福田育弘著「ともに食べるということ 共食にみる日本人の感性」(教育評論社)を読みました。
本の帯に目次が載っています。
非常に多くの文献や事例を取り上げ、広角的に日本人の共食について考察しています。
著者はフランス文化・文学の専門家であり、飲食についての研究者でもあります。
日本人の共食についての感性の比較対象は、もっぱらフランス人のそれになります。
第3章で語られる「ガストロノミー」とは、通常、「美食」と訳されるフランス語だそうです。
フランスでは、「ガストロノミー文学」が確立しており、飲食研究はさまざまな研究領域の対象にされているのだとか。
しかし、著者は「ガストロノミー」と「美食」は完全には重ならないと指摘します。
フランスのある美食家が「食卓の喜び」を味わう条件として「そこそこに美味しい料理、よいワイン」のほかに「感じの良い会食者」「十分な時間」をあげているそうです。
つまり極上の料理やワインは必須条件ではなく、むしろ共食性、社会性が重視されているのです。
一方、日本の美食家は「ときに求道的ともいえるほど、過剰に美味しいものをもとめ、味わうことをよしと」し、例としてマンガ「美味しんぼ」をあげています。
日本語の「美食」には「共食」の要素は見あたらないようです。
家族団欒の楽しい食事風景は、しばしば映画やドラマで目にします。
「しかし、日本ではむかしから家族は共食していたといっても、それはそのまま家族の団欒を意味しない。」
「毎日の食事は家族内身分関係の視覚化という役割をになっていたのだ。」
とし、「食事の場は、しつけの場であった」とも指摘しています。
家長からの叱責や訓話を除き、食事中の会話は禁止されていたのです。
フランスと日本の「ミシュランガイド」に掲載される飲食店の違いについて言及しています。
「日本のすし屋は、高級店でも、いや高級店ほどカウンター主体である」のに対し、「カウンターで高級な料理を食すということはフランスでは考えられない。ゆったりとした空間で、心地のよい椅子に腰掛け、こまやかなサービスを受けながら、気のおけない家族や友人たちと、じっくり料理を味わって食べてこそ正餐である」といいます。
日本で共食が軽んじられていると言うわけではなく、「作り手と食べ手のつながりを第一とする日本的な共食観(共食感)」があるのだそうです。
茶道の流儀や弁当文化などが例として取り上げられています。
最終章では、アンパンマンが自分の顔を弱った人に食べさせるという行為を「作り手と食べ手の交流に共食を感じ作り手に感謝する思い」と分析しています。
本の帯に「コロナ後の世界において」云々とあります。
2021年4月26日初版第1刷の本とはいえ、そこまでの考察はなされていません。