6月14日(金)の55
14:36 西町問屋場跡(写真1)
案内板
「 西町問屋場跡
問屋場とは、江戸時代の各宿において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持った。
東町と西町からなる亀山宿 では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは20日程の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。
現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和三年(一八〇三)の『亀山領内東海道分間絵図』(亀山市指定文化財・伊藤容子 氏蔵)や文化四年(一八〇七)の『伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図』(亀山市歴史博物館 蔵)、文久三年(一八六三)の『宿内軒別書上帳』(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。
なお、元治二年(一八六五)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造 氏寄託資料)。
平成十五年十月
亀山市教育委員会 」
10年前のブログ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
家々のすぐ後ろがお堀になっている箇所があり、そこに黒っぽい大きな水鳥がいました。
西町問屋場跡からは、さっきの遍照寺の屋根が見えました。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
西町問屋場跡は少し高台になっていて、お堀や、家々より少し高いとこらにある遍照寺の屋根が見えます。
14:39 飯沼慾斎生家跡(写真2)
飯沼慾斎 wikipediaより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
飯沼 慾斎(いいぬま よくさい、天明2年6月10日(1782年7月19日) - 慶応元年閏5月5日(1865年6月27日))は、江戸時代の医家で本草学者。「リンネ」の植物分類法を最初に採用した草木図説を出版した。伊勢国亀山(現・三重県)出身。
人物
名を守之、後に長順、字を龍夫といい、幼名本平。慾斎は、引退後の号。小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した。文政11年(1828年)には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲が覗い知ることが出来る。『草木図説』執筆の傍ら68歳で自ら種痘を試み、70歳を越してから門人とともに写真術の研究をはじめ、80歳では、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見せんとした(シーボルトの帰国で実現しなかった)。最晩年には、足を傷めたが、山駕籠に乗っては深山まで植物採集に出かけたという。
『草木図説』は、草部20巻・木部10巻・禾本沙草無花部10巻からなり、生前に刊行されたのは、草部20巻のみであったが、その価値は、時代を経ても色あせることなく海外でも高く評価されていた。牧野富太郎も増訂草木図説を昭和に入ってから出版しているほどで、まして木部の刊行は実に死後120年たった昭和52年(1977年)のことであった。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
wikipediaより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
カール・フォン・リンネは、スウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者。ラテン語名のカロルス・リンナエウスでも知られる。「分類学の父」と称される。同名の息子と区別するために大 リンネと表記されることも多い。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
リンネの分類法というのは、近代的分類法を刷新したのがリンネであるためにそう言われているが、その後分類法はもっと細かくなってきているだけでなく、リンネの分類が間違っていた部分もあるそうです。
14:40 舘家(ますや)
写真3の舘家については、本日の56に書きます。
本日の56に続く


0