今回の森喜朗“会長”辞任劇を見ていて、もちろん森氏の不用意な発言に弁解の余地はないのだが、どこか吊し上げ、自己批判強要のような雰囲気もあり、正直あまり愉快ではなかった。特に、国外マスコミ等からの「森氏の男女差別発言断じて許すまじ」「オリンピック組織委員長失格」の論評には圧倒された。
そんな折り、2月26日(金)の産経ニュースで、宗教学者で国際基督教大教授の森本あんり氏が次のように述べておられる。私には共感できる部分もあり、ブログに転載させていただいた。皆さんはどう考えておられるだろうか?(なりひら拝)
【森喜朗“会長”辞任劇にみる日本人の「不寛容論」/森本あんり】
東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長を務めていた森喜朗元首相が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」などと発言したために、「女性蔑視」「五輪の精神である多様性に反する」などと批判され、会長辞任に追い込まれた。
後任は前五輪担当相、橋本聖子氏に決まり、ひとまず混乱は収まりつつあるようだが、これをきっかけに女性差別の問題に改めて注目が集まるようになった。
日本社会に根強く残る男性社会の閉鎖性、不寛容さが問題とされているといってもいいかもしれない。
一方で、少数ではあるが、いかに社会の多数が非難するような発言でも一切、認めないのは不寛容ではないかという疑義も呈された。ある種、対極にある2つの意見に見えるが、ともに「寛容」の理念を前提にした議論であることがわかる。
わたしは神学、宗教学が専門で、専門外の時事問題を評論することはできないが、たまたま「不寛容論 アメリカが生んだ『共存』の哲学」(新潮選書)という本を上梓したばかりだったせいであろう。産経新聞の編集氏より「寛容という切り口からこの問題を考えてほしい」とご依頼をいただいたので、ここに感じたところを記しておきたい。
「リベラル疲れ」と寛容のパラドックス
一連の騒動で、
問題の中心となったのは森氏の本音であろう。彼は会長辞任前に発言を陳謝し、「女性を蔑視する気持ちは毛頭ない」などと弁解したが、多くの人々はそれに納得することはなく、発言の中に性差別の意識をみて批判を続けた。
日本には、「建前」と「本音」という区別があるが、一般にこの2つは一致しているのが望ましいと考えられている。今回も少なからざる人々は「ひとつひとつの発言を封じても、本音は変わらない」「
口先だけで男女平等を唱えるのでなく、心の中の差別こそ根絶やしにせよ」と考えたのだろう。
ただ、
寛容ということを考えると、建前と本音の一致を問いただすことは、必ずしも得策とはいえないかもしれない。というのも、人の心には道徳や法律の制約はないからである。
誰かが不道徳で不法なことを心に抱いているとしよう。法律上、それを実行に移すことには制約が課されるが、いかに法律でも心の中まで踏み込んでそれを取り締まることはできない。同じように、他者を差別する感情は言葉や行為に表現されれば不適切だが、そういう感情を心中秘かに抱くこと自体を咎めることはできない。
人間の内面の自由は、寛容を考えるうえで重要な役割を果たす。これを日本国憲法のように「良心の自由」と表現すると、にわかに高尚な理念のように聞こえてしまうが、その内容が高尚か野卑かを問うこともまた、良心の自由への侵害となり得る。人が考えていることが高尚か野卑か、外から判断を下されないことが、内面の自由そのものだからだ。また、仮に良心に誤りや偽りがあるとしても、その判断は他人にはできない。
むしろ
人の心中を問い詰めすぎると、逆に不寛容を招いてしまう可能性もある。例えば、「リベラル疲れ」ともいうべき現象を思い浮かべてほしい。
マスコミなどにリベラルな言論があふれるあまり、逆に「またか…」という反感を招く現象である。
客観的なニュース報道を見ようとしてテレビを見ているのに、病気の子供を映して視聴者に同情を求め、「これをかわいそうと思わなければ人でなしだ」と言わんばかり。知識人たちに誰を気の毒に思うべきかを指図されたような気分になり、たとえそれが正論でも、納得するより先に反感が生じるのだ。
相手に「寛容になれ」と要求して、寛容という価値を押しつけることは、それ自体が逆に不寛容にもなる。こうした「寛容のパラドックス」は、個人だけでなく集団の間にも起き、現代世界で大きな摩擦や紛争を生んでいる。例えば、日本や欧米の自由主義諸国が自分たちの自由や平等の価値観でイスラム諸国と接するとき、彼らはそれを押しつけと感じることがある。自分たちの寛容が、それを受け取る人々の目には不寛容と映り得るのである。
人の心には魔物が棲む
人の心には、どんな魔物が棲んでいるかわからない。これは、キリスト教的な人間理解の一部である。旧約聖書には「罪が門口に待ち伏せしています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めねばなりません」(創世記4:7)と記されている。
人は、罪や悪と無縁の生を送ることはできない。せいぜいできるのは、悪を最小限に抑え、何とかなだめすかして共存することである。その理想と現実とのギャップを埋めるのが、寛容である。
その意味では、
現代人はむしろ不寛容になっている。近代啓蒙主義は、人間は無限の可能性を与えられた存在であり、教育によって善を目指して向上することができ、社会は理想へと近づくことができる、という信念に基づく。盗人や売春婦、物乞いも教育によって改めさせようとする。つまり、人間の悪に厳格で不寛容な態度をとるのだ。
話を
森氏の問題に戻せば、彼の内心にまで立ち入って問い詰めようとするのは、やはり不寛容なふるまいだろう。それに、どんなに不適切で時代遅れの思考を持っていようとも、長い人生をその思考で生きてきて、実力者と認められるようになった人に、今さら心を入れ替えるように求めることは難しい。
そのことを認めた上で、
公的な地位にある人の公的な言動、外に表れる態度や発言は、やはり慎重であってほしいと思う。陳謝の場で「横柄」と批判されるような態度を取ったのでは、礼節にも反するだろう。内心でいかなる思想を持つのも自由だとしても、公の場で軽々に本音を漏らしてはならない。建前と本音をきちんと区別すること、つまり建前を通すことが求められる。たとえ自分の意に沿わないことがあっても、礼節を尽くさねばならないのだ。
拙著「不寛容論」で取り上げた17世紀・米国ロードアイランド植民地の創設者ロジャー・ウィリアムズは、先住民や他宗教との共存を訴えた「寛容」の人であったが、一方で自分のキリスト教信仰を譲ることはなかった。異なる信仰を持つ人間を是認はしないが、その違いを残しつつ、礼節をもって共存できると考えたのである。
オリンピックは、異なる思想や価値観を持つ人々が一堂に会し、同じルールで同じ競技を戦う貴重な機会である。そのような異文化との出会いによって、人は自分が当然と思っていた常識を揺さぶられ覆されることもある。中には、近代西洋が前提としてきた自由や平等、民主主義などの諸原理とは異なる価値体系をもつ文化もあるだろうし、あまりに違いすぎて理解も是認もできない、という場合もあるだろう。
しかし、寛容は是認でも理解でもない。相手を善と認める必要もないし、相手を好きになる必要もない。それでも相手に礼節を尽くして共存することはできる。たとえ内心では好きになれず、是認できなくても、相手を拒絶せず、その言葉に耳を傾けていれば、やがて新たな一歩を踏み出すきっかけが生まれるかもしれない。逆に言えば、われわれにできるのはそこまでなのである。
◇森本あんり(もりもと・あんり) 国際基督教大教授。昭和31年生まれ、同大人文科学科卒業、東京神学大大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了。国際基督教大副学長など歴任。「反知性主義−アメリカが生んだ『熱病』の正体」(新潮選書)など著書多数。近著に「不寛容論 アメリカが生んだ『共存』の哲学」(同)。

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