2009/3/15

納棺夫日記  

・「納棺夫日記 増補改訂版」
著者:青木新門
出版:文春文庫
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引用が非情に印象的な作品だ。

宮澤賢治の「永訣の朝」が不意に挿入されたところでは、思わず涙ぐんでしまった。(もともと弱いんだよね、アレには(笑))
井村医師の「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」、「星の王子様」、正岡子規の「病状六尺」
「『納棺夫日記』を著して」という長いあとがきのような文章では、自分自身の原体験(満州引き上げ時に弟・妹と死に別れている)と重なる写真を見つけ、そのカメラマンの言葉を引用しているのだが、これまたグッと来る。

<「この少年は、弟の亡骸を背負って仮の火葬場にやってきた。そして弟の小さな死体を背中から下ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め、決して下を見ようとしなかった。
ただぎゅっと噛んだ下唇が心情を物語っていた。火葬が終わると少年は静かに背を向けその場を去った」>(ジョー・オダネル P.179)

引用される作品・文章にそもそも「力」があったのは間違いない。
作者は結局「仏教」にぶち当たり、作品の中でも親鸞について多く語っているのだが、これもまた広い意味では「引用」だろう。(その中核となる「第三章」は、僕にはナカナカ読みづらかったけどね(笑))
しかしそこに至らしめるのは作者自身の経験であり、作者自身の思想である。
作品の中に引用する文章を置き、その文章があらたな意味合いを持って輝くのは(あるいは持っている輝きを読む者に再認識させるのは)、本書もまた「輝き」を持っているからだと思う。

アカデミー賞を受賞した「おくりびと」の原作ということで読んでみたんだけど、読み終えて「おくりびと」を観るのが少しだけ怖くなった。
これだけの作品を映像化できるものなのか?
エピソードの鮮烈さは確かに「映像化」を思わせるけど、作品そのものは非常に内省的で、これを物語の中にどうやって表現していくのか・・・。
いやまあ、観るとは思うんだけど(笑)、そんな感想さえ浮かんでくるような、望外の作品だったということ。

<己の携わっている仕事の本質から目をそらして、その仕事が成ったり、人から信頼される職業となるはずがない。>(P.33)

さりげなく置かれた一文にも思わされるところがある。
いい本です。



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