青春プレイバック
あの修学旅行よもう一度A
旅行第1日目。昼前に鹿児島中央駅に降り立った一向は、駅ビルで昼食を済ませ、貸切バスに乗り込んだ。運転手さんは地主園さんという、いかにも鹿児島らしいお名前の人柄の良さそうな方である。
夕方には霧島温泉に着かないといけないので、
「維新ふるさと館」、「城山公園」、「仙厳園・尚古集成館」に絞って見学する。
「維新ふるさと館」を見学
最初の「維新ふるさと館」は
加治屋町にあり、ここでは、後述するように、
明治維新・新政府成立後の日本をリードした人材が数多く生まれている。
館内には、
映像・ジオラマ(模型)などの最新映像技術も駆使して、
分かりやすい展示が行なわれている。鹿児島県内や九州他県の
小学生が多く訪れていた。付近に点在する生誕記念碑を巡るよりは記憶に残ると思った。
維新ふるさと館で西郷隆盛の軍服を着た
当時、子供たちが水泳や魚釣りに明け暮れた
「甲突(こうつき)川」がすぐそばを、ゆったりと流れていた。
甲突川の向こうに見えるのが「維新ふるさと館」
驚くほど多数の人材を生んだ「加治屋町」
鹿児島市中心部にある「加治屋町」からは、明治維新とその後の明治新政府に多くの人材を輩出した。
ここは、主に
薩摩藩の下級武士が暮らしていた場所で、
西郷隆盛(1827年〜1877年)、
大久保利通(1830年〜1878年)もこの町で生まれ育った。他に以下のような人物がおり、
「山川の日本史」(高校教科書)には12名の鍛冶屋町出身者が登場する。
○
東郷平八郎(1847年〜1934年):日露戦争時、連合艦隊司令長官として日本海海戦を指揮し、ロシアのバルチック艦隊をせん滅した。
○
山本権兵衛(1852年〜1933年):日露戦争時の海軍大臣、日本海軍育ての親である。
○
大山巌(1842年〜〜1916年):日本陸軍の創設に尽力した。日露戦争の満州軍総司令官。
○
西郷従道(1843年〜1902年):陸軍大臣・内務大臣、西郷隆盛の実弟。
○
黒木為禎(1844年〜1923年):日露戦争第一軍司令官、奉天会戦で活躍した。
○
村田新八(1836年〜1877年):勝海舟をして『大久保に次ぐ傑物』と言わしめたが、西南戦争で西郷隆盛に殉じた。
西南戦争後130年たって大久保利通が名誉回復?
なお、バスの運転手さんから、
「最近、鹿児島で、大久保利通がようやく復権したと地元ニュースが報じていた。」とお聞きした。銅像や顕彰式典等の扱いだという。西南戦争終了後、実に130年以上が経過しているのに。
大久保利通47歳の写真。鹿児島ではこういう怜悧なタイプは人気がないのか?
鹿児島県民にとって大久保は、郷土の偉人というより、薩摩士族らが蜂起した明治10年(1877年)の西南戦争で、
幼なじみの盟友、西郷隆盛を自決に追い込んだ男として、長く記憶に刻まれてきたのである。
西郷隆盛は、今でも郷土の英雄として、鹿児島県では絶大な人気を誇っている。
県民のしこりの根深さは、圧倒的な西郷人気の裏返しである。今でも、西郷の悪口はたとえ酒席でもご法度だと言われる。
人材輩出を支えた「郷中(ごじゅう)教育」
こうした幾多の人材輩出を支えたのが薩摩藩特有の
「郷中(ごじゅう)教育」だと言われる。
郷中(地域別に編成される青少年のグループ)は、青少年を
「稚児(ちご/6〜14歳)」と
「二才(にせ/15〜25歳)」に分けて、
勉学、武芸、相撲、山歩き等を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織であった。
薩摩示現流の組太刀。私には、郷中教育と示現流の鍛錬がどうしてもだぶってしまう。示現流は「ゆす」の木刀で「チェスト」と掛け声を発しながら激しい打ち込み訓練を繰り返す。その極意は先手必勝で、守りよりは攻めに重点を置いた流儀である。いかにも薩摩隼人らしい豪放さを感じる。
その教育の中で重視したのは次のようなことである。
@武士道の義を実践せよ、A心身を鍛錬せよ、B嘘を言うな 、C負けるな、D弱いものいじめをするな、E質実剛健たれ、F金銭への利欲を卑しむべし
現代にも息づく質実剛健教育
バスの車中から、ある小学校が主催する
「錦江湾 遠泳大会」のポスターが目にとまった。
夏の行事として行なわれたようで、帰宅後ネットで検索すると、
桜島小池海岸と鹿児島磯海水浴場を結ぶ4.2キロを、80数名の小学生が遠泳する行事とあった。
小学生が錦江湾を遠泳する様子
都会の父兄なら、
「そんな危ないことをして、事故でも起きたらどうするの?」と猛反対するところだろうが、ここ鹿児島では
質実剛健教育が連綿と受け継がれていることに、ちょっと感動を覚えた。
西郷隆盛最後の地「城山」を訪ねる
初回にも、少しご案内したが、我々は次に
「城山公園」を訪ねた。
当日は曇天で桜島の上の方が雲に隠れていた
城山は
標高107mで、山頂は
鹿児島市街と桜島を一望できる絶好の展望台となっている。
山頂周辺はツタやシダなど
600種ほどの亜熱帯植物が自生している。
城山周辺は、
西南戦争で最後の激戦があった所であり、岩崎谷には、西郷隆盛が最後の5日間を過ごした西郷洞窟がある。
明治10年(1877年)9月24日の朝に、西郷以下400名は、政府軍に突撃して全員戦死した。城山に登る途中、バスから見えたが、随分小さな洞窟であった。
展望台へ行く途中、アスファルトの道が
「ジャリジャリ」と音を立てる。
桜島の火山灰だそうで、
今年は特に降灰量が多いそうである。
最近では、9月14日に桜島の昭和火口から噴火。市中心部の天文館では、車が通るたびに灰が舞い上がり、タオルなどで口を覆ったり、傘をさしたりしながら歩く人の姿が目立ったとのことである。
島津家別邸「仙巌園」を訪ねる
「仙巌園」は、
江戸時代初期に島津光久(19代当主)によって築庭され、中国龍虎山の仙巌にちなんで「仙巌園」と名付けられた。
明治28年(1895年)、島津忠義が建てさせた仙厳園の正門
四季折々の美しさに加え、
桜島(築山/遠景)と錦江湾(池/中景)を借景に取り入れた雄大な風景が楽しめる大名庭園として、県民や国内・海外からの観光客に親しまれている。
写真は晴れた日に仙厳園から桜島を望む。当日はあいにくの曇天だった。
江戸時代後期の薩摩藩は
77万石とされたが、琉球を実効支配し、密貿易も盛んに行なわれていたことから、
実質は90万石あったと推定される。
その大藩の財力からすれば、なんということもない庭園かと思われるが、
「錦江湾 と桜島」を眼前に望む眺望はすばらしかった。
仙厳園にて。延々と砂利道が続き、足にダメージが・・。
なお、
我々が高校時代に修学旅行に行った当時は「磯庭園」と呼んでいたそうだが、当時のことはほとんど覚えていない。
隣には「尚古集成館」が
島津斉彬は、
1851年に薩摩藩主に就任するや、
軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践した。
斉彬が集成館事業の鋳砲事業で目指していた『鉄製150斤(ポンド)砲』の復元模型。最大射程距離約3,000m(有効射程距離約1,000m)。
その中心となったのが、磯に建てられた工場群「集成館」であり、ここで反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの事業が行われた。
写真上:反射炉後、写真下:当時の反射炉想像図
斉彬は治世わずか7年で急死したが、彼の遺志は、西郷隆盛などの家臣によって引き継がれていくこととなる。
この地に慶応元(1865)年に竣工した機械工場は重要文化財となっており、現在内部は島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ
博物館「尚古集成館」として親しまれている。
経営は島津家が行っているそうで、今でも鹿児島では「島津の殿様」が健在なのかもしれない。
レトロな洋館:磯工芸館

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