京都市は洛東、洛西、洛南、洛北、洛中エリアに大別されます。世界文化遺産に登録される有名社寺、他の社寺など時期を変えて再訪すると新しい風情や魅力に出会えます。

国指定文化財始め、素晴らしい文化財など見るべきものが数多く、いくら時間があっても足りません。

古都・京都を効率よく周る事を考えるも良し、風情を堪能しながら周って再訪するも良し・・・今回は、降水確率70%の中を、急ぎのんびり?(爆)と洛中をチャリビアンしてきました。

京都の玄関口・JR京都駅

本能寺跡・・・天正10年(1582年)6月2日、織田信長が明智光秀に急襲され最期を遂げた場所です。「本能寺の変」で全焼した本能寺は、秀吉によって現在の寺町に移されました。

陰陽師・安部晴明が自由に操った式神と旧一条戻橋の親柱を利用して再現されているミニチュア版一条戻橋

千利休聚楽屋敷跡に鎮座する晴明神社

晴明神社の社紋の晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)ゆかりの桔梗の花が咲いています。

えぇなぁ〜 (@^▽^@)

晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)が刻された拝殿

晴明が自在に操った式神を橋の下に封じ込めていたと伝える「一条戻橋」

舟橋・・・当地は古来、舟橋と呼ばれますが、堀川が氾濫した時に舟を繋いで橋にした事が起こりと伝えます。

応仁の乱で西軍が布陣したので西陣・・・「西陣碑」

牛若丸ゆかりの首途(かどで)八幡宮

「源義経奥州首途之地」碑

古墳を利用したと考えられる社壇の小丘に鎮座する本殿

千本ゑんま堂(引接寺)

閻魔王の湯呑茶碗(萬倍碗)

釘抜地蔵(石像寺:しゃくぞうじ)

地蔵堂の壁には、お礼に奉納された釘と釘抜の小絵馬がビッシリ・・・

釘抜(苦抜)地蔵堂・・・諸々の苦しみを抜き取るという事から苦抜地蔵とも言われます。

応仁の乱の時、西軍の将・山名宗全の特別のはからいもあり、この本堂が残されたと伝え、本堂内陣の柱に残る刀、槍傷が乱の凄まじさを今に伝えます。

阿亀(おかめ)像・・・義空上人が、千本釈迦堂(大報恩寺)の本堂を建立する時、名大工として名を馳せていた長井飛騨守・高次を棟梁に選任しました。
ある日、高次が失敗し悩んでいた時、妻の阿亀の助言によって本堂は立派に完成しますが、阿亀は夫の失敗を人に知られてはと思い、本堂の完成を待たずに自害しました。
2月の「おかめ節分」は有名です。

京都市内現存最古の本堂(国宝:鎌倉期)

京都最古の花街・上七軒(かみしちけん)

豊公北野大茶湯の跡@北野天満宮

文道の大祖・風月の本主の額を掲げる北野天満宮楼門

鼻穴(笑くぼ)に小石を乗せて、落ちずに乗った石を財布に入れると縁起良しと云う大黒組灯籠

二個目の小石も、すんなり乗りました〜

さすが指先の魔術師?!(爆)

檜皮葺の北野天満宮本殿(国宝:桃山期)

忌明(いみあけ)塔(菅公御母大伴氏廟)

蜘蛛塚と金売橘(吉)次の墓?五輪石塔

京都市電北野線記念碑

造酒司(みきのつかさ)跡・・・造酒司は、酒や酢の醸造が行われていた役所

豊楽院・豊楽殿跡・・・豊楽院は、平安宮において内裏と朝堂院同等に重要施設で、外国使節などを迎える公の饗宴の場でした。

大内裏の朝堂院跡(宣政門跡:せんせいもんあと)

明治28年(1895年)に比定された大極殿跡に建つ大極殿遺址碑(だいごくでんいしひ)

鵺池(ぬえいけ)・・・平安時代末期の仁平年間(1151〜54年)の深夜、内裏に怪しい鳥の鳴声がし、近衛天皇は非常に怯えられました。弓の名手・源頼政が射落した怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺でした。その時、血のついた鏃(やじり)を洗ったのが、この池だと伝えます。

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