2009/4/8

みかんの花咲く丘  音楽

今日はデイサービスに行きます。
デイではピアノを聴いて頂いたり、歌を歌って頂いたりする他に、いろいろな曲についてお話をさせて頂いたりもしています。

先日のデイでお話した「みかんの花咲く丘」

この曲は、お年寄り皆さんお気に入りの1曲ですが、面白いエピソードを持っています。
「み〜かんの花が〜さ〜あいて〜いる〜」
とよくご存じだと思います。
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/mikanno_hana_saku_oka.htm

今日は皆さんにもご紹介します。

『わたしが「みかんの花咲く丘」を作ったのは昭和21年8月24日の12時半から13時くらいの間であった。

この歌の作詞者である加藤省吾は自伝の冒頭でこのように書いている。しかし、作詞した日付のみならず時刻まで正確に憶えているのはどういうことだろうか。しかもよく読むと12時半から13時までのわずか30分間で書き上げたというのである。

作詞家 加藤省吾がまだ音楽雑誌の編集員をしていた昭和21年の8月、ミュージックライフの特集で当時12歳の人気少女歌手、川田正子のインタビュー記事を載せることになった。
加藤は8月24日の昼前に東京、芝の川田家を訪問する。
この日こそ「みかんの花咲く丘」が誕生した日である。

約1時間のインタビューを終え、腰を上げたところへ2階から作曲家、海沼実が降りてきた。
当時、海沼実は川田家に住み込んでおり、2階にピアノを置いて音羽ゆりかご会の練習場にしていたのだ。開口一番、海沼は「加藤さん、何か詞を書いてくれませんか」という。

急にそんなことを言われても何のことだかさっぱり飲みこめない。だいいち、海沼と加藤は後にゴールデンコンビと言われるようになったものの、当時はほとんど付き合いはなかった。

とにかく話を聞いてみると東京のNHKと伊東市の小学校を中継してのラジオ二元放送「空の劇場」という番組が企画された。その伊東市の会場で川田正子が唄う歌がまだできてないという。しかもその放送が明日だというのである。

いくらなんでも無茶だと思った。何とか言い繕って逃げたほうがいいのではないか。しかし海沼は親戚からもらった赤飯をご馳走してくれるという。食糧難の時代である。赤飯なんか滅多に食べられるものではない。それに今回の歌は1回限りの放送用だから気楽に作ればよいという。
かくてまんまと詞を書かされることになってしまった加藤は故郷の静岡県のみかん畑を思い浮かべながら原稿用紙をうめていった。

歌詞を受け取った海沼は既にフリルのワンピースに着替え、身支度を終えて待っていた川田正子の手をつかみ、礼をいう間もなくあわただしく出ていった。そんなに急ぐのには訳がある。当時出版物や歌などは発表する前に必ずGHQの審査を受けなければならなかったのである。

海沼と川田正子が汗を拭き拭き飛び込んだ内幸町のJOAK日本放送協会には当時CIE米民間情報局とCCD米民間検閲部が陣取っていた。
そこへさっき出来たばかりの加藤の詞を持ち込み放送許可が出るのを待った。もちろん歌詞には問題になるような言葉や内容は含まれていないのですぐに許可が降りた。

だがゆっくりしている暇はない。すぐに伊東行きの電車に飛び乗った。
なにしろこの日は伊東行きはこれ1本しかなかったのである。

やがて電車の心地よい揺れで正子はうとうと眠りについたが海沼にはもうひとつ大きな仕事が残っていた。

それは歌のメロディーを考えることである。なんとか伊東に着くまでに目鼻を付けようと思った。しかし、いくら歌詞を読み返してもいいメロディーが浮かんでこない。次第に集中力が途切れてくる。ふと彼は苦学した若い頃を思い出していた。故郷を捨て、バイオリン一丁持って上京した頃、そして音楽学校でよく弾いたオペラの曲を思い浮かべているうちに突然閃いた。

ワルツのような楽しい前奏を思いついたのである。歌全体のメロディーも自然に流れ出るように浮かんできた。こうして列車が伊東に着く頃には歌のメロディーは完全に出来上がった。この日、伊東の旅館で海沼は川田正子と一緒に風呂に入り、正子の背中を流しながら明日唄うことになっている新しい歌を教えたという。

1回限りの放送用にバタバタとあわただしく作られたこの歌は空前の大ヒットとなった。童謡歌手、川田正子の人気も頂点に達し、大人のスター歌手をも圧倒する勢いだった。こうして戦時中、下火となった童謡は戦後再び盛んに唄われるようになり、昭和30年代の前半頃まで「レコード童謡」は子供たちの娯楽として活況を呈した。』



長くなりましたが、面白いお話だと思いませんか?


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