苦しみが教えてくれたこと
土曜日に、電車と徒歩で、市立図書館まで本を借りに行くことにしている。
半身麻痺だ片手しか使えないから、なかなか大変ではあるが、杖を持たずに外出するようになってからは、片手に荷物を持てるようになり機能が向上した。半歩前進である。
土曜に借りたエッセイ集(日本エッセイストクラブ編/文芸春秋社)に、先ごろ76歳で亡くなられた、
日本を代表する免疫学者;故多田富雄さんのエッセイがあった。
多田さんは、2001年に脳梗塞で倒れ、重度の麻痺障害者となった。運動麻痺障害、構音障害、嚥下障害が重なって終始介護が必要な状況である。
だが、多田さんは、そんな絶望的な状況の中でも希望を失わずリハビリを続け、自分のできることに全力投球する。
能の舞台作家として
余技として続けてこられた能の脚本づくりでは、能楽堂の舞台に、階段を這うようにして上がっていく姿が、NHK特集で紹介されたが、
決して悲壮感はなく、自分のやりたいことに打ち込んでいる人の持つ輝きがあった。
新作能「長崎の聖母」
結局、多田さんは、
障害を抱えて19年間を過ごされた。だが、多田さんは、
亡くなられた後もなお、このエッセイを通じて、人々の心の中に生き続けているのだと思う。
昨夜、多田さんのエッセイを読んで、
本との出会いの不思議さを思う。
エッセイを紹介する前に、今日の
朝日新聞「歌壇」に掲載されていた、
加古川市の田中喜久子さんの短歌をご紹介したい。
田中さんは、ご自身が麻痺障害者であるが、障害をテーマにした作品を作られ、これまで度々、歌壇に掲載されている。
思い出多い八ケ岳山麓
◎わがマヒがもしも元に戻ったら 野を駆け山行き 信州に飛ぶ
やはりおなじようなことを考えるものだ。私は、この夏、信州の蓼科高原を友人達と訪れることにしている。
マヒは決して元には戻らないが、今、自分が少し背伸びしてできることにトライし、自分の人生に少しだけ彩りを添えたいから。
「苦しみが教えてくれたこと」 東京大学名誉教授 多田富雄
病気など無縁だと思っていた私が、脳梗塞で右半身不随ななってから、まるで病気のデパートのようにいろいろな病気の巣になってしまった。
それも回復不可能なものばかり。まるで「もぐらたたきゲーム」のように次から次へとあらわれる。
昨年の5月には前立腺癌が発見された。すでにリンパ節への転移もあり切除は不可能な段階であった。出来るのはホルモン療法、といっても積極的なホルモン投与療法をすると脳血栓の再発を招くというので、睾丸を切除する「去勢法」だけを受けた。
若い頃、私を苦しめ続けた煩悩の種ともさっぱりとおさらばして、身も心も軽くなった。おかげで腫瘍マーカーも激減したと思う間もなく、次の難題が待っていた。
入院するたびに病気は重くなるらしい。日本の病院は、患者を娑婆から隔離し、絶望させ、衰弱させるところのようである。
退院するころになると、今度は尿路結石が発見され、そこにMRSA(多剤耐性菌)の院内感染という新手の敵が加わった。退院しても、発熱と排尿困難に苦しめられた。
それが少しよくなったかと思うと、今度は喘息という強敵が加わった。休む間もなく呼吸困難に悩まされている。
重い後遺症に苦しめられる
半身麻痺は、体が動かないだけではない。一日中筋肉の緊張が高まって、休んでいても楽ではない。いつも力を入れているようなものだ。
それだけではない。私の後遺症には
重度の嚥下障害、構音障害が重なっている。物が自由に食えない。水や流動物は飲めない。
食事は、私にとって最も苦痛な、危険を伴う儀式である。おかゆは何とか食べられるようになったが、油断すると激しくむせる。ご飯一粒でも気管に入ると肺炎になる危険がある。
排除するための咳払いができない食後は、必ず痰と咳に悩まされる。あまり苦しい時には、スポンジのブラシを喉に突っ込んで、強制的に咳を起こさせ、異物を排除する。
でないと眠ることさえ出来ない。以前はどうしても咳を起こさせることが出来ず、この喉を切り裂いても痰を取りたいと、輾転反側する夜を送ったものである。
構音障害は私から会話を奪ってしまった。
発作から5年たつが、まだ満足に挨拶も出来ない。
突然の出来事に自分が納得していない
脳梗塞の発作の後、今まで何気なくやっていたこと、たとえば歩くことも、声を出すことも、飲んだり食べたりすることも突然出来なくなった。自分に何が起こったのか理解出来なかった。
声を失い、尋ねることも出来なかった。叫ぶことすら不可能な恐怖と絶望の中で、死ぬことばかり考えて日を過ごした。呻き声だけが、私に出来る自己表現だった。
自死の方法を考えて毎日が過ぎた。今思えば危機一髪だった。
でもこうして生きながらえると、もう死のことなど思わない。苦しみが既に日常のものとなっているから、黙って付き合わざるをえないのだ。
時には「ああ難儀なことよ」と落ち込むことがあるが、そんなことでくよくよしていても、何の役にも立たないことくらいわかっている。
受苦ということは魂を成長させるが、気を許すと人格まで破壊される。私はそれを本能的に逃れるためにがんばっているのである。
人生には些細な喜びもある
病気と言う抵抗を持っているから、その抵抗に打ち勝った時の幸福感には格別のものがある。私の毎日は、そんな喜びと苦しみが混ざり合って、充実したものになっている。
朝起きた瞬間から抵抗は始まる。硬い装具をつけてもらうと戦闘開始である。「おはよう。今日はうまく立ち上がれるか」と挨拶する。そして、鈍重な巨人のように、不器用に背を伸ばす。
曲がった骨が痛くてよろけるが、こける致命的である。緊張する。一日中、そんな戦いは続く。腰が痛くても、寝転んで休むわけにはいかない。装具を外さないと横にはなれない。装具を外すと、人出を借りないと起き上がれないし、トイレにも行けない。
だから一日中、装具に縛られたままである。リハビリのない日は、パソコンを打ち続け、風呂に入るまで我慢する。おかげで夜はバタンと熟睡してしまう。
週3回のリハビリに通うと、暇な時間はない。ある意味では充実した毎日である。
私流「病牀六尺」の毎日
そんな中で、私はいろいろな喜びを味わっている。
私流「病牀六尺」である。
注)「病牀六尺」(正岡子規)
近代俳句と短歌の革新を先導した正岡子規(1867ー1902)は、評論、随筆にも大きな足跡を残した。本書は、死の2日前まで新聞に連載した文章を集めた随筆集。肺結核から脊椎カリエスを患った子規は、34歳にして「病牀六尺、これが我世界である」という境遇にあった。蒲団の外に出ることも出来ないばかりか、たびたび襲う激痛に絶叫、号泣する日々が続いた。それでも好奇心は衰えず、自らを見つめる目に曇りはない。「足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し」。死を間近に控えてなお溢れるユーモアには、「写生」を唱えた子規の真骨頂がある。まさに「生を写した」近代随筆の代表作。
病という抵抗のおかげで、何かを達成して時の喜びはたとえようのないものである。
初めて一歩歩けたときは、涙 がとまらなかったし、初めて左手でワープロを一字一字打って、エッセーを一編書きあげた時も喜びで体が震えた。
今日は「ぱ」の発音が出来たといっては喜び、カツサンド一切れが支障なく食べられたといっては感激する。なんでもないことが出来ない身だからこそ、それが出来た時はたとえようもなくうれしいのだ。
無意識に暮らしていた頃と比べて、今の方がもっと生きているという実感がある
そうやって、些細なことに泣き笑いしていると、昔健康で、無意識に暮らしていた頃と比べて、今の方がもっと生きているという実感を持っていることに気づく。
身体についても新しい発見がある。たとえば頬の痒みを掻くと手が不随意に動く。あくびと同時に、麻痺した腕の筋肉が緊張する。猫のあくびと同じだ。
いわゆる錐体外路系の神経が活動するからだろうか。麻痺で不随意になっも、人間の運動系は一体になって動いていることが、実感としてわかる。
こんなことも健康な時には気づかないで、何でも細分化すれば理解できると思っていた。医学を学んだ身として愚かなことだった。
これからも新しい病気は次々に顔を出すだろう。一度は静かになった癌だけれど、いつかは再発するだろう。
でも、そのときはそのとき、どうせ一度は捨てた命ではないか。
あの発作直後の地獄を経験したのだから、どんな苦しみが待っていようと、耐えられぬはずはない。病を友にする毎日も、そう悪くないものである。(2006年「文芸春秋」5月号)

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