
懐かしのピーター・ポール&マリー
覚えておられる方も多いと思うが、
今から7年前、第一次安倍内閣の時、首相官邸の様子がテレビで放映された。
それは、アメリカの
ポール・ストゥーキーという歌手が、自作の
『Song for Megumi』という歌を横田めぐみさんの両親に捧げ、その歌声に夫妻が涙を拭っている光景だった。きっとご覧になった方もおられるだろう。
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg1009.html
1977年11月、北朝鮮による不当な拉致によって、突然両親の元から姿を消した
横田めぐみさんの救出を願った歌である。ポール・ストゥーキーが歩んできた道がよくわかる一曲である。
下のYou-tubeの方が、官邸ライブよりも聴きやすいかも知れない。
反戦フォークが流行した時代
ポール・ストゥーキーさんは、
1960年代、反戦フォークの旗手として活躍した 「ピーター・ポール&マリー」(PPM)のメンバーとして知られる。
『Song for Megumi』を久しぶりに聴きながら、
青春時代にPPM等の反戦歌が流行した時代を思った。
国内では、
60年安保改定から70年安保改定までの約10年間、学生運動や市民運動(ベ平連)が最高潮に達した時代であり、私も、関西から深夜バスに乗って、国会議事堂のデモ行進に参加した。
デモ隊は、あちこちでシュプレヒコールを叫び、
革命歌「インターナショナル」を歌って高揚感にひたった。
その時の自分が懐かしくもあり、不思議でもある。
自らも参加した学生運動。今思い返しても、学生たちを突き動かした原動力は一体何だったのか、よく分からないのである・・。
アメリカでは「プロテスト・ソング」として
アメリカでは、第2次世界大戦と朝鮮戦争を経て
東西冷戦時代の渦中にあった。
ピーター・ポール&マリーが活躍し60年代のアメリカは、経済的には豊かに成長しながら、国の内外で大きな課題に直面していた。
65年から
ベトナム戦争(10年後の75年に集結)に本格的に介入し、泥沼状態に陥る一方、国内では、黒人やマイノリティーに対する
人種差別撤廃・人権尊重を掲げた公民権運動が、キング牧師らの先導によって最高潮に達する。
ベトナム戦争(1960年〜1975年)の犠牲者は民間人際立って多く南北ベトナムあわせて450万人にのぼると言われる。
こうした時代に、平和の希求、社会的弱者への支援を
「プロテストソング」によって訴えようという運動がアメリカ全土に涌き起こっていた。
ボブ・ディラン、ジョーン・バエズはその代表であるが、
ピーター・ヤーロウ、ポール・ストゥーキー、マリー・トラヴァース(09年9月逝去)によって61年に結成されたピーター・ポール&マリー(PPM)も反戦を歌に託し、社会にはびこる不公正を糾弾するべく、
哀調を帯びながらメッセージ性の強いフォークソングを次々にヒットさせた。
「レモンツリー」でデビュー後、プロテストソングの元祖ピート・シーガーの曲をカバーした
「天使のハンマー」が大ヒットする。
同じくシーガーの作になる
「花はどこへ行った」や、若きボブ・ディランの曲
「風に吹かれて」、「500マイルも離れて」や
「パフ」などが代表曲として、今では郷愁と共に耳に蘇ってくる。
「風に吹かれて」は「どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永久に廃絶する気になるのか」「為政者たちは、いつになったら人々に自由を与えるのか」「一人一人にいくつの耳をつければ、他人の泣き声が聞こえるようになるのだろうか」と戦争の廃絶を訴える歌である。
そして日本にも伝播・・
こうしたプロテストソングは日本にも伝播し、
「カレッジフォーク」や「反戦フォーク」をもたらした。
日本の反戦フォークの草分けは、
1965年、友部正人による「死んだ男の残した者は」である。
高石ともやが歌っているYou-tubeの曲をどうぞ。
反戦フォークの歌手は、
高田渡、岡林信康、高石友也、加川良など枚挙にいとまない。
この時代、
若者たちの心をとらえ、行動へと駆り立てたエネルギーは一体どこに行ってしまったのだろうか。
今日は、PPMのプロテストソングの中から、
「CRUEL WAR」(悲惨な戦争)を聴いていただきたい。
ハーモニーが最高に綺麗で、私の大好きな曲の一つである。
実は
このハーモニーを練習して、同世代の男女で歌いたいというのが私の夢というか目標である。
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寒くなって来ると・・・
@初くっつき
Aそして初アンモニャィト
『秋深し アンモニャィトで 暖をとる 』(なりひら)

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