今野真二「うつりゆく日本語をよむ − ことばが壊れる前に」(岩波新書)を読みました。
2021年12月17日に出版されたばかりなので、コロナ禍での現状もたくさん出てきます。
副題のように、著者は現状を危機的にとらえています。
しかし、誤用だとか乱れているとか断定することは避けています。
言葉は変化するものだからです。
著者は1958年生まれ。
私より2歳若いので、ほぼ同じような年代です。
私がときどき違和感をおぼえる言葉遣いを次々と指摘してくれています。
そうだよなあ、そんな言い方しなかったよなあ、と共感します。
たとえば、「心が折れる」「心に刺さる」「勇気を与える」などなど。
私が若い頃、絶望したり、がっかりしたりしたけど、心は折れたりしませんでした。
新聞(この本ではもっぱら朝日新聞)の見出しも題材にされています。
新聞の見出しに情緒が付加され、本文に一度も出てこない言葉が使われたり、内容を圧縮した表現になっていないことがしばしばあります。
記者が、本人はこう思っているに違いないと忖度(そんたく)したりするのでしょう。
扇情的な見出しは、私も前から気になっていました。
日本経済新聞はそういう見出しが比較的少ないので、安心して読めます。
テレビのバラエティ番組や大学のオンライン授業など、いくつかの場面を題材に日本語の変化を鋭く指摘しています。
コロナ関連の新語のたぐい(たとえば「出口戦略」「東京アラート」「ウィズコロナ」など)もバッサバッサと切りまくります。
この本には取り上げられていませんが、よく目にする「号泣」。
テレビ番組中に誰々が号泣した、なんてネットニュースに出たりします。
たまたまその番組を見ていて、当人は涙を浮かべてはいましたが、「号泣」なんてしていなかったのを目撃したりします。
「号泣」って、大声を上げて泣くことですよね?
静かに泣くことも「号泣」と言われるようになってしまったのでしょうか?
「話しことば」と「書きことば」はよく聞きますが、現在は加えて「打ちことば」があるそうです。
メール(さすがに著者は「メール」ではなく「電子メール」としています)やSNSで使われる言葉、文章ですね。
しっかりしたキーボードのあるPCじゃないスマホ(著者は、ちゃんと「スマートフォン」としています)であっても「打ちことば」なんですが、その特性を分析しています。
「打ちことば」が「話しことば」に近づいていっているそうです。
ことばを壊さないために、「ハードな書きことば」を読むことの重要性を説きます。
かくいう私も、あまり読まなくなりました。
「書きことば」も、このブログのような軟弱な文章ばかり。
いや、これこそ「打ちことば」ですね。