18切符探検からもう1ヶ月近くが過ぎてしまった。
夏は何かと忙しいから・・・
と言い訳をしながら、第二弾姫路城版を。
出発した時は青空が見えていたのに、黒い雲に覆われたり再び陽が射したりと天気がめまぐるしく変り、途中うたた寝をしてふと気がつくと外は豪雨。
バケツをひっくり返したように降る雨のせいなのか、霧のせいなのか、車窓に過ぎ去る景色がかすんでいる。
最近の集中豪雨の被害状況がちらっと頭をよぎった。
姫路もこんなふうだったらどうしよう・・・ふと不安になるが電車は走り続け、しばらくすると薄日が!
今日はこういう天気と付き合うしかないようだ。
10時過ぎに姫路に到着。雨は降っていないから予定通り歩くことに。
安心したのもつかの間、15分ほど歩き姫路城の大手門を過ぎたあたりでいきなり降り出し、雨足がだんだん強くなった。
靴はあっという間に大洪水だ。こんな狂態では外で写真を撮るのはままならないけれど、お城の中なら大丈夫と気をとりなおす。
姫路城はその美しい姿から別名“白鷺城”と呼ばれ大天守などは国宝。また世界文化遺産にも登録され、400年の年月を経ても築城当時の姿を現在に伝えている。
門をいくつかくぐり大天守へ向かうことにした。
それほど距離は無いはずなのに、路地のように折れ曲がった通路はだんだん狭くなり、目的の場所へ中々到着しない。
迷路のようになっているのは、戦いが起きた時に敵が浸入しにくいように、また要所で敵を迎え撃つためだとか。
33もの井戸を掘り、塩や米を蓄え籠城にも備えていたらしい。
石垣も敵がよじ登れないように上にいくほど急になっていて、これを扇の勾配というそうだ。
外観は5層だが、地上6階地下1階という構造の内部は、使われている材がさすがに頑丈そうで、白漆喰が塗られた女性的な外観に反し男性的だ。
各階には竹釘などの道具掛けがあり、すぐさま戦えるよう弾薬袋や火縄が掛けられていたとのこと。石落としや狭間、壁に掛けられた槍や火縄銃も、姫路城が要塞として築城されたことを物語っていた。
幸いなことに、戦火や大きな災害にあうことなく現在に至っているとはいえ、波乱に満ちた年月だったのだろう。
天守閣に向かい幅の狭い急な階段を登っていたら、「昔もこんな階段があったのかな〜」と子どもの声が。素朴な疑問だ。
秀吉をはじめとする、歴史上の人物が行きかっていた場に立っていると思うと不思議な感じがする。
様々な国籍の人たちが、天守閣から四方を眺めている様子を当時の人が見たとしたら、色々な意味で驚くにちがいない。
大阪城落城の後、本多忠刻と再婚し西の丸で幸せな時を過ごした千姫。多くの侍女が暮らしていた長局や化粧櫓がその名残りをとどめていて、部屋からは話声が聞こえてきそう。そしていまにも姿を現しそうだった。
旅を終え、家に戻ってから色々な資料を読み返しその時の情景を思い出すと、再び同じ場所を訪れたくなる。
知識が増すことで、新たな発見があるかもと思うからだろうか。
昭和30年代に行われた解体大修理から、45年ぶりに行われる大天守の保存修理(漆喰の塗り替えや瓦の交換など)は一般にも公開されるようだ。
