敗戦前日の惨事/京橋大空襲
少し長いですが、お時間のある方はお読みいただければ幸いです。
大阪大空襲は、敗戦の年、大阪市とその周辺都市に対して、米軍が行った無差別爆撃の総称でです。1945年3月13日(深夜から翌日未明にかけて)を皮切りに、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日と計8回の空襲が行なわれました。
中でも敗戦前日の惨事として語り継がれているのが「京橋大空襲」です。
京橋と言えば、私がまだ幼い頃(1960年前後)、現在のJR環状線の京橋〜森の宮間の車窓から、空襲で焼けた軍需工場(大阪陸軍造兵廠)の跡が見えたことを思い出します。
戦後生まれの私と太平洋戦争をつなぐ唯一の接点です。
昭和20年8月14日、御前会議ではポツダム宣言受諾が既に決定されていました。しかし日本側の回答引き延ばしと判断した米軍は、大阪陸軍造兵廠、光海軍工廠などを攻撃対象としました。
同日13時16分頃、145機のB29とともにP51、P47が大阪城の上空に飛来し、200ポンド爆弾・100ポンド爆弾あわせて706.5トンを投下。この空襲で大阪陸軍造兵廠(大阪城)は全滅、また流れ弾は国鉄京橋駅を直撃し、多数の死傷者(死者359人、行方不明79人)を出したのです。
【山崎稲子さん(大阪市東住吉区、85歳)の手記】
《女学生として「学徒動員」へ》
昭和20年、15歳だった私は、四天王寺高等女学校(今の四天王寺高校)に通っていました。旧制の女学校です。男手は兵隊に取られたので、町には若い男性の姿は少なくなっていました。そのため、学校の授業を中止して工場などで仕事をさせるという、「学徒動員」が行われました。
私は、国鉄城東線(今のJR環状線)の京橋駅へ学徒動員され、改札・出札・駅名連呼など、いろいろな仕事をしていました。
《昼下がりに突如大空襲が》
昭和20年8月14日も、いつものように京橋駅のホームで仕事をしていました。すると正午過ぎに飛行機の音が聞こえてきました。いつもなら、敵の飛行機が近づいたら空襲警報が鳴るのに、この日は警報が鳴りませんでした。B29というアメリカ軍の飛行機が、たくさん飛んできたのです。グオーン、という大きな音を立てて飛んでくるのです。
びっくりした私は、持ち歩いていた「防空ずきん」を頭にかぶり、駅構内に作られていた防空壕に逃げ込みました。京橋駅には、地下を掘った防空壕が何ヶ所かありました。広さは3〜4メートル四方ほどの狭いものでした。小さい線路の枕木などで補強されていましたが、掘ったままの土の壁が剥き出しになっていて、薄暗い場所でした。
防空壕の中で、1時間くらい爆音と振動が続いたと思います。ようやく爆撃音がやんだので、男の駅員さんが壕の入り口から首だけを外に出して様子を見ました。駅員さんは、「えらいことになっている」と驚き、外に出るように言いました。
大空襲直後の京橋駅付近
《防空壕の外には、見渡すばかり一面に死体が横たわっていた》
防空壕の外には、見渡すばかり一面に死体が横たわっていました。駅構内を歩いていた乗客の人たちが、その場で亡くなっているのです。
折り重なっている死体もありましたし、柱や壁に叩きつけられたような死体もありました。駅舎には爆弾が直撃したのでしょうか、建物がペシャンコに壊れていました。おそらく、壊れた建物の下にも、たくさんの人が埋もれていたと思います。
京橋駅で私が見た死体は、火傷や出血はあまりなかったです。普通に服を着たままの人が、地面やホームに横たわって死んでいるのです。民家を焼くための焼夷弾ではなくて、近くの砲兵工廠を破壊するための大型爆弾が落ちてきたから、そうなったんでしょうね。でも、膨らんでいた死体を見たような気もします。爆弾の熱風で膨張したのでしょうか。
《憲兵に死体を運んで、積み重ねるよう命じられる》
たくさんの死体を見て呆然と立ち尽くしたのもつかの間、憲兵が「お前たち、死体を運べ」と命令しました。そこで、女学生二人一組になって、手当たり次第に死体を「たんか」に乗せて、二人で運んでいくのです。近くの空き地まで運んだら、「井」の字型を組むように、死体を縦横に並べて積み重ねました。
死体は重かったですよ。人の力が抜けた状態で思うように動かせないから、地面から「たんか」に移すだけでも大きい力が必要でした。15歳の女学生だった私は、死体に触るのも初めてだし、こんなに多くの死体を目にするのも初めてでした。今から思えば、よくあれだけ死体を運ぶ仕事をできたなぁと、不思議に思います。
折り重なっている死体を動かそうとしたとき、キッと私のほうを睨みつけるような目の男性の死体と目が合って、腰を抜かしそうになりました。これだけ沢山が死んだのに、生き残ってしまった私が恨めしくて睨んでいるような気がしました。
また、死体を運んでいる私たちに、消え入りそうな小さい声で「私は、まだ生きているから、助けてください・・・。」と、手を合わせて頼んでくる男性もいました。私には、助けてと言われてもどうすることもできなくてねぇ。本当に、私には何もしてあげられなかった・・・。そんなことも思い出すと、自分が生き残ったことが申し訳なくて、思い出すのも辛いです・・・。

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