今は存在するか〜幻想の世界  社会

私達は過去と今と未来という時間の中に生きていると考えている。

では時間とは何かを考えるとき、川の流れで見るといい。

川は上流から下流に流れ海に出る。海の水は蒸発し雨となり大地に注ぐ。

大地は水を溜めて、それが湧きだし川となる。そして川は海へ注ぐ。

これは循環である。そして決まったように行われる。

さて、この川のどこに過去があり今があり未来があるのか?

ある人は川の上流を見てそれが過去だと言う。そして下流が未来だと。

しかし、この循環を考えた時、それは過去では無い。そして未来でもない。あなたがその川の上流を見ても下流を見ても海を見てもそれは今に過ぎない。

ですから私達は実際には川を見ることが出来ないのです。それは循環を見ているということです。

時間と言う観念は現代の物理学に絶対的に必要な概念である。物理学を科学だと私達は言うが、それは私達が創り出した観念で有り、宗教と同じである。

科学と言うと何か根拠があると多くの人は思い込んでいる。

それは観念に過ぎない。他の観念を物理学者や科学者が考え出せばその観念は180度ひっくり返る。

今のところ、相対性理論のような観念の中に閉じ込められているので人々はその監獄の中から出ることが出来なくなっている。

何故ならその優秀な人々は絶対的な現代科学という教義を携えているからである。この教義をぶち破ることが出来るのはある種の変人である。

私達は幅、奥行き、高さに時間を加えた空間の中に存在している。

幅も奥行きも高さも時間と言う空間が無ければ存在しない。もちろんこの時間という概念が無ければ変化、動きも説明することが出来ない。

しかし、川の流れ問題がここで生じる。すべては循環の中にある。ではどこに時間があるのか?

やはり今しか存在していない。時間とは人間が考え出した観念に過ぎない。

そして私達は物理学者はその観念の中に閉じ込められている。物理学者は”今”という存在を科学的に証明できない。

今を切り取ることが出来ない。ですから”今”を科学的に証明できないでいる。

今の存在を証明できないということは、私たちの存在を証明できないばかりか、時間の存在も証明でいないでいる。

しかし、私達はそんなことは関係なしに”意識”として存在している。

脳科学者によると私達が行動を起こすときに、それが認識される前に脳のニューロンが発火しているそうだ。

つまり認識や意識が起こる前に脳が反応している。これは人間に自由意志が存在しているのかという疑問を生じさせた。

このことからやはり神がいて、人間はゲームの駒に過ぎないという人々もいる。

アインシュタインは”神はサイコロを振らない”と言ったが、不確定性原理によると何も決まっていないということになる。

つまりラプラスの魔物(因果律の従って未来は確定する。簡単に言うとあなたがビリヤードの球を打てばそのあとはすべて確定しているということ)は存在していないということになる。

しかし、これも単なる観念に過ぎない。どれも科学的では無い。

循環を考えた時、そこには創造も無ければ破壊も無く、原因も無ければ結果も無い。エントロピーの減少も無ければ増大も無い。

もし神が存在するなら私達はすでに決まった運命の中で、ただゲームのプレイヤーの駒として存在しているだけである。

シュミレーション仮説は全ての矛盾を説明できてしまう。

私達にとって観察していないものは存在していない。それは私が観察することによってはじめて存在することになる。

私たちが存在していると思っている自由意志は本当に存在しているのか?

科学的にも宗教的にも突き詰めていくとそこには”無”が存在している。

しかし、無が存在しているということは出来ない。何故なら”無”が在るということになるからである。

この現世の中で多くの人々が争いそして常に何か問題を抱えている。

そしてそれは終わりが無い。そして始まりも無い。

ただ、私達に出来ることはどんな問題も存在していないことを認識することだと思います。
それは現代科学や宗教あるいは身近なところでは倫理や道徳つまり決まりの中に存在しており、その限定された世界において善悪という観念があり、それは脳内で処理され視覚化した幻想であるからです。

ですからどこかの誰かがこの幻想をぶち破ってもそこには新たな幻想の世界が展開されています。

私達は常にそのことの観察者であり、その幻想のスクリーンに登場する俳優が繰り広げる感情劇場に巻き込まれず、まさにそれを観察するということが現世における生だと思います。
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