大塚ひかり「愛とまぐはひの古事記」(ちくま文庫)を読みました。
著者は、源氏物語を全訳しており、そちらが本業で古事記は副業みたいです。
しかし、精神状態が悪かったとき、源氏物語は読むことができなかったのに、古事記は楽に読めたそうです。
感情を出せない源氏物語の登場人物たちと比べ、あり得ないほど感情を爆発させる古事記の神々たち。
高校の日本史の授業で、古事記を習いました。
子どもの頃、父親から与えられた本「少年古事記」(だったかな?)の記述とは違い、神々のとんでもない所業に呆れました。
本書でも、一番はじめに取り上げているエピソードでは、
「さらに妙なのは、勝ちの勢いに乗じたスサノヲがアマテラスの田を荒らし、大嘗殿(だいじょうでん)に“屎(くそ)”をし散らした上、アマテラスが機織り室にこもって神の御衣(みそ)を織っているときに、天井から皮を逆さに剥(は)いだ馬を投げ入れたので、天の服織女(はとりめ)が驚いて、機織り道具で性器を衝いて死んでしまったこと。いくら驚いたからといって、よりによって性器を衝いて死ぬということがあろうか。」
タイトル通り、神々の「まぐはひ」もたくさん紹介されています。
「『古事記』の特徴は、生命の根源たる『性』をすべての中心に据えているところであった。」
なんせ兄弟神であるイザナキとイザナミが「みとのまぐはひ」という近親性交をし、国土を生んでしまうのですから。
「が、さしものイザナミも最後に火の神を生んだため“みほと”…御性器…が焼けて臥(ふ)せってしまう。臥せってからも吐瀉物(としゃぶつ)や糞尿から最後の最後まで子を産み続け、死んでしまう。」
性行為だけでなく、糞尿から神々が生まれたりします。
古事記は、歴史書などではありえないと思います。
では、なんのために書かれたのでしょう?
天皇家の正統性を主張するためなのでしょうか?
それだったら、なぜ天皇家の祖先たちのとんでもないエピソードを、このようにばらまいているのでしょう?
もちろん、現代の道徳観で神話を断ずることはできません。
それにしても、古事記編纂を命じた天武天皇のころの道徳観には、合致していたのでしょうか?
最近、「おもてなし」やらなんやら、日本人のお行儀の良さがもてはやされています。
しかし、もともとはハチャメチャな国民性だったとしたら、それはそれで楽しくなります。
