2006/1/19

ライブドア騒動  雑感

「僕の叔父さん 網野善彦」を読みながら、ここ数日の「ライブドア騒動」のことに思いが至った。

まあこの「ライブドアへの捜査」は、タイミング的に「ヒューザー小嶋社長証人喚問の前日」(しかも夕刊後)というのが、「宮崎勤への最高裁判決の日」というのと併せて、政治的思惑を感じさせるんだけど、僕が考えたのはそういうことじゃない。

中沢新一氏は網野氏の重要な視点として「アジール(避難地)」という概念を指摘している。
でもって、モノの価値をモノから引き剥がし、相対化する機能を持つ「貨幣」が、地縁・血縁等に立脚する世俗的権力に対する「アジール」の性格を持っていると指摘しているんだけど(多分。誤読は、例によってあり得る)、今回の件は、進みすぎた「貨幣」の構成するアジールに対する、世俗的権力からの揺り返しかな、なんて。

政治的思惑はそんなところなんだろうけど、一方で今回のライブドアの容疑の根幹は、密室で行われた不透明な決断に根差しているものであり、これは世俗的権力に近い性質のものなんじゃないかな、とも思う。とすると、これは徹底されない「自由」に対する「貨幣のアジール」の側からの異議申し立てだ、とも言えるのかもしれない。
政治的思惑の「想定外」(笑)だったろう「東証の醜態」なんかは、そういう観点から意味づけると結構面白い。

まあ、養老孟司の言うとおり、「人間の営み」なんて、「ああすればこうなる」方式では整理しきれないってことなのかな。
僕はホリエモン(恥ずかしい呼称だね)は全く好きじゃないんだけど、彼の言動が、既得権益者(例えばフジテレビの日枝社長とか、亀井静香とか)の醜態を炙り出す点は評価してたんだけどね。
所詮は「同じ穴の狢」っちゅうことですかいの。
別にどうでもいいけど(笑)。

2006/1/19

僕の叔父さん 網野善彦  

著者:中沢新一
出版:集英社新書
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網野善彦の出世作である「蒙古襲来」を僕は小学校5,6年生の頃に読んでいる。
「蒙古襲来」は「日本の歴史」の一冊として書かれたのだが、父がどういうわけかこのシリーズを全巻揃えていたので、日本史に興味があった僕はこのシリーズを(精一杯背伸びして)読んでいたのだ。

そんな中で読んだ「蒙古襲来」は、シリーズの他の巻と異なり、その猥雑でありながら魅惑的なイメージで僕を捕らえ、権力の交代によって整然として進歩するという「日本史」に対する僕のイメージを一変させてしまった。
…とでも書ければ格好よかったんだけど(笑)、なかなかそう上手くはいかない。。
この有名な作品が「日本の歴史」の一冊として書かれ、従って僕も読んだことがあるのに気づいたのは大学生の時だった。そのときになって「蒙古襲来」を改めて読み直し、その面白さを確認したのではあるが、読んでもなお僕はかつて「日本の歴史」を読んだ際、この巻にどのような感想を持ったのかを思い出すことが出来なかった。
まあ、こうなると「感度」の問題だよねぇ。今思い出しても、「蒙古襲来」の内容を漠然としか思い出せないから、僕には網野史観に対する感度がさほど高くないと思わざるを得ない。「面白い」とは思うんだけど、結局「英雄」好きだからなぁ・・・。

本書に関して言えば、「僕の叔父さん 網野善彦」というヤワな題名に反し、中身はなかなか硬い。っつうか、日常会話の中で思想・学問を語る一族の姿が、とてもじゃないが一般的な「回想録」になることを拒絶しているのだ。僕はなんとなく「人間・網野善彦」みたいなものを期待して読んだんだけど、結局は「網野史観の歩み」みたいなものを読まされた気がしている。それはそれで面白くはあったんだけどね。

注文をつけるとすれば、ちょっと「中沢新一」自身が顔を出しすぎているのと(普通の回想録なら全く問題ないんだけど、本書の場合は「網野史観」成立過程に作者が関与する形で顔を出してくるのだ。まあ本当にそういうことだったのかもしれないけど、こうやって読むとチョット自己顕示欲が強い過ぎる感じがするんだよねぇ)、晩年の部分の記載が少なすぎるところかな。
本書では「「異形の王権」が書かれていた頃が、網野さんと私のまじわりの、ちょうど夏の真昼にあたる時間だった」とされ、以降の二人の間が疎遠になったことが軽く触れられているだけであるが、むしろここら辺でどのようなことがあったか、あるいは「網野史観」が社会的に認知され、網野氏が「歴史学のスーパースターとなった」ことを、網野氏と中沢氏がどのように受け取っていたのか、知りたいところである。
まあこの時期は多分中沢氏がオウムとの関係でバタバタしていた時期とも重なるので、とてもじゃないが「書けない」ということなのかも知れないけどね。

2006/1/18

超バカの壁  

著者:養老孟司
出版:新潮新書
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「まだやるのか」と思ったけど、話題づくりにはなるかなと思って購入。
しかし作者自身、嫌になってる部分もあるんじゃないかね。でないとこんな題名はつけないんじゃないかなぁ(笑)。

内容的には「こまった人」同様、時事ネタに対する作者の意見を述べたもの。ただ題材のとり方が「こまった人」よりは広くなっているので、こちらのほうが論の展開があって面白かったような気がする。(「鋭さ」はもしかしたら「こまった人」の方があったかも。でも一番の問題は、僕が「こまった人」の内容をあんまり覚えてないことだ。笑)

ま、意見としては賛同できるものもあれば、どうかなぁってぇのもあって、いつも通り。
一元論の危険性について論じた部分は概ね同意見。(「自分探し」や「自分にあった仕事」といった感じで)「自分」というモノを立てることに対する否定的見解も意見を同じにしている。
ただ「戦争責任」や「靖国」のところはチョット乱暴じゃないかなぁって感じがした。つまり僕はココにちょっとこだわりを持っているらしい(笑)。

本書で最も面白かったのは「職業倫理」に触れた一章(「人間関係の問題」)と、「雑用のすすめ」が入った「本気の問題」という章。特に後者については苦い自己認識とともに読んだ。
要は「本気=責任を持って」仕事は成すべきであり、「雑用」と思われるような仕事を(逃げずに、自ら)本気でやることが重要なのだ、ということだと思うんだけど(誤読はありえるが)、いやはや心底そう思う。会社の部下に読ませたいと思ったくらいだ。
僕はよく「汲み取りでも、それをやらなきゃ社会は回らない」と言うんだけど、「雑用」をする中で培われる「責任感」というのが、具体的であるだけに重要なんだよね。
そして翻って自分自身の「今まで」を思うとき、「苦さ」を感じた訳である。

すちゃらかサラリーマンだからねぇ…。

2006/1/17

新訳 茶の本  

「新訳 茶の本  ビギナーズ 日本の思想」

著者:岡倉天心 訳者:大久保喬樹
出版:角川ソフィア文庫
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「これを批判するのは簡単だけどなぁ」というのが一読した感想。

(序章と終章が収められている)「東洋の思想」は、都合の良い「日本中心主義」が「日本ファシズム」への繋がりを想起させるし、「茶の本」にしてもどこまで歴史的な正確性が反映されているのか疑問だ。個々の事象や思想、人物像などを自身の思索に沿った形で並べているのも、あまりにもお手軽な感じ。

こうした批判は真っ当だと思うし、「日本ファシズム」に繋がる思想的背景を構成している点は僕としても強い反発を感じる。思想・哲学としては、右翼の自分本位な戯言を想起させられて薄っぺらな感じすら覚えるくらいだ。(ま、オリジナルはコッチなんだろうけど)

ただ「文学」として捉えると、非常に美しい。特に「茶の本」で提起されている「茶室」のイメージや「花」のあり方などは、その詩的な世界観で思想性を越えて僕の心を捉える。
この本を読んでも「茶道」の作法を会得することは出来ないが、その世界観の一端は詩的イメージとともに手にすることが出来るのではないだろうか(ま、美しい誤解かもしれないが。笑)。
そういう観点からは優れた作品だと思う。

まあ学問としては歴史的事象や思想の系譜は厳格に分析する必要があるが、その一方で日常生活を送る中で、自分を取り巻く「世界」に対して一定の意味づけを行うための個人的「哲学」においては厳格さは時として足枷となってしまう。厳格さを犠牲にしてまでも総体としての構造を優先すべき側面が個人的「哲学」にはあるのではないかと思う。

結局のところ、この作品はそうした個人的「哲学」の表明として捉えるべきなのかもしれない。そう考えると、このような詩的なイメージに満ちた個人的思索を僕は凄く羨ましいと思う。(「日本人」がこういう崇高な思想に支えられていたとはとても思えない。そういう意味でもここに記されているのは「理想」を語る岡倉天心の「個人的思索」でしかないのではないか)
今日のテレビ・新聞を賑わせたライブドアの堀江社長やヒューザーの小嶋社長、宮崎勤なんかのことを考えると、こういう「哲学」の必要性もあるのかなぁ、なんて思ったりもするし。

「日本中心主義」には鼻白んじゃうけどね(笑)。

2006/1/16

ろくろ首の首はなぜ伸びるのか  

「ろくろ首の首はなぜ伸びるのか 遊ぶ生物学への招待」

著者:武村政春
出版:新潮新書
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あとがきに、
「本当を言えば、(中略)ジョークであることをオクビにも出さない徹底さでもって本書の執筆に臨みたかったのだが、対象がすでに「妖怪」あるいは「幻獣」として有名なものばかりであり、そうする意味もあまりないと判断し、(後略)」
とあるのだが、僕としては「ジョークであることをオクビにも出さ」ずに書いて欲しかったな。この手の作品は「遊び心」(なんかロレンスみたいだが)がポイントだと思うのだが、本作のようなスタイルだと、どうしてもそこら辺が不徹底に終わってしまうのだ。
やはり「本」そのものが「真面目な顔して言うジョーク」として成立しているようなスタイルが不可欠だと思うのだが…。

まあでもなかなか面白い本であった。この手の作品としては「空想科学読本」なんかが有名だが、「物理」が苦手な僕としてはナカナカあっちは敷居が高いのだ。
しかしこちらは「生物」。「まあ何とかなるかな」と思って手に取り、まあ何とかなった(笑)。

個人的には、
「ケンタウルスー人間の胴体はどのように馬からつながったか」
「カオナシー食べた生物の声をどのように融合したか」
「吸血鬼ー太陽の光が当たるとなぜ灰になるか」
「目目連ー障子にどうして目が出来たか」
あたりが気に入っている。そのクダラナサ加減がね(笑)。

2006/1/16

点滴!?  雑感

昨日は熱も平熱に下がり、咳は残るものの、機嫌は悪くない状態だったので、まあ「一山越えたかな」と安心していたのだが…。

今朝、出勤前に少し嘔吐。ただ本人が苦しそうでもないので、「これは母乳を飲ませ過ぎたかなぁ」などと妻と話していたのだが、違っていたらしい。
昼にも嘔吐し、妻が病院に連れて行ったところ、「脱水症状」との診断。点滴を打つことになってしまった。しかも2本。

少し早めに会社を出て、病院へ迎えに行った僕の目に入ったのは、プクッと腫れ上がった息子の左手のひら。どうも1本目の点滴が上手くいかず、そんな有様になってしまったらしい。
動き回るだろうから難しいのはわかるけど、そこら辺はプロとして…
などと思いは廻るが、仕方がないというのも分かる。
まあ、息子の方は少しすると機嫌も持ち直し、パタパタと遊び回っていたから、大事はないんだろうけどね。ただ見てるほうが痛々しいんだよ、こういうのは。

考えてみると、僕でさえ点滴は未経験。
思わぬところで息子に先を越されてしまった…。(別に越さなくていいんだよ、こういうのは!)

2006/1/14

発熱騒動  雑感

昨晩から息子が38度の熱を出してしまい、バタバタした。
今まで風邪は何回かひいているし、発熱したのも2回目なのだが、「無茶苦茶動けるけど、意志の疎通が万全には程遠い」という状態での発熱は初体験なので、ムズがる息子のプチ「家庭内暴力」に対応しつつ、何とか少しでも症状を軽くしようと四苦八苦。
まあちょっと落ち着いた段階で役立たずの僕は寝れたんだけど、何度も目を覚ます息子に朝まで対処していた妻の方はかなり大変だったと思う。

今朝になって少し熱は下がり、食の方も回復してきたので一安心、と思っていたら、昼過ぎに38.5度の発熱。
いつも行っている小児科は午前で終りなので、どうしようか悩んだが、以前に隣に住んでいた方に教えてもらっていた小児科が「土曜3時」まで開院していることを確認、慌てて連れ込んだ。

坐薬で熱を下げ、何とか平熱近くにはなって、その後は(勿論万全ではないのだが)ほぼ機嫌よく、食欲もマアマアなので安心している。鼻が詰まっているから、夜何回かは起きちゃうと思うけどね。
妻よ、苦労かけます。

今回の風邪は先週「風疹」の接種に行って小児科で貰ってきた公算大。
最近、インフルエンザが子供たちの間では大流行中らしいので、そっちを恐れてたんだけど、ただの風邪だったらしいので良かった。
それにしても、よくある話ではあるが、病院に行って、病気もらってくるんじゃぁ…。

…などと新米中年親父はアタフタしておる訳です(笑)。

2006/1/13

忘れられた日本人  

著者:宮本常一
出版:岩波文庫
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「古典を読む」シリーズ第一弾(笑)はコレ。
いや、本当は山田風太郎と安野光雅が「無人島に持って行く一冊」に選んだという「即興詩人」(森鷗外)にするつもりで、購入までしたのだが、一ページ目からの文語体に根性なくして、こっちに鞍替えしたのだ(しかし上下二巻、文語体に付き合うにはかなりの覚悟がいるよ。名文なのは良くわかるけどね)。

本書が世評に高いのは知っていたが、「民俗学は何か貧乏臭くてダルイ」ってな感じの偏見に囚われていて(笑)、今まで読んだことがなかった。今回は安野&藤原コンビのお奨めに従って読んでみたのだが、いや読んでビックリ。
無茶苦茶面白かった。

最近、村上龍が「昔が良かったなんて嘘だ。今の方がズッとイイ」といった発言をしばしばしているが、僕も全くの同感。直線的な「進歩」などというものは更々信じていないが、それでも自分の10歳のときと今を比べても、今の方がイイに決まっている。ましてや戦後直後などに戻りたいなどと言う気持ちは全くない。
それでもやはり「変化」(「進歩」ではなく)を享受する中で捨ててきたものはある。その選択そのものは後悔しても仕方がないことだが、捨てたものを忘れ去ってしまうのは、それは違うだろうという気がするのだ。何らかの契機に、捨て去ったものたちを哀惜の念を以って振り返ることには、大きな意味があると思うし、「選択」したものの責務でもある。
そんなことを考えながら、この驚きと楽しみに満ちた本を読んでいた。

個人的には作者の宮本常一が山口県大島の出身と言うのが面白かった。ここは義父の出身地でもあるのだ。そこに生活していた古老の話や、伊予・土佐の農村の話なんかが語られているから、例えば話し言葉(方言)にも何となく馴染みがあり、懐かしくも面白がれたというのもある。
勿論、そこで描かれている「生活」に、僕の「記憶」が被ることはない。それはまさに「忘れられた」風景であり、人情であり、人間のあり方だ。
それでも土地の感覚を通じて、この本は少しだけ僕には近しいものだった。

ま、「古典」と言っても本作の出版は1961年。「即興詩人」なんかに比べれば、随分と最近の作品だ。
それでも確かにこの本には「古典」の風格があると思う。時を置いて、また読んでみたいと言う意味でも。

(「聞き書き」と言えば伊丹十三だが、本作を読んで、伊丹十三はこの本の影響を受けているな、と感じた。博覧強記の伊丹十三、本作を知らないわけはない。
勿論、題材を選び、取捨選択しながら文章に落とすのは作者自身なのだから、そのことが伊丹十三作品の価値を落とすわけではないけどね)

そうそう、アップした写真は通常の岩波文庫のだけど、今回僕が読んだのは「ワイド版」。Amazonに書影がなかったから、已む無く通常版をアップした。
でもワイド版、いいね。字が大きいもん(笑)。
最近、小さい字がチョット辛くなってきてて…。

2006/1/11

日本の思想  

著者:丸山真男
出版:岩波新書
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昨日は朝、薄っすらと雪が積もった東京も、今日は少し暖かかった。挨拶回りも今週一杯。気温が上がってくれると、本当に助かる。

「古典を読む」シリーズ第一弾…じゃなくて、「挨拶回りに持参するのに嵩張らない本を」と思って、昨日読みかけの「世にも美しい日本語入門」と一緒に持ち出したのがコレだったので、こういう繋がりになっちゃった。ま、もう丸山真男も「古典」になっていると言ってもイイと思うけどね。

本書を購入したのは少し前に読んだ「丸山真男の時代」がキッカケ。あれを読んで丸山真男の著作を読みたくなったのだが、「現代政治の思想と行動」とか「日本政治思想史研究」なんかは硬すぎる気がして、比較的理解しやすかったと記憶している本書を選んだ訳だ(大学卒業時に古本屋に売ってしまったというのもあって)。

しかしコレが記憶違い。いや、難しい、難しい(笑)。
全部で4つの論が納められているのだが、論文形式の「T.日本の思想」と「U.近代日本の思想と文学」は、ホントに読んでいて頭が痛くなった。特に「U」の方はプロレタリア文学に予備知識が殆どないので、サッパリ…(多分「プロレタリア文学」について言及されているのだと思うけど…)。
講演形式の「V.思想のあり方について」と「W.「である」ことと「する」こと」については何とか論理展開についていけたような気がする。前半で叩きのめされただけに、相対的にそんな気がするだけかもしれんけど(笑)。

学生時代はコレが理解できたんかね?いや、そんなことはないだろう。
やっぱり同じように前半で苦吟し、後半に光明を見出すパターンだったんだと思うね。で、後半を読んだイメージだけが残っていた、と。人間、都合よくできとるモンです(笑)。
まあ、でもこういう厳しい論理展開をする文章を読む力が衰えているということは確かにあるだろうな。ここについては自分を甘やかせ過ぎたことに反省。

で、分からないながらも断片的に理解したところによる感想は、「これって今でも結構通用するんじゃねぇの」。
「思い出」による突発的な「伝統」回帰パターン(コレは決して否定的な捉え方だけではないが)とか、政治における「決断」の位置づけとか、「である」ことと「する」ことの日本的制度での位置づけとか、ラディカルな精神的貴族主義とラディカルな民主主義の内面的な結びつきの必要性とか…
1961年出版の本だが、現代の日本の状況(政治、文学、マスメディア等々)に対する切り口としてもかなり有効的なものがあるのではと思いながら、読むことが出来た(理解できた範疇では。笑)。

こういうのを読むと、藤原正彦氏の論などもマダマダって感じがしちゃうな。難しく描くことが重要なのではないのは勿論なんだけど、基本的な立ち位置が違うような気がするんだよね。バックに窺がえる「教養」の厚さも半端じゃない。
そういう意味では「丸山真男」というのは、日本における戦前教養人の最後の一人だったんだと、改めて気付かされる。

5年後くらいに読み返して、もう少し分かる様になってるといいなぁ、と思っております(笑)。

2006/1/10

世にも美しい日本語入門  

著者:安野光雅・藤原正彦
出版:ちくまプリマー新書
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日曜日に妻と息子を空港に迎えに行った際、時間があったので入った本屋で見つけた本。
歳が明けてから読んだ本の作者二人の対談、ということで、深く考えもせずに購入してしまった。

作者二人の関係は、「安野光雅が小学校の教員をしていたときの生徒が藤原正彦」というものらしいが、本書については題材的に藤原正彦がリードをし、安野光雅が補完・付加するような形で展開している。主な骨子は「国家と品格」とかなりの部分で被るので、あまり目新しいものはなかった。

それでも二人が「古典」に対して造詣が深いのには感銘を受けた。
彼ら自身は対談の中で、明治・大正・昭和初期の人々に比して自身の教養のなさを嘆いているが、いやいや、僕にとっては十分、恐れ多い。

少し前、会社のかつての上司(当時は役員であった)と宴席を一緒にした際、上司が出ている経営者向けの勉強会の話になった。会では経営者の最低限の教養の土台として百冊程度の古典の読書を義務付けているらしいが、そのリストで僕が読んでいたのは20冊程度だったのを覚えている。(同席していた同僚は10冊弱だったので、決して僕の読書量が少ない、というわけではなかったようだが)
その20冊も読んだのは大学1,2年まで。以降の僕の読書生活は「古典」とは無縁だったことになる(笑)。

まあこれに関しては思うところもあるし、意図的だった面もあるのだが、一面、僕の読書体験の中で「古典」が軽視されていることは否めない(「何が古典か」という命題はあるが、どのような切り口でも読んでないのは間違いない)。別に経営者になるつもりはないのだが、社会人としての教養と言う側面からも「古典」と向き合う必要があるのでは、とは常々考えている。ま、20歳代で「古典」を読みふけっていると言うのもどうかとは思うが、今の年齢くらいだと、それなりにサマになる気もするしね。(ロシア文学はキツイけど)

と言う訳で、本書を読んで改めて「古典」読書の重要性に目覚めたわけであるが…ナカナカ読めないんだよね、これが。
取りあえずは買って本棚に並べますか…ということで、Amazonに注文しました。
いつ目を通すかは、ま、風次第ということで。



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