西山三山は、光明寺、楊谷寺(柳谷観音寺)、善峯寺ですが
西山の三山は、釈迦岳(631m)、ポンポン山(678.9m)、小塩山(642m)だと思います。
写真:暮れなずむ西山の稜線
★釈迦岳(標高:631m)
島本町の最高峰です。かつて、源算上人作の石仏釈迦如来像が安置されていたのが山名の由来で、信者の崇敬が篤く明治13年(1880年)に善峰寺に移されています。山頂から善峯寺へ移すのは、大変でお釈迦様も汗をかいて下山したと伝え、この時の霊汗が由来となり「善峯寺の薬湯」が始まったと伝えます。
写真:釈迦岳三等三角点(標高:631m)
★ポンポン山(加茂勢山 標高:678.9m)
正しくは加茂勢山と言い標高:678.9mの頂上に近付くにつれて足音が、ポンポンと響く(山頂で四股を踏むとも)事から俗にポンポン山と呼ばれています。京都市の西端にあり東の地域には善峯寺、三鈷寺、光明寺などの古刹が多く平安中期以来、仏教の地として重要とされています。ポンポン山は、福寿草が咲く事でも知られます。
写真:ポンポン山二等三角点(標高:678.9m)
★小塩山(標高:642m)
小塩山々頂(642m)にある淳和天皇大原山陵は、正しくは大原野西峰上(にしのみねのうえ)陵と言います。淳和天皇は桓武天皇の第3皇子で兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承し嵯峨天皇の第1皇子・仁明天皇に譲位しました。在位中は政治改革を行うと共に「日本後紀」の編纂、「令義解」の作成を行いました。承和7年(840年)に55歳で死去し遺言により火葬後に粉砕し鬼と化さないよう大原野の西の山上(小塩山々頂辺り)に散骨されました。山陵を築く事を禁じられたので延喜諸陵式にも陵所を記していません。当地は古くから経塚、清塚と称され小石を積み重ねた円塚が5つばかりあったが幕末に至り現陵を考定し塚の上に土を封じて丘体に修復しました。
小塩山は、カタクリの花でも知られていますが、残念ながら三角点は、ないようで淳和天皇大原山陵の裏手に小塩山々頂と記す木札があるだけのようです。
写真:淳和天皇大原山陵(小塩山々頂:標高:642m)三角点無し


0