2021/5/14 | 投稿者: pdo

「再び、保育園とライブラリーの間を往復する一週間がはじまった。その頃の私が、一番怖れていたものは、自分の寝坊だった。気がつくと、十時をとっくにまわっていたことが、何度となく、あった。上司からも、保育園からも、再三、忠告を受けていた。寝坊したくて寝坊しているわけではないのに、と自分を責める相手を恨みがましい眼つきで見つめているうちに、寝坊さえしなければ、すべて許されるのではないか、と思うようになった。…私が寝坊するから、藤野は私を許そうとしないし、保育園では娘に異常があると思われてしまうのだった。母親として、誰も信頼してくれないのだ。」

『光の領分』とりあえず読了。短編をつなぎ合わせた長編小説という形式で、「水辺」の章は2001年のセンター試験に出題されたらしい。シングルマザーの行動様式についてリアルに描かれていて唸った。文章が端正な語りなのであまり目につかないのだが、主人公はかなりファンキーな女性である。子どもを知り合いの家に泊まらせたり、知り合い(男)を家に読んで子供と遊ばせたり、寝坊が癖になったり、保育園の父母会の会長とセックスしたり(その後、その親子三人と道ですれ違って、「『へええんだ』と声に出して言ってやった。河内の妻が、私を振り向いた。その顔には、私への憎しみがはっきり浮かび上がっていた」)。

自分の知っていたシングルマザーの女性も、週末になると近所の子供たちを家に泊めたり、自分の子供を近所の家に泊めたりしていたが、この小説を読んでなるほどそういうことなのかと思った。その人はADHDの診断を受けていたが、寝坊の癖が止まないこの小説の主人公も今だったらADHDなどの診断を受けていたかもしれない。

この小説の主人公も娘の保育園での行動を問題にされ保育園に呼び出されて職員たちに囲まれ追及される場面が出て来る。また隣人や下の階の住民とのトラブルも絶えない(必ずしも主人公に責任がある訳ではないのだが)。子供に対してムキになって感情を丸出しにして口喧嘩するかと思えば、驚くほどはっちゃけて馬鹿みたいな遊びに興じることもある。共依存のような関係性に思える。子供を夫に奪われる恐怖心と絶えず闘っている。同時に夫に強く求められたいという欲求を抱えている。

この小説が書かれたのは昭和54年(1979年)で、今から40年以上前なのに、ここに描かれた人間関係や社会関係の描写はまったく古びていない。今でも十分にリアルだ。それは、この小説が深く正確に現実社会を捕らえていたことを示しているのと同時に、この現実社会がこの40年間本質的なところでまったく変わっていないことを示している。
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2021/5/12 | 投稿者: pdo

津島佑子『光りの領域』を図書館で借りて少しずつ読んでいる。『寵児』と同様に、シングルマザーのダメ女(と呼んでよいかどうかには躊躇いがあるが、「世間的」にはそう見なされるような存在)の主人公の語りが、書き手と主人公との程よい距離感を感じさせて、読んでいて快い。読んでいてすんなり入って行けるかどうかが自分にとって小説のほとんど唯一の評価ポイントで、西村寛太にも川崎長太郎にも津島佑子にもそれはある。大江健三郎は、入って行ける作品とそうでない作品がある。

名作と呼ばれる作品にも「入って行けない」ものは履いて捨てるほどあり、またその時の自分の心境やコンディションによっても変わってくるので、客観的な評価基準にはならない。今その時の自分に「しっくりくる」かどうかという感覚がすべてのようなところがある。今の自分にとっては、太宰治ではなく津島佑子の小説が「しっくりくる」ということだ。
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2021/5/10 | 投稿者: pdo

私小説にも飽きたので、というか、男の私小説ではなく女の書いた私小説を読みたい、と思い、とりあえず本屋に行って目に付いた津島佑子『寵児』という文庫本を買って読んでみた。

著者については、太宰治の娘で、著名な現代作家であるという以外に何の予備知識もなく、読んでみたら私小説ではなかった。それでも、明らかに作家の家族をモデルにした人物が登場したり、離婚したシングルマザーという設定が作家自身の生活に近い境遇だったりで、私小説に準ずるような作品であると思った。

結論から言うと、非常に面白かった。酒も煙草も男もやる奔放な女性・高子の視点での物語。12歳の娘は母である高子との同居を拒み、姉の家に暮らすようになる。元夫の友人と食事した際に勢いで交わった結果妊娠したと分かり、高子は躊躇った末に産むことを決意するのだが…

津島の別の小説も読んでみたい。
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2021/5/7 | 投稿者: pdo

1938年、数えで38歳の時に「永住の覚悟」で故郷の小田原に引き揚げ、海岸沿いにあった「物置小屋へ以後二十年間起伏する身の上」となった川崎は、敗戦後、海軍に徴用され赴任していた父島から帰還した後、1948年10月の『新潮』に掲載された「偽遺書」を書いてから、深刻なスランプに陥ってしまい、「何も書けなくなつてしまつた」。

そんな状態を見かね「秋声先生の四男、徳田雅彦君が、何か書けと云つて呉れたのに勇気づき」、『別冊文藝春秋』1950年3月号に「抹香町」を発表したところ、これが「割りと好評をもつて迎えられ、再起の端緒」となり、この年は都合12篇の小説を書き、「前例のない多作振り」となったのである。

翌1951年には11篇、1952年には9篇、そして1953年には16篇もの小説を発表することができた。さらに1954年に出版された『抹香町』(講談社、1月)と『伊豆の街道』(講談社、3月)は「私の本としては予想外な売れ方」をして、川崎は「数へ年五十四になつて始めて」「印税らしい印税を貰つた」。

また川崎がくりかえし描いた物置小屋での生活にメディアは注目し、雑誌のグラビアやNHKのラジオ番組に出演したり、『週刊サンケイ』1954年6月13日号は「川崎長太郎ブーム」を特集し、物置小屋の前でたそがれる川崎の写真などを掲載するまでになった。

そんな騒ぎに文壇は激しく反発し、平野謙や荒正人や中村光夫らは「かつての私小説のビタネスをジャーナリズムによつて骨ぬきにされたのが今日の川崎長太郎のすがただ」との批判を加えた。

その一方で、川崎自身の筆によれば、
「私の書くものがひよんなことで、ブームみたいな工合となり、ひと目につき出すにつれ、小田原の膝もと始めとし、東京から名古屋から、又宇都宮あたりから、人妻、女給、未亡人、妾等々、女人が物置小屋へ推参するやうな次第となり、中で一緒になつてもいいと思つた女工、向うから捨て身で結婚を求めた三十女や、又は肉体関係に陥るのをあらかじめ用心してゐた人妻などと、それそれねんごろにし、身辺が大分賑になる間も、時々は「抹香町」のぞきに行くことを忘れないやうであつた」。

川崎が物置小屋を訪ねて来る熱心な女性読者との交わりを作品として次々と発表していくと、文壇の反発はますますエスカレートしていき、「群像」1956年1月号に掲載された「固太りの女」や「新潮」1956年2月号に掲載された「火遊び」といった作品は批判の集中砲火を浴びることになった。石川達三はこれを「不潔な非芸術」と弾劾し、臼井吉見は「駄作といわんよりは愚作であり、愚作といわんよりは劣等作」と罵倒し、平野謙も「私小説の非文学的ヴァリエーション」でしかないと全面的に否定した。

これらの批判には男性読者によるヒステリックといえるほどの嫉妬心がその根底にあるように思われる。というのも、メディアに登場し、雑誌の「グラビア・アイドル」にまでなった川崎の姿は、女性読者の目には、まさに「会いに行けるアイドル」と映ったに違いなく、実際にそのような展開を企てもし、まんまとそれに成功している川崎の姿は、男性読者の目には「文学者の敵」と映ったに違いないからである。

1953年9月の「別冊小説新潮」に掲載された「老嬢」の主人公は、「二十七になる今日まで」「恋愛らしい恋愛をしたことがありません」という、小田原の小学校の教師である。林芙美子ファンだった彼女は、芙美子亡き後に、「似通つたところがあるやう」に感じた竹七の小説に特に魅了されるようになり、川崎の私小説を読んで、この主人公にどうしても会いたくなり、物置小屋に川崎を訪ねる。

「別冊小説新潮」1954年4月掲載の「魚見崎」に出てくる「女学校時代から、文学愛好家」だったという渡部鯉子も、物置小屋を訪ね、「行きずりな娼婦にでもするやうな扱ひ方」をされるが、「伊豆の街道」に出て来る花枝という人妻に激しい嫉妬心を燃やす。

「あの、先生の小説によく出てくる、花枝と云ふ人――」
と、鯉子は、つとめてさり気なささうに切り出し、
「今でも、逢つてゐるんでせう。」
と、眉から額へかけて、あざのやうな翳をつけ、はれぼつたい瞼の中に、黒目を蛇の如く光らせながら、噛むやうに鯉子は相手の横顔に喰入つてゐた。


「麦秋」(「新潮」1954年8月)では、瀧口澤子という五十代女性からのファンレターが引用され、、そこには「お作を通して心を寄せた」ことのみならず、「雑誌に出たグラフ」を見たことや、「先日NHKの朝の訪問時間でのお声」を聞いたところ弱々しくて心配したということが記され、「貴方様のお心を温めて差し上げたい」という熱烈な気持ちが書きつけられている。返事代わりに「抹香町」の単行本を送られた彼女は、「鯉子女子にも贈つたものと第六感です」と鯉子への嫉妬の思いを吐露しながら「兎に角一度おめにかかりたいのです」との手紙をよこす。

澤子の願いは成就し、川崎と落ち合い、「八年振り」に「覚束ない交り」を堪能する。すると翌日、「息つく間与へず、澤女は彼の書いたものに、二三度出て来た女のことを云ひ出し」始める。「鯉子さんはどうなりました」「『女色転々』と云ふ、この前お書きになつたものに、濱子さんと云ふひとが出てきますね。――まだ、貴方さまは、その方に、肩をもんで貰つたりしてゐないやうですが」。この数えで58歳になる女性読者は、小説家を専有したくてたまらなくなってしまったのだ。彼女は、先行する作品で見知った女性読者に、小説家を奪われたくない気持ちでいっぱいになっているのである。

白洲次郎の妻・白洲正子もまた、「私は、川崎長太郎のファンである」と言って憚らなかった。ある日小田原の近くまでやって来た正子は、「小田原、小田原、さういへば川崎長太郎といふ人は此処に住んでゐるのだらう。抹香町、――この魅力ある名前がとたんにむらむらと私を占領してしまつた」と書き記している。後に単行本『抹香町』の出版記念会に招かれた際には「大喜びで」出席し、「生れてはじめてのテーブル・スピーチ」まで行なった。そのスピーチを川崎がとても気に入ってくれたと正子は、嬉しそうに書き記している。

この白洲正子のテーブル・スピーチに対し、「きついお叱り」を与えた小説家がいた。彼は「有閑マダムが、貧しい暮しの小説家が、精進してゐる所へ見物しに行くとは何事か。芸術を解さぬにも程がある」と正子を叱責したという。

男性読者にしてみれば、川崎は物置小屋で困窮した生活に耐え忍びながら「精進」している「芸術家」でなければならなかったのである。


参考資料:「川崎長太郎とその読者 ―1950 年代のブームをめぐって」山本幸正

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2021/5/6 | 投稿者: pdo

連休中は川崎長太郎をひたすら読み続けた。こういう時に図書館は便利である。去年とは違い、緊急事態宣言が出ても図書館が閉館にならなかったのはありがたい。おかげで川崎長太郎の小説のうち読めるものを粗方読むことができた。彼の私小説になぜこんなに惹きつけられるのか自分でもよく分からないが、澁澤龍彦のいう「超低空飛行のダンディズム」の魅力だろうか。つげ義春が書いているような、いじけた薄汚い作家というイメージではなく、千代子夫人との結婚も決して野良犬の野合のようなことではない。彼の小説に対する姿勢には、志賀直哉を思わせる毅然としたものを感じるし、その文章には気品が漂い、自己を見つめる透徹した眼差しが宿っているから、魔窟のことを書いても決して堕落した通俗小説にはならない。志賀直哉との違いは、川崎長太郎は資産家の生まれではなく、小説で生計を立てるのが困難であったという点である。戦前は貧苦にあえいだが、戦後「抹香町」ものがブームとなり、一躍注目された。彼の小説を読んで小田原の実家にある彼の物置小屋の寓居を訪ねてくる女性たちも後を絶たなかったらしく、そのいちいちが私小説の題材となっている(西村賢太も芥川賞を取った後には近寄ってくる女性たちがいたはずなので、ネタになるはずなのだが、なぜ書かないのだろう)。

講談社文芸文庫には主だった作品が概ね収められているのだが、その中に含まれていない、筑摩書房の現代日本文学体系49(葛西善三やら嘉村磯多やらと共に編集されているアンソロジー)に収録されている『漂流』というのが気に入って、図書館でコピーまで取った。芸者や娼婦との関係を描いたものとは別に、彼の寓居を訪ねてきた女性たちを描いた「人妻もの」が一番好きかもしれない。講談社文芸文庫には折角なのでそのアンソロジーも出してほしいところである。翻って長太郎が六十過ぎて結婚した三十過ぎの後家千代子夫人は清潔なイメージのみあるのは作家の意図的な創造であろうか。確かに実際そういう人だとも思うのだが。2013年に夫人が書いた文章が「老境小説集」の巻末に収められているが、今もお元気であろうか。

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