私は物心ついた、そう2、3歳の頃から親に常に完璧であることを求められてきた。
仮死状態で生まれ、体が弱く育った幼少時代だからこそ、大事にするために完璧を求めてきたのだ、と思っていた。
しかし、親元に戻ってきて、孫に対する接し方を見ていると、どうもそうではないらしい。
きちんと挨拶をすること。
返事ははっきりと「はい」と言う事。
タイミングを逃さず「ありがとう」と言える事。
決してわがままを言わない事。
遊びに行きたいなど思ったり、遊んだりしてはいけない。
などなど。
いえ、これらの事は当然できなくてはならない事であるし、親も躾として子供に対して躾けていかなくてはならないと思っている。
遊びについても、うまくコントロールができるように導いていかなくてはならない。
でも、でも・・・なのだ。
いくら大人の感覚で高級寿司を食べに連れて行っても、子供が欲しがるのはさび抜きの寿司だし、卵や納豆巻きなのだ。
休みの日には「どこかに連れて行って」というのが、子供だと思う。
学校の友達が遊園地に行ったり旅行に行くのを羨ましく思うのは当然だと思う。それを休みの日は家の片付けなどをし、遊びに行くなどもってのほかだ、というのは不自然だと思う。
ましてや、ちょっと散歩に出かけていても私の親の用事で呼び戻され(戻る私も私だが)、それに不満を言うと怒られるのは酷な事だと思う。
私は今「教師」をしているくらいだから、子供の心理学とか教育心理学、発達障害の子供の教育等々色々勉強してきたし、また、自分自身の子供のことでも心理相談を受けて自分自身かなり勉強をしてきたほうだと思う。
だから、子供にはその発達年齢に応じた発達の仕方があるのだとわかっている。だからこそ、余計に「でも・・・」なのだ。
私の親はどの年齢の子供に対しても「大人と同じ振る舞いと考え方」を要求する。いえ、その考え方もあってもいいとは思う。しかし、彼らは1度言われたことを2度目からは完璧にできることを要求するのだ。
はっきり言って、無理。
大人でさえ、身につけることや進歩していく事は少しづつの歩みのはずなのに、子供に「1度言われたことは次からは完璧にやれ。それができないようなら根性がない」と言うように接するのはおかしいと思う。
今でもはっきり覚えているが、私が小4の時友達が読んでいた漫画雑誌「りぼん」が読みたくて、(当時買ってもらえていたのは、「小学4年生」という学習雑誌だった)恐る恐る頼んでみた。
すると、「そんなものが欲しいの?!どうせ読むなら、これにしなさい」と、買ってもらったのが「セブンティーン」
10歳の少女にとっては衝撃的な内容であった。(今ならば、全然そんなことはないかもしれないが)
母にしてみれば、初めから大人の扱いをしたつもりであったようだ。
しかし、私が欲しかったのは「りぼん」であって、「セブンティーン」ではなかったのだ。
ショックだった。
これだけではなかった。
年頃になれば当然好きな人が出てくる。
前にも書いたが中学の時にはBFもいた。
結局彼とは卒業後続かなかったのは、「明るい男女交際」を認めてもらえなかったからだ。
大人と同じ振る舞いや言葉遣いを要求するくせに、「異性を好きになる」事は「ご法度」だった。
なぜなら、男女交際をするなんて、親が働いていて不在なのをいい事に「男と付き合ってふしだらだ」と思われて「世間体が悪い」のだ。
だから、私は思春期に親と気軽に「○○君が気になるのよねぇ。」なんて話をしたことがない。頭ごなしに叱られたからだ。
両親は、自分の娘が結婚するとか、子供を生むなどとは思ってもいなかったようだ。
いまだに言われる。
「高校を卒業して、大学に行くからといって東京になんか出すんじゃなかった。そもそもそれが間違いだった。」
高校を卒業後、大学に行ったとしても卒業後は親元に帰し、親のコネで就職させ(私の場合は教師になりたかったから、塾を開かせるつもりだったらしい)、ずっと親元において自分たちが年老いたら面倒を見てもらう。
万が一結婚の話が出たとしても、それは見合いで私の意思とは関係なく親の意思のみで地元で結婚させることを条件としてのみ、認める。
子供も一人。せいぜい二人。
子供なんて産んだって、将来には希望がないのだから、苦労するばかりなのだから、産む必要はない。・・・と。
これが私の両親の人生設計のようだ。
だが、それがどれほど私を苦しめてきたかを、彼らは知らない。
私は常に「私が我慢すればそれで丸く収まるのだ」と生きてきた。
その中で、大学進学と東京に残ったこと、それと結婚この3つが今までの人生で親に逆らってきたことなのだろうと思う。
今郷里に戻って、子供達と5人新しい生活を始めて1年3ヶ月ほど経ったが、その中で孫に対する「完璧さを求める」姿勢には本当に疲れてしまう。
子供の中で唯一kentaが子供らしい発言をして逆らう。しかし、それが尚の事、祖父母の反感を買う。
大人でもそうだが、何か行動をするには必ず理由があるはずなのだ。
子猫を拾ってきた件でも、祖父母の意見は
「お前たちは借家に住んでいてペットは飼えない。それなのに、すでにわがままでお隣の猫をもらって飼っている。本来守らなくてはならないルールに従わない、お前が悪い。今後は、捨て猫を見ても「無視」しなさい。」ということだった。
そのことを分からせようと、「躾がなっていない」とか「話して聞かせているのに不機嫌な返事しかしない」、「まったくかわいげがない」と毎日のように母親である私は責められた。
kentaの言い分はこうだ。
「俺はあんな小さな子猫が置き去りにされているのが可哀相だったんだ。可哀相だと思っちゃいけないのか?「無視」したら、俺は「可哀相」の気持ちを捨てろって事なのか?」
ちゃんと理由があったのだ。
「いつもいつも完璧にしろって言うけど、できないよ。大人だってできないじゃないか。俺だって少しづつ良くなろうとしてるのに、少しづつじゃいけないのかぁぁぁぁぁぁ!!!!
俺なんかいらないんだ!もうどこかへ行ってやる!!!
俺を捨ててくれよ、おかあさーーーーーーーん!!!」
結局私は彼の言い分を大切にしたかったので、仔猫を連れ戻して家に置いている。
親を騙している様だけれどみんなで「この猫ちゃんはクリスについてきたから、かわいがっているだけで「うちの猫」じゃない」と認識を一致させて面倒を見ている。
子供に完璧を最初から求めるのは無謀だ。
私自身がそうされてきたから、尚の事求めたくはない。
「なぜ、親に「そんなに言わないで」とか「私たちのやり方があるからそうさせてくれ」って言えないの?」と職場の保健室の先生に問われた。
「だって、こっちが色々自分の意見を言おうものなら、最後は「あんた達誰のおかげで生きていられると思ってるの?4人の子供を抱えて誰のおかげで死なずに済んだと思ってるの?」って言われるのよ。」
「はぁ、それじゃあ、それ以上は何も言えなくなるわねぇ。」
そう、その「決め台詞」がある限り、私はずっとしんどい。
子供たちもしんどい。
決め台詞で「大人らしく」なっていく孫を見て、私の両親は自分たちの躾に満足する。
私は果たして私らしく生きているのだろうか?
せめて子供たちには自分が学んできた「子供の接し方」を通して
彼ららしく育っていけるよう支えてやりたい。
本当は私は「自分の親の娘」だけでなく、
娘であり、母であり、女であり、自分らしく生きたいと思っている。
それができるのは、いつになるのだろうか・・・。
ここ1ヶ月くらい特に辛かったな。
ここに書き出したら少しは楽になったかもしれない。

1