実家の近所のおじいさんが亡くなりました。
同じ班なので、両親のどちらかは葬儀の手伝いに参加するべきです。
しかし、高齢のため、私に代理で行ってくれと頼まれました。
私は、両親とは別居していますので、この町内の住民ではありません。
でも、運良く予定が入ってなかったので、快く引き受けました。
通夜・告別式は、比較的近くの民間斎場で行われました。
班長さんから言われた通り、午後4時半に斎場に向かいました。
「社長さん、忙しいのにすみませんね。」
と、ニコニコ顔で歓迎されました。
そして、真っ先に、私の仕事を決めようということになりました。
一番役に立つ人材だと思われたようです。(^_^;)
といっても、町内のお手伝いは、受付と香典の管理くらいです。
11人も集まりましたが、やるべき仕事は限られています。
受付も香典も、「一般」と「町内」に分けるということで、私は「一般」の香典の記帳係に任命されました。
葬式に参列した経験は数えきれませんが、葬式手伝いの経験はほとんどありません。
でも、まあ、なんとかなるでしょ。
香典の記帳係って、字が上手い老人の役割だとイメージしていました。
字は上手くないけど、そういう役割が自然な年齢になったようです。
この町内、もともとは戦後に建てられた戸建て市営住宅です。
戦後、大垣市内の紡績工場をはじめとして、急増した労働者のために、大規模な市営住宅団地が造られたのです。
私の父も、大日本紡績という工場に勤めていました。
そして、抽選で当たって、この市営住宅に入居しました。
市営住宅は、その後、居住者に払い下げられました。
ほとんどの家が、立て替えられたので、当時の面影はありません。
市営住宅に入居した第一世代の中では、私の両親は比較的若かったようです。
そのため、私は、第二世代の中では、一番年下でした。
小学校6年生のときには、班のなかに、下級生が一人もいなくなりました。
斎場に集まっていたのは、主に第二世代か第三世代の人たちです。
子どもの頃、遊んでくれたり、学校に連れて行ってくれたお兄ちゃんたちがいました。
なかには、前の持ち主から買って移り住んできた人や、空いていた土地を買って家を建てた人もいます。
「博史くん、オレのことは憶えてないよな?」
と、10歳くらい上のおじさんから聞かれました。
正直に、
「はい、一緒に遊んでもらった憶えはありません。」
と答えました。
相手は、私のことを、よく憶えているそうです。
香典管理は、受付の裏手に置かれた机で、4人でおこないました。
受付との間に棚があるので、会場からは見えにくくなっています。
葬儀の進行を気にせず、
「いくら集まった? 数えようか?」
などと、声を出したりするもので、受付係から注意されてしまいました。
94歳で天寿を全うされた故人のおかげで、和気あいあいの心地よい時間をすごしました。
