2007/4/29

シャーロック・ホームズ最後の挨拶  

著者:アーサー・コナン・ドイル 訳:日暮雅通
出版:光文社文庫
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何やら裏のありそうな事件を追いかけ、変装と推理と仲間たちを駆使し、身体を張って、時には格闘も行い、事件を解決する。でも明らかになる陰謀は、ちょっと「アナクロ」な感じ・・・。

コレって、何だか「スパイ大作戦」みたいだよなぁ(笑)。
シャーロック・ホームズの新訳を読むほどに、「論理を駆使した推理の名探偵」というイメージが少しずつズレていく。
一昔前にBBCで作られたホームズもののドラマがNHKで放映されていて(ホームズの声を露口茂がやってた)、僕も結構好きだったんだけど、こうして原作を読み直すと、確かにホームズものって映像化しやすいトコがあるね。
そりゃ「安楽椅子」探偵じゃ、ドラマにならんわな(笑)。
(「来客の様子からピタリと客の素性から悩みまでを当てる」というホームズの「芸」は確かに「安楽椅子探偵」的ではあるが、基本的に事件を解決するに当たってのホームズの捜査は「足で稼ぐ」だ。実兄(マイクロフト)にもそんな風に言われてる)

ドイルは本当に「ホームズ」ものが止めたかったらしく、本書も「最後の挨拶」と題がつけられている。歴史小説や、「失われた世界」のようなSF小説も書き、晩年は心霊術に傾倒したというドイルの本質は、科学合理主義の権化たるホームズとは、根本のところで相容れないものがあったのかもしれないね。
ただ一度「殺した」にもかかわらず、復活させられたホームズ。
「最後の挨拶」くらいで退場させてもらえるはずもなく、「シャーロック・ホームズの事件簿」がこの後に続くことになる。
読む側にとっては、もう少し楽しませてもらえる、ということだ。

2007/4/29

旧交をあたためる  雑感

昨晩は中高時代からの友人とその奥さんと夕食をご一緒した。
お互いのBlog なんかで、何となく近況は覗えているのだが、会うのは4年ぶりくらいかな。
4時間ほどグダグダと、楽しい一時であった。

しかしまあ確かに十代からの友人との会話の大半が「子ども」の話ってぇのも、「様変わり」ではありますな(笑)。
十年経ったら、また全然違う話してたりするんだろうけどネェ。

あ、Aくんの奥さん。
昨日の話に出てきた、我が家で使っているシャンプーはコレです。
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ecolotrevance。
洗ったあとの髪のコシが違うような気がして、僕もお気に入りなんですがね。
ご報告まで。

2007/4/26

官僚とメディア  

著者:魚住昭
出版:角川ONEテーマ21
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前に読んだ「新聞社」ではテレビ局を新聞社が系列化していく中で政府との関係を深めていった(「権力に絡み取られた」)経緯が明かされていたが、本書は個々の「事件」中で「権力批判」としての機能を失っているメディアの姿をあからさまにした作品。
雑誌に単発で発表されたものを本にまとめる際に手を入れてつなげているので、やや流れにはバランスを欠くようなところはあるが、挙げられている「事実」にはちょっと薄気味悪くなるような感じも受ける。

取り上げられている主な「事件」は次のようなもの。
1共同通信社の安倍首相周辺批判記事発信の自粛
2耐震偽装事件
3国松警察庁長官狙撃事件
4ライブドア・村上ファンド事件
5NHK番組改編問題
6裁判員制度タウンミーティング問題
「1」はあまり表沙汰になるような話ではなかったと思うが、それ以外はかなり有名な事件・問題ばかり。だが一般にメディアで流れている内容(それは世間での「印象」にもなっているだろう)と、その詳細やその後の経過から覗える「裏」の構図には大きな隔たりがある、そこにはメディアと官僚組織・政治家との深い関係がある、というのが本書の主張。
個人的には「6」以外は「聞いたことのある話」であったが、それでもこんな風にまとめて読んでみると、現在のメディアが抱えている問題点(「闇」とさえ言ってもいいのかもしれない)には危惧を覚えざるを得なかった。

ちなみに
「1」「5」は政治家への配慮や政治家からの圧力でメディアが報道を自粛した事件。「2」は事件の真因であった官僚組織(国交省)の失敗をメディアを利用して隠蔽してしまった事件、「3」「4」は「正義」を錦の御旗にした警察・検察官僚の「暴走」、「6」は官僚組織(最高裁)とメディアの癒着による世論操作
という枠組みが提示されている
「政治家の圧力」というのは「古くて新しい問題」という感じだが、官僚組織が関係する「2,3,4,6」なんかはそれとは少し構図が違っていて、それだけに見えにくくなっているものだろう。
世論の「悪いのは誰だ」という感情に乗っかってしまった「3」「4」も恐ろしいが、その感情を隠蔽工作に利用したように見える「2」なんか、ちょっと不気味な感じさえする。そこに切り込むどころか、そのお膳立てまでしてしまうメディアの問題点は、「6」に至っては「癒着」による利権の獲得と権力の世論操作への積極的関与にまで及んでおり、いやはや何ともやりきれない。
勿論、これらの「構図」は作者の推論によるところも大きい。しかし挙げられている根拠を読む限りは「ありえる構図」に思えるし、「事実経過」もそれを証明しているように思う。

これをもって「日本が危険な状況にある」とまでは言えないだろう。少なくとも本書のような批判書が出版できる状況は担保されているし、ネット上では本書に挙げられたような「情報」(正確には「推論」だと思うが)は以前から頻繁に飛び交っており、言論の自由が犯されるような事態にまでは至っていない。
しかし何か嫌な気配は感じる。
単なる危惧であってくれればいいんだけどネ。

2007/4/25

浮沈  

著者:池波正太郎
出版:新潮文庫

「剣客商売」シリーズ最終巻。
「とうとうここまで来たナァ」「もう終わっちゃうのかぁ」という感慨を覚えながら読み終えた。

シリーズ最終巻に相応しい作品になっていると思う。
作品の中では秋山小兵衛を始め、小兵衛より先に死亡する登場人物たちの死について触れられ(大治郎、三冬、小太郎の死について記述がないのは、彼らが小兵衛より長生きしたからだろう。40歳年下の妻おはるが小兵衛より先に死亡するのは意外。まあ小兵衛絵が「93歳」まで生きたゆえではあろうが)、物語としても20数年前の「因縁」から、かかわる人々の「時の流れ」による変貌を語りつつ、人の複雑さをも垣間見せながら、人情に触れる決着を見る。
果たして作者が「コレが最後」とどこまで思い定めていたのかは、僕は知らない。ただ「最後になってもいい」とは思っていたんじゃないかと思う。
そう思わせる作品だ。

勿論、ここでシリーズが終わることは残念だ。
関係の深い田沼時代が終わり、新しい時代を秋山ファミリーがどう生きて行ったのか読んでみたい。
小兵衛の死の時には30前後の小太郎がどんな成長を見せるのか、そこに小兵衛・大治郎が祖父・父としてどのように影響を与えていくのか、興味深いところだ。
小兵衛より先に死ぬおはるの最期も果たしてどのようなものであったのか・・・。
それら全てが最早語られることはない。寂しいと思わずにはいられない。

ただシリーズを読んでいく中で、秋山小兵衛をめぐる「世界観」というのは僕の中で確固と出来あがっている。僕にとって彼らは「確かに江戸時代に生きた人物」のように捉えられ、その息遣いは隣人よりも存在感を以って胸に迫ってくる。
確かに「続き」が語られることはない。しかし「思い出」のようなものは残っている。
小説に対してこんな風な感覚を持つというのは不思議なことだ。
だがそこに「剣客商売」という稀有な作品の特徴があるのではないかと思う。

シリーズは読み終えたけど、まだ番外編がある。
こうなるとそっちも読まんわけにはいかんなぁ。

2007/4/24

玻璃の天  

著者:北村薫
出版:文藝春秋
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昭和初期を舞台にした令嬢と女性運転手「ベッキーさん」シリーズ。「街の灯」に続く第二作になる。

「推理小説」としては「どうかな?」と思わないでもない。同じ作者の「円紫」シリーズに比べると、少し無理があるんじゃないかな、と。(あくまでも「北村薫」に求める水準を考えると、ということではあるが)
ただ本書の読みどころは、トリックじゃないんだよね。
「昭和初期」という、活力に満ちた「明治」、自由を謳歌した「大正」が過ぎ去り、ファシズムに向けた暗い時代への予感が満ちつつある「黄昏」の気配、そこに読みどころがあると思う。そしてその点に関して、本書は成功していると言えるだろう。

ちょっと違和感があるのは15歳にもならない語り手である令嬢が「自由主義者」として立派過ぎることかな?女学生として大正デモクラシーの雰囲気を残した環境にいるとは言え、この年齢でこんな立派に自分の意見を言えるもんかな、とは思う。
ただ一方でこれは作者の意図的なものかと思ったりもする。つまり彼女は読者の「代弁者」として、全体主義へと傾斜していく社会に対して「意義申し立て」をする役目を負っているのだ、と。
となると、こういう「仕掛け」を施した作者の意図には、あるいは「現代」に対する「意義申し立て」もあるのだろうか?
・・・これは考え過ぎだと思いたいところだ。

本書で「ベッキーさん」の重要な過去は明らかになる。ただいくつか複線は張られているので、シリーズは続くんじゃないかなぁ。
「できれば『226』事件まで・・・」
と思ってるんだけど、そうするとチョット令嬢が大人に成りすぎちゃうかな?
でも是非読んでみたいところだ。

2007/4/23

雄気堂々<上・下>  

著者:城山三郎
出版:新潮文庫
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先日、城山三郎氏の訃報を聞いたとき、
「この機会に何か一つ作品を読み直してみよう」
と思った。
その時考えていたのは「落日燃ゆ」か「官僚たちの夏」だったんだけど、書店で並んでいる城山作品を見ていて、名高いこの作品を読んでいないことに気付き、購入したのがコレ。

本作では渋沢栄一の20代から40代半ばまで、つまり青年期から壮年期の姿が描かれている。90過ぎまで生きたこの偉人の晩年のエピソードもいくつか触れられてはいるのだが、まあそれは付け足しのようなものだ。
上・下巻の上巻が「維新」の時期の姿、下巻が明治初期に経済界で確固たる地位を築いていく渋沢栄一の姿が描かれている。

「『明治維新』という修羅場を乗り越えてきた胆力が経済界でのし上がる『力』となったのだ」
「維新」前後に割かれる割合が多いので、そういう構図になんのかなと思いながら読んでいたのだが、そう単純なものではなかった。
勿論、そうした側面は確かにあるのだが、それに加え、
「維新」の頃から渋沢栄一の特徴であった「建白好き」(企画・提案好き)、そして「維新」後の数々の人材による「八百万の神々の国づくり」に触発され、「合本組織(株式会社)」を日本に根付かせようとする執念、
「経済小説家」らしい城山三郎氏の視点が、やはりそこにはある。

それにしてもここで描かれる「株式会社」の理念の素朴なこと!
「複数の人間(組織)が資金を出し合って事業を行い、協力し、智恵を出し合って事業を拡張して行き、出資に応じて利益を得る」
「株式市場」を想定しないこの理念は、「素朴」であるとともに、「理想」でもあるだろう。いや、「株式市場」があっても、投機的な思惑を除けば、この「株式会社」の理念は今も機能するのかもしれない。
確かにこういう風に考えれば、「会社は誰のものか」という疑問も、今のように議論にはならないような気がするね。
今更、「明治の頃」に戻るわけにも行かないんだが・・・。

作品の狙いとして「渋沢栄一」の生涯のこの時期に焦点を当てたのは理解できるし、「ドラマチックさ」という点では間違いないと思うんだけど、個人的には40代以降の「渋沢栄一」をもっと知りたかった思いが残る。
「日露戦争」に対する感じ方なんか、ナカナカ面白いと思うしね。
ま、それは別の作品を読めばいいのかな。

2007/4/19

世界同時中継!朝まで生テロリスト?  

著者:ボリス・ジョンソン 訳:高月園子
出版:扶桑社海外文庫
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少し前に購入していた文庫なんだけど、何でコレを買ったのか、我がコトながら判然としない。
題名は「朝まで生テレビ」のモジリで、帯びの煽り(「陽気なテロリストが地球を回す?」)は映画化もされた伊坂幸太郎の作品(「陽気なギャングが地球を回す」)のパチリ。
見ただけで「B級ティスト」満載だ。
その徹底した「B級」っぷりに惹かれたのかナァ。

ただ読んでみると、結構しっかりした作品だった。
まあ勿論「一級品」ではないし、「佳作」とまでも行かないのだが、「文庫書き下ろし」の安手のファンタジーや時代小説なんかよりは遥かに手が入っているし、出来もいいと思う。作者の「教養」水準の高さも覗えるしね。
内容としては、一癖も二癖もある登場人物たちが入り乱れてドタバタを繰り広げ、あっちゃこっちゃで微苦笑、時には爆笑もののシーンが連続するという、ちょっとエルモア・レナードを思わせる感じ。(物語はレナードに比べると、比較的「一直線」だけどね)
「喜劇」ではあるんだけど、基本はイギリス人っぽい「ユーモア」で、ハリウッド製コメディや吉本新喜劇とは違い、「ベタ」ではないね。そこら辺は趣味で分かれるだろうけど、僕はこういうノリは好きな方だ。

作者はイギリスの現役議員(保守党)。しかも結構有名な有力議員らしい。
そういう観点から読むと、「アメリカ大統領を人質に取り、イラク戦争の是非を『投票ライブ』で全世界に問う」という作品の骨子、さらにその「投票経緯」辺りにはちょいと政治色を感じなくもない。
でもそう思いながらも、それらも含めてキッチリ「エンターテインメント」に仕上げているのは大したモンだと思う(個人的にはもうちょい、政治的な「主張」のあたりを膨らましても良かったかなと思うくらい)。550ページを越える長編なんだけど、「え、もう終わり?」って感じだった。

ウソかマコトか、著者プロフィールによれば、この作者、「いずれは首相にとの呼び声も高い」政治家らしい(年齢は僕より一つ上)。
こういう人物のコメントってぇのはチョット面白そうだ。
日本の政治家の場合、「面白いコメント」と言うと、下品な冗談か、芸のない暴露系のネタ(「暴言」に繋がりがち)ばっかりだからねぇ。
・・・と、最後はイギリス政界の奥深さに思いを馳せた作品であった。

2007/4/17

「愛」という言葉を口にできなかった二人のために  

著者:沢木耕太郎
出版:幻冬舎
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「世界は『使われなかった人生』であふれている」に続く沢木耕太郎の「映画エッセイ」第二作。
まあこの長い題名に全てが表れているような気がするね。
一言で言えば、「ロマンティシズム」。

書評や映画評を読む理由としては「観る映画を探す」「自分が観たことがある映画を作者がどんな風に観たのかを確認する」といった理由が主なのじゃないかと思う。少なくとも僕にとってはそうだし、本書もそういう視点で読んでいる部分は確かにある。
ただこの作品の場合はそれに加え、「沢木耕太郎の『ロマンティシズム』に酔う」(笑)ってとこもあるんだよね。場合によっては紹介されている映画のことなんてどうでもよくて、「映画を巡る話」として、ただ沢木耕太郎の語り口を楽しんでるんじゃないかと思うことだってある。
本書で取り上げられているのは、
「ブローバック・マウンテン」「光の旅人」「トーク・トゥ・ハー」「硫黄島からの手紙」「黙秘」「パリ空港の人々」「ヒストリー・オブ・バイオレンス」「父と暮らせば」「堕天使のパスポート」「フィールド・オブ・ドリームス」「敵、ある愛の物語」「旅する女」「エマ」「ブラス!」「海辺の家」「ウルフ」「きみに読む物語」「ノーバディーズ・フール」「客途秋恨」「大地と自由」「プリティ・ウーマン」「ライフ・イズ・ビューティフル」「陽のあたる教室」「赤い航路」「息子のまなざし」「モーターサイクル・ダイアリーズ」「ストーカー」「故郷の香り」「シャイン」「タブロイド」「海を飛ぶ夢」
の新旧31作。
このうち僕が観ているのはわずか8作だが、本書を読んでいて、そんなことは全く気にならなかった。(沢木耕太郎のストーリーの要約が巧みというのもあるが)
ま、それだけ「作品」として本書が成立していると言えるだろう。

沢木耕太郎の語り口について、淀川長治が「あなたは非常に清潔にお書きになる」と言ったというエピソードが本書にあるが、さすが淀川さん、これは当を得ている。
過剰とも思えるような「ロマンティシズム」を抱えながら、沢木耕太郎の作品が「甘ったるく」ならないのは、この「清潔さ」故だろう。(あるいは「ダンディズム」と評されることもある)
そのことが「沢木耕太郎」という作者の最大の持ち味じゃないかとも思う。

最近、二歳児と付き合っていると、
「ああ、コイツはこれから色々な本や、映画に、新鮮な気持ちで出会えるんだナァ」
と羨ましく思える瞬間がある。

「私にも何を見ても面白いという時代が少なくとも一度はあった。そのとき、眼の前にはまだ見ていない映画の海、物語の海が無限に広がっていた。」

別に本や映画に倦んでいるわけじゃないし、映画も物語も未だに「無限」ではあるだろう。ただ「新鮮な気持ち」が失われつつあるのは事実だし、「残された時間」というものを漠然と意識しつつもある。
沢木耕太郎の感慨を、僕もまた共有している。

まあ「歳を取る」という、当然の結果なんだけどね。


2007/4/15

暗殺者、二十番斬り  

著者:池波正太郎
出版:新潮文庫

「だが、『剣客商売』のシリーズもまもなく終わろうとしている。あと一冊を残すだけである」
「二十番斬り」の解説(常盤新平)の締めの一節。「父の付き添い」をキッカケに再読し始めたこのシリーズ、父の退院後も止まらなくなってしまい、とうとうココまで来てしまった。

前作「波紋」は短編連作であったが、以降この2作及び最終作は、それぞれ長編になっている(厳密には「二十番斬り」には「おたま」という短編が収録されてはいるが)。
「池波正太郎」自身は短編作家ではない。
「真田太平記」という大長編も書いているし、「おとこの秘図」「おれの足音」「雲霧仁左衛門」「編笠十兵衛」等々、読み応えのある長編も多く残している。
ただ「剣客商売」「鬼平犯科帳」「仕掛人梅安」の3シリーズ、ことにこの「剣客商売」には「短編」が相応しいと思う。

勿論、シリーズの長編の出来が悪い訳じゃない。
闇の世界に足を突っ込んでいる剣客との関わりを描いた「暗殺者」、老いを感じながらも超人的な立ち回りを見せる秋山小兵衛を描く「二十番斬り」、
この2作の長編にしても、出来・面白さともに水準以上のものがある。
しかし、それでも・・・という思いがあるのだ。

これらの作品が書かれたのは作者の死の5年から3年前。
池波正太郎は67歳で、急性白血病で亡くなっているから、その「死」は本人にとっても予想外のものだったのではないかとも思う。
一方でこのシリーズの「連作短編」形式を断念し、長編連載としたことには、あるいは「疲れ」のようなものがあったのかもしれない。作品の中に秋山小兵衛の「老い」や、死生観を感じさせる記述が多くなっているのも、その反映かもなどと思ったりもする。
(まあ、数年後に作者が死去してことを知っているからこそ、そんな風に読んじゃうのかもしれんがね)
そして再読となった今回は、そうした作品の「陰影」の部分が胸にこたえるような気がしているのだ。

いずれにせよ残りは「浮沈」一冊。
ゆっくりと読ませてもらおう。

2007/4/12

「法令遵守」が日本を滅ぼす  

著者:郷原信郎
出版:新潮新書
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扇情的な題名だが、中身はかなりマトモ。
「コンプライアンス」「法令遵守」に振り回されるサラリーマンの溜飲を下げるためのキワモノ本かとも思っていたのだが(にもかかわらず買っちゃったのは、僕も弱ってたたから?(笑))、全くそういう類の本ではなかった。

「日本の『法令』は、その成立背景となる社会的要請と乖離している部分がある。今まではそれを行政指導や社会的慣行、マーケットの特殊性等が埋めていたのだが、規制緩和・官民の隔離等の社会情勢変化の中で、そうした緩衝機能が否定されるようになってしまった。本来その段階で『法令』と社会的要請の乖離を埋めるべく、『法令』の手直しを行うべきなのだが、それをしないままに『法令遵守』『コンプライアンス』が叫ばれるようになったため、社会的な実情を反映しない『法令』の遵守が『社会正義』のように言われるようになってしまい、結果として社会的にマイナスの影響を及ぼすまでになっている」

僕なりに本書の主張をまとめるとこんな感じかな?ま、例によって「誤読」の可能性は十分にあるが(笑)。
また、こうした風潮を助長しているのが「官民交流」を倫理規定で断たれ、観念化が強化されている「官」と、「善玉」「悪玉」を決め付ける基準として「法令」を利用し、単純化した報道を繰り返す「マスコミ」であるというのも、なかなか卓見だと思う。

まあ「談合」「ライブドア/村上ファンド事件」「耐震強度偽装事件」「パロマ事件」などが取り上げられ、「法令遵守」が如何にこれらの事件の裏にある「社会的要請」を歪めてしまったかということが懇切丁寧に書かれているのだが、チャンと読まない御仁が、「作者はこうした行為を擁護している」というトンデモナイ非難をしちゃう可能性はあるかな。(そこまで「誤読」するヤツはいないか(笑))

結局のところ「コンプライアンス」というのは「法令遵守」ではなく、「法令」を支える「社会的要請」に応えること、という当たり前といえば当たり前のことが語られているわけだ。(「法令」が常に社会的要請から修正されるアメリカのような国なら「法令遵守」で問題ないのだが、日本の場合はそういう訳にはいかないということ)
でもその当たり前のことがナカナカ・・・。

日常の自分の業務姿勢を反省させられる部分もありますな。



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