鳥羽離宮は、洛南の伏見区竹田・中島地区に広がり
北は名神高速道路、南は府道伏見向日線、
東は近鉄京都線、西は鴨川に囲まれた一帯で離宮は
東西1.2km、南北1.0kmで面積は約120haの広大な規模。
当地は藤原季綱(すえつな)の領地でしたが平安後期(院政期)の応徳3年(1086年)、季綱が白河天皇に献上し白河天皇の後院として造営が開始され御所の周りに池や築山を築いた荘厳な離宮で「都遷りの如し」と言われました。
白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院政の地となり離宮の造営は約70年間続きました。
平清盛が後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し院政は一旦中断しました。源平の争乱、南北朝の争乱など兵火に遭う事が多く急速に衰退したと伝えます。
現在、往時を偲べるのは、東殿の安楽寿院、北向山不動院、馬場殿跡と想定される城南宮、白河天皇陵、鳥羽天皇陵、近衛天皇陵、国道1号線を超えた鳥羽離宮公園内にある小山が和歌に詠まれた秋の山で広大な南殿の園地を偲ばせる唯一の築山遺構です。

新(東)高瀬川と酒蔵

鳥羽離宮・東殿跡の安楽寿院

慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が、再建した近衛天皇陵(安楽寿院南陵)

安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿でしたが、保延3年(1137年)、覚行法親王が寺院に改めました。

弘法大師を祀る大師堂と鐘楼

平安時代の作と伝える薬師三尊石仏(左)、釈迦三尊石仏

本尊・阿弥陀如来坐像が祀られる本御塔

白河、鳥羽法皇院政之地碑

殿舎や仏殿を増築した際、この石の上に冠を置き、これを中心に造営したとも鳥羽上皇が法皇になられた時に、冠を納めた所とも伝えます。

鳥羽天皇陵(安楽寿院陵)

五輪石塔(重文:鎌倉期)

鳥羽離宮・東殿跡の北向山不動院は大治5年(1130年)、鳥羽上皇により建立されました。不動明王像を建立し、都の南にあたる為、都を守る寺として北向きに安置したと伝える。

手前〜普賢菩薩、文殊、虚空蔵、千手観音

降三世夜叉明王と鳥羽上皇寵愛の松

応仁の乱で焼失、現在の本堂は正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が移築され、本尊は、伝教大師作と伝える不動明王坐像が、安置される。

白河天皇陵(成菩提院陵)

鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔う為に鳥羽離宮の傍に三重塔に付属して御堂成菩提院を建立し、遺言に従って同塔内に改葬しました。

西行寺跡(火消地蔵堂)

鳥羽離宮遺跡の金剛心院塚(後宮塚)

鳥羽離宮遺跡の成菩提院塚

鳥羽離宮・馬場殿跡と想定されている城南宮

夕陽に照らされる参道

二の鳥居

伏見名水の一・菊水若水

清々しい境内

日月星を組み合わせた三光の紋

本殿

鳥羽離宮田中殿跡碑
皇女・八条院の御所として鳥羽上皇が造営し殿内には御堂(金剛心院、阿弥陀堂)などが附属していました。

鳥羽離宮遺跡の中宮塚

鳥羽離宮・南殿跡の鳥羽離宮跡公園

鳥羽離宮にあった庭園の四季が、表現された築山の一で、唯一の築山遺構・秋の山(鳥羽伏見戦跡碑)

応徳3年(1086年)、白河天皇が、造営した鳥羽離宮跡碑

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