治がいろいろ医学書を漁り始めたのはこれが動機であった。神経衰弱にもかかり、不眠に苦しんだ。そんなある日、人づてに「高尾」がどうしても男の肌に触れないと評判であると聞き、疑っていたことを恥じた正治が詫びの手紙を書いたとき、全身を苦しめていた痛みが不思議にすーっと軽くなった。

女工の哀れな工場生活を監視する仕事に嫌気がさして辞職。女との縁も切れた。実家に戻って心霊療法の本や国訳大蔵経を読み漁った。知人から当時流行っていた大本教について聞かされ、綾部を訪れる。

つづく
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