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ジュマパパwrote
吉良町歴史民族資料館、実は入場無料です。
吉良町、なかなか太っ腹ですね。
(今日は長いですからお時間がない方は
気になる箇所だけご覧くださいね)
次に、目についたのは塩田の模型です。
吉良の塩作りの歴史はかなり古くて、赤穂よりも古いらしい・・・
吉良の塩は、
寛正年代(1460〜1466)に饗庭妙鶴丸の開拓した饗庭郷にちなんで
「饗庭塩(あいばえん)」で知られていたんだそうです。
品質もかなり良かったんだそうです。
江戸時代、この饗庭塩は、
矢作川の河口の大浜や平坂の港から岡崎城下の塩座の手を経て、
岡崎から更に矢作川、巴川をさかのぼって、
平古(現豊田市)で陸揚げされ、
そこから足助街道を通って足助まで運ばれ、
足助で荷物を積みなおして、
中馬と呼ぶ馬による輸送機関によって
信州へと運ばれ、
太平洋からのそして日本海からの塩の道の終着駅塩尻に至っていました。
吉良からの饗庭塩の長い長い「塩の道」です。
吉良吉田 − 岡崎 − 平古 − 足助 − 稲武 −
根羽 − 駒場 − 飯田 − 伊那 − 塩尻
伊那谷道中で見せてもらった「中馬」につながる話が出てきましたね!
こんな船で荷物を運んでいたんでしょうね。
これは愛知県の指定文化財になっている「
旧糟谷邸」の模型です。
本物は吉良町荻原というところにあり、
今は吉良町が所有していて、一般公開されています。
糟谷家住居は江戸時代中期以後の典型的な住宅で、
木造二階建主屋、長屋門、土蔵、屋敷神祠の計5棟
約750平方メートルが約4,500平方メートルの敷地に立っているんだそうです。
糟谷家のルーツは筑前(福岡県)の郡司で、
戦国時代にこの地方に移り住んだ方々だそうで、
江戸期から昭和初期にかけてのこの地方の大地主として、
また地場産業であった三河木綿の江戸送り総問屋として栄えたんだそうです。
ご当主は代々縫右衛門(ぬいうえもん)を名乗り、
三河木綿問屋のほかに、金融業、肥料・日用雑貨の卸小売などで財をなした
豪農豪商だとか。
だから、こんな大きなお屋敷を持っておられたんですねぇ・・・
470年余りも続く旧家かぁ・・・
私には想像もつきませんね!!!
次回は、本物も見学させていただいと思います。
さてさて、吉良といえば触れずにはいられないのが、
忠臣蔵!
吉良家の江戸屋敷の模型です。
吉良様が見つかってしまったのは、炭小屋の中だったとか。
右端のほうの手前あたりかと・・・
江戸屋敷の絵図面・・・・
これを手に入れるのに赤穂浪士が苦労するという話がありましたねぇ・・・
毎夜、こんな図面を見ながら作戦を練ったということか・・・
吉良町にはもっと古いものがあります。
正法寺古墳です。
古墳時代前期末〜中期初期(4世紀末〜5世紀初頭)に築かれた
全長90mの三河最大級の前方後円墳なんですって。
墳丘は3段に築かれ、各段には埴輪が並び、
白い葺石で覆われていたんだそうです。
古墳の立地から三河湾の海上交通をおさえた
「
海の支配者」が眠っていると考えられているそうです。
どんな人なんでしょうねぇ・・・
中根山遺跡というのもあるそうです。
吉良町の北部、岡山丘陵上に位置する遺跡で、
昭和62・63年に発掘調査が実施され、
弥生時代後期から古墳時代中期(2世紀〜5世紀前半)に営まれた
大規模な集落の跡だということが分かったそうです。
この集落は古墳時代中期まで存続していたようです。
どんな暮らしぶりだったんでしょうねぇ・・・・
吉良町の歴史に思いを馳せながら外に出てみると、
入り口の花にクロアゲハがとまっていました。
ふと目をやると、不思議なものが・・・
どうみても、お寺の鐘の形をしていますが、
コンクリートですよね?
太平洋戦争のさなか、
金属の不足を補うために供出されてしまったんだそうです。
仕方なく、コンクリート製のものを作って鐘が戻るのを待ったのだとか。
しかし、
二度と鐘が戻ってくることは無かったそうです。
これも歴史のひとこまですね。
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帰りには



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