2015/7/27


 このところ夏バテもあって、何となく人と関わることが面倒臭くなって、自分から人を遠ざけていた部分があった。しかし、つい最近、ボランティア先で同僚とひとしきり話したり、帰りに駅のカフェでお茶したり、連れ立って別の美術館の展覧会へ足を運んだり、かと思えば郷里の親友から電話がかかって来て、互いの近況やら、夏の旅行計画やら、いろいろしゃべる機会があった。すると、相手の寛容さ、懐の深さに感心する一方で、自分の独善的なところや頑なところに気づかされた。

 やっぱり人間が社会的な動物である以上、自分もひとりの人間として、他者と関わることは大事なんだなと改めて思った。

 同じモノゴトも、人によって捕らえ方はさまざまである。同じモノを見ても目のつけどころ、感じることは違う。特に自分と異なった背景を持つ人の視点は新鮮である。

 価値観を共有する似た者同士でいること、一緒に行動することは楽には違いないけれど、たまには違うタイプの人と行動を共にして、予想外の意見をぶつけられてドギマギしたり、返事に困ることがあっても良いのかもしれない。それが却って普段とは違った"気づき"を与えてくれるのだから。

 年を重ねれば重ねるほど、とかく人間は頑固になりがちだから、努めて毛色の違った人と交わって、凝り固まった心や脳をほぐすよう心がけるとしよう。

 (私はトロくて当意即妙な返事はどうも苦手で)その時の自分の反応や態度が、相手にどう思われたか知る由もないけれど、少なくとも私は話を終えて別れた後も暫くは相手の言葉を反芻して、自分を省みる材料にしている。いろいろと気づきを与えてくれた相手には感謝している。

 
 しかし、ホント、この暑さどうにかならんかね?エアコン付けても、室内30度超え

 写真は本文と全く関係ないですが、10年近く前にバッキンガム宮殿前で撮った息子の写真。3月のロンドンには珍しく?雲ひとつない快晴です。
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2015/6/15


 私は息子に、ことあるごとに「お母さんは変人だから」と言われ続けて来た。別にそれで私のことが嫌いだとか、人前に出すには恥ずかしいと言うわけではなく(だいたい息子も変人の部類に入ると思うし…夫だって「街中の仙人」と私が呼ぶように、どこか浮世離れしたところがある立派な変人だし…変人の息子はやっぱり変人である)、自分のお母さんはヨソのお母さんとはちょっと違う個性・感覚の持ち主、と言う程度のようだ。

 まず、群れない。人に迎合しない。人と違うことを気にしない。逆に一般的な女性の特徴は、「群れる」「人に合わせる」「一人浮くのを恐れる」である。子供の頃から、こうした女性の性向には違和感があった。自分も女性でありながら、未だに女性のそういうところが苦手である。

 今朝、NHKの朝の情報番組「あさイチ」で、「つながらない生き方」と題して、SNSを通じた人との関わり方で悩んでいる主婦の問題が取り上げられていた。

 子供が幼い頃は、子供が集団から孤立しないよう、ある程度親同士の付き合いが必要だと言う理由から、LINEと言うSNS機能を利用する主婦達。今や学校の連絡網でも利用するらしい。私の子育て期にはなかったものだ。メッセージの既読、未読で気を揉んだり、果てはトラブルに発展すると聞いたら、私の時代にこんなに便利で、同時に面倒くさいものがなくて良かったと思う。そもそも、そんなものがなくても、当時はコミュニケーションに何の問題もなかったのだから。

 最近は特に郷里の友人達(総勢12人のグループで、ひとりひとりが精神的に自立した女性で、思いやりもあり、つかず離れずの程よい関係が小中高以来続いている。彼女達は私の人生の宝である)が、互いの近況が分かり合えるからと、しきりにLINEを勧めるけれど、私は常に友人達と繋がっていたいとは思わない。これまで年に1度会えるか会えないかの程度でも、かれこれ40年近く続いて来た友情である。たとえ、逐一近況を伝え合わなくても、関係がそうそう簡単に切れるとは思えない。それに私の携帯電話は所謂ガラケーで、しかもネットにも繋げていないので(ネットに繋がるのは自宅のPCだけで十分)、機能的にもLINEを使えないのだ。

 また、最近よく言われるところの「格付けし合う」とか「マウンティング」とか、女性同士の小競り合いも嫌で、他人のSNSの書き込みに、やれ自分が上だ、下だと一喜一憂するのは馬鹿馬鹿しいと思う。多少の虚栄心は、本人の心持次第で向上心にも繋がるのかもしれないが、大抵は、相対的に自分を持ち上げる為に、他人を蔑む手段と化している。そこが何とも浅ましいと言うか残念なところ。そもそも私達は、ママ友程度の付き合いの浅い他人の、何を知っていると言うのだろう?少なくとも相手に大きな非がない限り、相手を蔑みの対象としてではなく、ひとりの尊厳ある対象として接することが、良識ある大人としてとるべき態度だろう。

 自分が自分らしくいる為には、他人から自分がどう思わているのか〜他人からの評価や評判をあまり気にし過ぎないこと。自分なりに誠意を尽くして、それでも相手に理解して貰えないのなら、その人とは元々縁がなかったのだと思えばいい。自分のあるがままを受け入れてくれる人は、たとえ今、そこに居なくても、きっとどこかにいるはずだ。少なくとも今、結婚しているのなら、夫がそういう存在のはずだ。自分を殺してまで、他人に合わせる必要はないと思う。

 私は他人の目に振り回される人生なんて、真っ平ごめんだ。そんな人生を歩むくらいなら、「変人」であることを選ぶ。 
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2015/6/3

プラスとマイナスは紙一重  はなこ的考察―良いこと探し

 この世のすべてのモノゴトには、プラスとマイナスの両面がある(周知のことながら、このことについて、改めて考えてみたい)

 それは一枚の紙の表側と裏側のような関係で、互いが相反する関係でもある。どちらか一方だけが存在することはあり得ない。

 そのことを踏まえて、常に日々の出来事を見るよう心がければ、多少は気が楽になるのかもしれない。他人の不可解な行動にも寛容になれそうだ。

 
 例えば、世の中、便利な道具が発明されれば(←プラス面)、ヒトはその便利さに頼りきって、本来自分が持っていた能力を失ないがちだ(←マイナス面)

 自動車など、その最たるものだろう。公共交通機関の発達していない地方都市では、自動車は移動手段として必須だ。ところが、それに頼るあまり、地方のヒトは昔ほど歩かなくなっているらしい。歩いて10分かそこらのコンビニまで自動車で行ったり、子供の塾の送迎にも自動車を使う(都会の子供より地方の子供の方が運動不足?)

 以前なら普段の生活の活動量だけで十分運動になっていたはずが、今ではわざわざウォーキングやジム通いをしないと運動不足で生活習慣病になってしまう。

 また、便利な道具で省力化を図れたから、それで浮いた時間を別のより創造的なことに使おうと考えても、発明は同時に時間を奪う道具も生み出すから、実のところ、ヒトは自分が思うほど時間を有効活用できていないのではないか(後で知ったのだが、堀江貴文氏が某テレビ番組で、これと正反対のことを言っていた(笑)。浮いた時間をより創造的なことに使うなんて、堀江氏のような人だから出来ることなのではないか?堀江氏は「そんなの当たり前でしょ」と言う風であった。確かに、そうであって欲しいが、世の大半の人々はそうではないと思う。こうした意識の違いから、生き方・パフォーマンスにも差が出て来るのだろう)


 プラスマイナスの法則は、当然ながら人間にも当てはまる。個々の人間の長所は短所にもなり得る(もちろん、その逆もまた然り)

 例えば、仕事をテキパキとこなす、自他共に"働き者"と認めるヒトがいる。仕事の上では頼りになる存在である。ところが、そのヒトがその場からいなくなった途端、普段、親しくしているヒトに、「あの人はいつも忙しなくて、一緒にいると疲れるのよね」と愚痴をこぼされたりもするのだ。

 皮肉なことに、そのヒトの一瞬たりとも時間を無駄にしない動きが、回りにいる人間に圧迫感を与えていたりする。視点をずらせば、長所は短所にもなるのだ。


 一見して上品で、誰にでも親切なヒトがいる。主義主張も一貫して公正である。ところが、そんなヒトが、時折、皮肉屋でいじわるな一面を見せたりするのだ。差別意識も露だったりする。

 察するに、そのヒトは傍目には誰もが羨む恵まれた環境にいても、何がしかの悩みや不満や劣等感を抱えているのかもしれない。しかし、その置かれた立場、プライドゆえに自分の弱さを他人には曝け出せず、その内面の苛立ちが、他人への陰湿な攻撃と言う形に出てしまうのではないだろうか?そうすることで、自らの精神のバランスを保とうとしているのかもしれない。

 そして攻撃の標的になるのは、大抵そのヒトから見れば地位、能力、容姿すべてに自分より劣るのに、なぜか常に満たされているような人物である。満たされているから、反撃などしないタイプ。しかも、自分の弱さは、自分が見下しているはずの相手に、見透かされてしまっている。そのことに、当の本人は気づいているのかどうか…

 結局、このことが意味するのは、「完璧な人間などいない」と言うことなのだろう。ひとりひとりが長所・短所、両方ひっくるめての存在であると言うこと。その前提に立って、個々の人間の在りようを観察することで初めて、人間は他人に対して寛容になれるのかもしれない。

 それでは、他人の欠点が目に付いて仕方がない時には、どうすれば良いのか?その場合は、まず何より自分自身を省みることだろう。

 他人の粗探しをしている自分は、果たしていかほどの人間なのかと。人間は皆、尊ばれるべき霊性と愛すべき無様さを備えている。それが人間なのだと。そして紛れもなく自分もその一人なのだ…人間が人間を裁くことなど、僭越なる行為以外のなにものでもないのだ、たぶん。

 自戒を込めて…
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2015/5/4

そんな故郷なら、いっそのこと捨ててしまえ!  はなこ的考察―良いこと探し

 10年以上前だっただろうか。友人の夫が、以前勤めていた会社の取引先の企業の社長に誘われる形で転職した際に、「転職先の二代目オーナー社長の、会社経営におけるあまりの公私混同ぶりに驚いた」と話していたのを思い出す。

 サラリーマンなんて、仕事着のスーツでさえ経費で落とせないのに、その社長と来たら、家族の食事会、旅行、息子娘用のPC等々、家族に係る出費の殆どを会社の経費で落としていたらしい。

 それでシッカリ節税して利益を確保しているようなのだが、友人の夫が怒り心頭だったのは、それだけやりたい放題に家族の為にお金を使っていながら、従業員にはかなり低い賃金しか支払っていないことだった。当時、転職は失敗だったとまで言っていた。しかし、年齢的に再び転職も難しいと思ったのか、今も同じ会社で働き続けている。

 また、数年前に別の友人の母が言った言葉に、ショックを受けたことがあった。友人は地元でも土地持ちで知られる家の息子と結婚した。友人の夫は家業を継ぎ、後年、土地を担保にかなり大きな賃貸マンションを建てる等して、さらに資産を増やした。友人には県外の大学を出たエンジニアの兄がおり、県内では有数の企業に勤めている。しかし、兄の収入では老朽化した家の建て替えもままならないと言う。それで、友人の母は現在、友人の夫、つまり娘婿が提供した家で暮らしている。そこで友人の母が発した一言が「やっぱり勤め人は稼ぎが悪くてダメね」であった。

 果たして、そうだろうか?大学まで出て専門技術を極めたエンジニアのお兄さんに、十分な給与を支払わない会社の方が間違っているのではないだろうか?所得分配が不公平なのが問題なのではないか?日本は「物作り大国」と言いながら、他の先進国と比較してエンジニアの地位や収入が低い(対事務職比)とも聞く。友人の兄は日々、真面目に働いているにも関わらず、母親にあのような言われ方をしたのでは、本当に気の毒だと思う。昔から知る友人の母のことは大好きだけれど、お金を持っている方が優る、と言うような拝金主義的な考え方には、私はどうしても賛同できない。

 なぜ、このふたつのエピソードを思い出したかと言うと、先日、書店で『沖縄の不都合な真実』と言う新書(現在、アマゾンの新書部門で売り上げ第一位らしい)の格差社会の章を読んだ際に、所得分配の不平等ぶりを示す指標"ジニ係数"についての記述が出て来たからである。そこでは、日本でも特にジニ係数が高い都道府県として沖縄県、大阪府、徳島県、そして長崎県の名が挙がっていた。つまり、この4府県は日本の中でも所得分配が不平等で、地域社会の中で格差が大きいと言うわけだ。

 本書は特に沖縄の知られざる負の一面を炙り出す目的で書かれたものなので、その内容はかなり驚くべきものとなっている。例えば、県全体の平均年収は全国最下位なのに、年収1,000万円以上の高額所得者世帯数が全国でも10位(台?)で、地方からは唯一のランクイン(他は大都市圏のみ)だと言う。このことは、沖縄県内で凄まじい格差が存在することを意味している。同様に、県民平均所得は300万円台なのに、公務員の平均所得は700万円台等、これだけ民間と公務員の所得格差が大きいのも珍しいのではないか?本書ではそんな沖縄を、"公務員天国"と揶揄している。

 これはつまり、米軍基地負担の見返りに沖縄県に交付される膨大な額の振興予算利権に群がる層(公務員、建設業者、インフラ業者、軍用地権者等)に富が一極集中し、それ以外の県民は貧困に喘いでいると言うことだ。しかも既得権益者はその利権をけっして手放そうとはしない(←尤も、既得権益者の富の独り占め〜富の偏在は、日本の地方どころか、世界的な問題であると言える)

 かくて、公務員(県庁職員、市役所職員、教員)もコネ採用がまかり通り、一族郎党が公務員など、まるで世襲の職業になっているようだ。さらに軍用地権者は不労所得として年間数百万円を得、それを担保に不動産投資で資産を増やす一方で、底辺層*は貧窮に喘ぎ、我が子への教育もままならない状況が、全国でも突出した低学力県の原因となっているだけでなく、階層の固定化を促す要因となっていると言う。

*男女共に生涯未婚率が高く(←定職にも就けず、他県の自動車メーカーの季節労働従事と失業手当給付を繰り返して糊口を凌ぐ人も少なくないそうだ。貧し過ぎて結婚もできないと言うことか?)、結婚できたとしても離婚率が高く、シングルマザー世帯が多い。しかもシングルマザーの所得は全国平均を大幅に下回る低さなのに、子どもへの自治体の医療費負担率、認可保育園の割合も全国平均を下回っている。 

 ただし、こうした問題は沖縄県だけでなく、日本の「地方」では程度の差こそあれ、昔から何処にもあったものだと思う。地方では昔ながらの地主が土地の名士であり、企業城下町でない限り公務員が最も安定した就職先であり、「地方交付金(を当てにした公共事業)利権」と言うものが厳然と存在し、選挙結果に絶大な影響を及ぼして来たはずだ。そういう既得権益者が幅をきかせる地方で、不運にしてコネも金もない人は、才覚があっても、それを生かせる場は少なく、報われないことが多いと思う。

 だったら、そういう不遇な人は生まれ故郷から飛び出して、都会に出て来れば良い。少なくとも地縁・血縁の弱さが、自分の不利に働くことはない。自分を知らない他人が殆どの中で、自分の生きたいように生きることができる。都会暮らしには、頼れる身寄りのない"孤独"と背中合わせながら、自らの責任で生じたわけでもない社会的格差から解き放たれた"自由"がある。

 思うに、人生において最も不幸なことは、端から挑戦もできないことなのではないだろうか?その成否はともかく、自らの現状を変えるべく、自らの能力を信じて、何かにチャレンジする。硬直した地方の階級社会では公正な競争は望むべくもなく、そのチャレンジすら、さまざまなしがらみや既得権益者らによる妨害があって難しいのが実情だと思う。

 逆に言うと、なぜ若者が故郷を捨てて出て行くのか、地方自治体は自らを省みるべきだろう。地元に残っている者の殆ど(←もちろん、全員とは言っていない。何らかの志を持って、敢えて地元に残ることを選択した人も、少数ながらいるのだろう)は、「地元での生活に何の不安もない既得権益者の子弟」か、「格差社会の現実を知ってチャレンジすることを諦め、現状に甘んじることを仕方なく受け入れた者」か、はたまた、「教育の効果・効用を知らずに育ち、自らの環境を変えるべく努力し、何かにチャレンジする発想すらなく、現状維持を良しとする底辺層」だろう。

 ただし、以上のことは、震災の被災地等、特殊な事情を抱えた場所では、必ずしも当て嵌まらないのかもしれない。さらに言えば、地方出身者にしても都会出身者にしても、地元で活路を見出せないのであれば、そこを離れて、新天地でチャレンジすることが、その人の人生を変える契機になると言う意味では同じなのかもしれない。

 生まれながらの環境が良くなければ、自分で変えるまでだ。それぐらいの気概がなければ、不遇の人間は不遇のまま、人生を終えてしまうことになると思う。

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   写真はチェスキークルムロフの川縁
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2015/4/28

地球という生命体の長い歴史の中で  はなこ的考察―良いこと探し

 先日のネパールで起きた大地震では、現時点で死者が4、000人を超えている。最近は2011年の東日本大震災をきっかけとして、日本でも火山活動が活発化したように見える。遠く南半球のチリでも度重なる火山噴火が話題になっているし、数年前にはアイスランドの火山噴火で、ヨーロッパ圏の航空機の運航が大混乱を来したことも記憶に新しい。

 自然災害と言う括りで考えるならば、地球温暖化や、それに伴う気候の変化で台風、サイクロン、トルネード、ハリケーンの強大化、海水面の上昇等もあって、その脅威は止まることを知らない。

 地球の表面を間借りしている人類にとっては、生存環境が脅かされる一大事である。

 その原因として、人類の経済活動における近代以降の化石燃料の多用や森林伐採等々による影響が指摘されて久しいけれど、果たしてそれだけなのだろうか?人類原因説はある意味、人類が自分自身を過大評価し過ぎているとは言えないか?

 私の指摘を待つまでもなく、もっと長いスパンで地球の変化を見るならば、現在はこの地球という生命体の長い歴史の中で、何度か周期的に訪れたであろう地殻と気候の変動期に差し掛かっているだけなのではないか?50億、100億年とも言われる長い地球の歴史において、人類の歴史などたかだか200万年程度である。人類なんて、この地球上で生まれては消えて行った数多の種のひとつでしかない。人類にとっての100年でさえ、地球にとっては、くしゃみの一瞬でしかないのかもしれない。

 地球上の種は全て、その都度、地球が提供する環境に適応できなければ、淘汰されるだけ。それだけの話ではないのか?そこで種のひとつに過ぎない人類がジタバタしても、今さらどうにもならないのではないか。「地球を救え」と嘯く"人類"と言う種にも、遅かれ早かれ、いつの日か必ず、終焉は訪れる。

 そういう視座で今の人類の状況を見ると、各地で起きている紛争やら、イスラム原理主義者によるテロやら、人種差別騒動やら、周辺国を不安に陥れる大国の覇権主義やら、諸々の混乱は、本当に馬鹿馬鹿しく思える。一体何をやっているんだろうね?そんなことをしている場合ではないのにね。

 それでは、人類はどうすべきなのか?(←まあ、こうした物言いはエラソーに思われるかもしれないけれど…)

 結局、明日、この世の終わりが来ても悔いが残らないよう、ひとりひとりが、自分の持ち場で、今日という日を精一杯生きるしかないのかもしれない。やりたいことがあれば明日に延ばさず、今日、行動に移すこと。誰かに何か伝えたいことがあれば、今日、躊躇うことなく伝えること。そして、今日と言う日の終わりに、今日の無事を感謝すること。ひとりひとりの人間が出来ることは、せいぜいそれぐらいではないだろうか?否、そうすることさえ、実はなかなか難しいのかもしれない。

 少なくとも私は、今日と言う日を、悔いのない1日にしようと思う。

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2015/4/25

マンションの庭  はなこ的考察―良いこと探し

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クリックすると元のサイズで表示します 私達家族が住んでいるマンションも今年で築20年となる。

 歳月の流れに伴ってリタイア世代も増えて来た。そうしたリタイア世代を中心に、数年前に住民の間で自然発生的にガーデニングのサークルが出来た。

 そのメンバーの方達が土づくりから始めて、マンションの各所に花壇を作ったり、寄せ植えの鉢を配置して下さっている。おかげで、今の季節は特に色とりどりの花々が、マンション住民や訪問者の心を和ませている。

 実はこのガーデニング、思わぬ副次効果をもたらしている。それまでマンション敷地内の隙間に適当に駐輪されていた自転車の駆逐に役だったのだ。一部有志がマンションの美観に注意を払うことで、住民全体の意識を徐々に変えて行ったのだろう。さらにガーデニングによる美観の向上が住民の管理意識の高さを示すとなれば、マンションの防犯対策にも繋がると言えるのかもしれない。

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クリックすると元のサイズで表示します ガーデニング・サークルで交遊を深めた人々は、昨年末には忘年会を企画した。住民の半数以上が夫婦連れで参加したようだ。

 あいにく私はたまたま美術館のワークショップの日程と重なって、帰宅が遅くなってしまったので参加できなかったのだが、ひとりで参加した夫が(あの街中の仙人が)、「なかなか楽しかった」と言っていた。住民同士で手料理を持ち寄っての気楽な飲み会だったらしい。開始時間も日曜日の午後5時と早く、終わるのも8時頃で健全そのもの(笑)。

 とかくマンション住まいは住民同士の交流も少なく、「隣の人は何する人ぞ」になりがちとも言われるが、上手に音頭取りをする人がひとりでもいれば、ウチのマンションのように和気藹々とした雰囲気もつくれるのかもしれない。

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 さらにリーダー格の人が住民の人望を集める形で管理組合理事長に就任し、それまで管理会社任せだった管理経費を細かくチェックして無駄を洗い出し、このほど管理会社の変更に至った。リタイアして時間的余裕が出来たからこそ、マンションの管理状態にも目を向けられたと仰っていた。マンションの老朽化に伴い、管理経費は増えこそすれ減ることはないはずで、築20年と言う節目に、管理の見直しも図れてちょうど良かったのではないかと思う。

 多くの住民にとっては終の棲家になるであろうマンション。皆で力を合わせて、できるだけ良好な状態で維持管理して行きたいものだと思う。
 
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2015/4/20

私の頭(心)を柔らかくしてくれる人  はなこ的考察―良いこと探し

 同じマンションに住む友人に、公立小学校で教師をしている人がいる。

 彼女は大学を卒業してすぐに教師になったわけではなく、都内の短大を卒業後は10年近く民間企業に勤務した経験がある。

 その後、子どもの頃からの夢だった教師になるべく一念発起し、臨任教師から始めて実務経験を積みながら教員採用試験を受け続け、40歳で本採用に至った経歴の持ち主だ。その間、会社の同僚だった男性と結婚し、2児をもうけ、子育てに奮闘しながらの挑戦だった。

 この20年近くの彼女の人生は、並々ならぬ努力と苦難の道のりであったと思う。

 多忙な彼女は土日も研修や当直で休むこともままならないようだ。マンション内で偶然会う度に、かなり疲れた表情を見せてはいるが、実際話してみると、日々の充実ぶりが伝わるような自信の片鱗をのぞかせる発言も少なくない。

 私自身は就業経験が正社員・パートをを合わせても10年程度で、専業主婦歴が長いせいか、社会でバリバリ働く同性に対しては多少引け目を感じているところがある。

クリックすると元のサイズで表示します 勤労学生であった短大時代に物足りなさを感じ(卒業後、時間の制約を受けずにもっと大学で勉強したかったと言う思いが止まなかった。自宅と大学とバイト先を往復するばかりで、学生らしい自由な時間がなかったのも、学生生活に物足りなさを感じた原因のひとつなのかもしれない)、30代で新たに四年制大学に入学して(←このような機会を持てたこと自体は本当に幸運なことだ)、自分なりに懸命に学んだにも関わらず、未だ劣等感(学歴コンプレックス?)が拭えないのは、総じて職業経験が乏しく、実社会での成功体験がないからだろう。

 男性にしても、大学を卒業したのは何十年も前のことなのに、ことあるごとに学歴に拘る傾向が強いのは、自身の現状に不満がある人(=現在が充実していない)、社会的成功を納めていない人に多いと聞く。

 教師の友人は言う。

 「息子さんは就職して今、頑張っているところだろうけれど、仮に今後、希望して入った会社だけれど自分には合っていないと思ったら、転職する可能性だってなくはないよね。でも、それも彼の人生だから、親は受け入れると言うか、見守るしかないよね。」

 「同僚に東大出の人がいるけれど、私はガンガン自分の意見を言っちゃう。その人、それを静かに聞いているんだよね。なまじ賢いから、いろいろ思うところがあっても、頭の中で合理的に処理してしまうのかもしれない。でも、中学生や高校生ならともかく、対小学生となると、そのおとなしさ、従順さが、子ども達には物足りないみたいだよ。何か思うところがあって、わざわざ小学校の教師になったんだろうけれど。」

 「神奈川県の公立校は旧師範学校の横浜国大出身者がとても多い。確かに彼らは賢い。それに努力家。自分に出来ないことがあると、「なぜ出来ないのか?」と自分を責める人が多い。賢いから感情のコントロールも上手くて無駄に人と衝突なんかしないけれど、一方でプライドも高いから付き合い辛い面もある。なまじずっと優等生で来たから、勉強の出来ない子、反抗的な子の気持ちが理解できないところもあるように見える。そこが教師としては、彼らの弱点と言えるのかもしれない。」

 「校長のような管理職は基本的に希望すれば誰でもなれると思う。しかし、教師の誰もが校長を目指すわけではない。子どもが大好きで、敢えて管理職を目指さずに生涯一線で子ども達と接し続けることを選ぶ教師も多い。だから人を肩書きで見るのは馬鹿らしいと自分は思っている。」

 「自分の同級生達を見ても、社会で活躍するのに学歴なんて関係ないんだなと思う。高卒で自ら起業して成功し、大手企業のサラリーマンより稼いでいる人も多い。要は本人のやる気とか資質だよね。学業優秀者が、必ずしも社会で人の上に立つ人間になるとは限らない。」

 「行政も学校現場の硬直性を危惧して、最近は積極的に社会人経験者を教師として採用したり、校長に登用している。教師も多様な人材がいた方が、子ども達にとっても良いことだと思う。」

 「忙しく日々を過ごす中で、あまり先のことは考えないようにしている。今日1日を無事に乗り切ることだけを考えて生きる。1日の終わりに、今日も無事に乗り切れたことを感謝する。特に年齢的にも心身の健康が大事だと思う。以前に比べて風邪をひきやすくなった、治りが遅くなったと言うのは、身体の免疫力が低下していると言うこと。つまり、ガンにも気をつけなきゃいけないってことよね。」

 まさに自らの努力で天職に就いて、現在は自信を持って日々を生きているように見える彼女の言葉には、太っ腹な力強さがある。そこに私は励まされたり、ハッとさせられる。

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 美術館でボランティアとして従事する同僚の中にも、特に親しくしている女性が一人いる。私より20歳近く年長だが、当初から互いに惹かれ合うところがあり、この十年はしばしば一緒に展覧会に足を運んだり、面白そうな本を紹介し合ったり、電話であれこれ話し込んだりする仲だ。

 彼女の刮目すべき点は、とにかく勉強家であることだ。

 私が紹介した本は、次に会った時には必ず読み終えて、感想を述べてくれる。

 驚いたことに、60歳で美術館のボランティアになるまでは、ボランティア先の美術館に来たことさえなく、美術に関する知識も殆どないに等しかったらしいが、今では土日の美術トークをこなすまでに知識を深めている。会う時も、人の噂や世間話よりも、美術史の疑問点等について存分に語り合えるのが嬉しい。

 また、大学で英文学を専攻したとは言え、50歳の時にTOEIC対策の勉強を始め、ほどなくして満点に近いスコアを出したと言う、チャレンジ精神と学習能力の高さには感心する。そして、その英語力を生かして、これまで企業や官庁の語学研修の講師を務めたり、政府の海外プロジェクトの和文英訳作業にも携わって来たらしい。

 さらに二人のお嬢さんを大学院で修士号を取得するまで育て上げ、現在お嬢さん達は社会の一線で活躍中だ。ご主人はご主人で、大手電機メーカーを退職後、以前から興味のあった英語を本格的に勉強され、今では学会で研究成果を発表されるまでなっておられるとか。こうして見ると、一家をあげて勉強家と言えるのかもしれない。

 彼女は、生来怠け者で臆病な私の背中を押してくれている存在と言えるだろうか。特に、何かを始めるのに遅すぎることはない、と言う点で。

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 実は、30代で学んだ大学の同窓会会報が届く度に、憂鬱になってしまう自分がいる。会報には社会で活躍する同窓生が写真入りで紹介されている。年長者は長年の実績を積み上げて、今ではその分野の第一人者として活躍していることを讃えられ、中堅若手は社会での現在の活躍の様子が伝えられている。

 おそらく、憂鬱の原因は、自分がその何れにも属さないことにあるのだろう。学生時代は主婦として家事をしながら、片道2時間の通学を続け、寝る間も惜しんで勉強に励み、総代で卒業したのに、卒業後10年経っても何者でもない自分。日々暮らしている分には何の不足もなく、幸せなのだが、会報を見る度に自分の不甲斐なさに落ち込む。

 郷里に帰ったら帰ったで、私より中高では成績の悪かったはずの同級生が地元の国立大や私立大を卒業後は、就職してキャリアを着実に積んでいる。今さらながら、親が教育に無関心で、希望する大学への進学を許してくれなかったことへの恨みが募る。

 正直に言えば、上述の会報で紹介されている同郷の年配の卒業生には、当時、地方から上京して大学進学など、どれだけ恵まれた家庭の人間なのだ、その運の良さも彼女の今に繋がっているのではないか、と嫉妬にも似た感情を覚える。社会で自分の持つ能力を最大限に発揮し、それが認められるチャンスを得る為には、目指す分野によっては適性だけでなくタイミングも大事だと思う。

 しかし、一方で、上述の教師の友人が言うように、地元の商業高校を出た後に起業して、現在は社長としてバリバリ働いている友人もいるのだ。そんな友人は今さら学歴がどうのなんて言わないだろう。何十年前も昔のことで悶々としている自分を情けなく思う。さらに、もう50代だからと新たなことへの挑戦を諦めている自分は、上述のボランティアの友人の前では恥じ入るしかない。

 そもそも2度目の大学の入学動機は、大学で4年をかけて興味を持った分野を学びたいと言う単純なものだった。多額の投資に見合う成果(収入?)を卒業後に得ようと言う戦略なしに進学した(投資した分をしっかり回収するというコスト意識が欠けた)私に呆れた友人もいた。結局、自分の現状の(社会的成功を得ると言う意味での)不甲斐なさは、努力不足以外のなにものでもない。

 ただし、大学で学んだことは、現在の美術館でのボランティア活動に十分過ぎるほど生かされている。たとえボランティアと言う形でも、大好きな美術に関われていることには満足している。何より結婚生活と子育て以外で、ひとつのことを10年以上継続したことは、このボランティア活動が初めてなので、やはり自分は美術関係の仕事に(努力を傾注できる)適性があったのかなと思う。だからこそ、若き日にきちんと学んでいれば、と言う後悔もあるのかもしれない。

 
 ややもすると視野狭窄に陥ってしまう自分に、新たな気付きを与え、目を見開かせてくれるのは、上述の二人のような存在だ。そういう存在は、自分の一度しかない人生をより豊かにする為に、一人でも多くいた方が良いに違いない。彼女達との出会いに感謝したい。

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 写真は何れも2010年にスペイン・バルセロナで撮影

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2015/3/26

まずは身近なところから  はなこ的考察―良いこと探し

もちろん私は時折軽率な発言をしたり、判断を誤ったりと、
けっして完璧な人間ではないけれど、
ひとりのオトナとして、子ども達の未来の為に、
より良い社会を築きたいと思っている。

これは別に大げさなことではなく、
自分のせめて半径1m以内に、
常に目配りを欠かさず、心を砕くことだと思う。
必要とあれば、自分の良心に照らして正しいと思うことを
行動に移すことだと思う。

別に人に褒められようと思ってやるものでもなく、
目の前にもし困っている人がいたら、できる限り手助けする。
ごくごく当たり前のこと。
ただ、それでもアクションを起こす前に、
自分の内では羞恥心との葛藤がある。
それは単に自分が自意識過剰なだけなのかもしれないけれど。


■昨日はバスで、杖をついた年配女性に席を譲った。
駅までは我が家からバス便なのだけれど、
住宅街の狭い道を縫うように走る路線なので、
少し小さめのバスである。

しかも、私の住む街も住民の高齢化が進み、お年寄りが多い。
そのせいか通勤時間帯を過ぎた日中のバスには、
お年寄りの乗客が多い。
だから数席の優先席はすぐに埋まってしまう。

それで入り口に近い、比較的前方の席に座ることの多い私は、
自ずと途中から乗って来たお年寄りに席を譲ることになる。

別に悪いことをするわけでもないのに、
いざ席を譲るとなると、ちょっと声をかけるのを躊躇う。
自意識過剰ゆえの羞恥心との闘いである。

しかし、実際近年はバスの発進時や急停車で
立っているお年寄りが転倒して骨折という事故も少なくないので、
「何より優先すべきはお年寄りの安全だろう」と
臆病な自分に言い聞かせて、お年寄りに声をかける。
離れて暮らす母親のことを想いながら。

昨日も、そんな日常のひとコマだった。
しかし、いつもとちょっと違ったのは、
運転手が間髪を入れず「席をお譲りいただき、ありがとうございます。」
と言ったことだった。マイク越しだから、バスの車内中に響き渡った。

別に悪いことをしたわけでもないのに、
恥ずかしさで耳がみるみる熱くなるのを感じた。

駅前の終点まで来て、バスを降りる際には、
席を譲った年配女性からも丁寧な御礼の言葉をいただいた。
当たり前のことをしただけなのに。
感謝されたくてやっているわけではないので、何だか気恥ずかしい。
しかし、同時に心がほんわかと温かくなるのを感じた。


■春休み期間中の今、映画館は
下は幼児から上は高校生までの子ども達で溢れかえっている。
親子連れはまだしも、小学生だけ、中学生だけ、
と子どもだけで来ているグループは、
残念ながら行儀の悪い子が多い。

映画の最中絶え間なくおしゃべりしたり、
せわしなく動いて、前の座席の背もたれを蹴ったり、
映画が終わった後は食い散らかして(大量のポップコーンが床に散乱)
片付けもせずに帰ったり…
これこそ、「親の顔が見たい」ものだ。
いくら仲良しグループで来て、気持ちが高ぶっているからと言って、
この行儀の悪さは度を超している。

少なくとも我が家の場合、
自分の周りに落ちているポップコーンは拾えるだけ拾って、
座席周りをきれいにしてから帰っているぞ。
息子にも幼い頃から、そう躾けて来た。

昨日などは映画館が貸し出している毛布が2枚、
これ見よがしに通路に投げ捨てられてもいた。
私の前を歩いていたふたりの小学生の女の子も、これには驚いていた。
暫くふたりの様子を見ていたけれど、拾いあげると言う発想はないようなので、
私は「こんなことしちゃダメだよね」と言いながら、
その"うち捨てられた2枚の毛布"を拾い上げた。
ふたりの女の子は少し恥ずかしげに頷いた。

結局、他人の不始末の尻ぬぐいをしているわけだけれど、
これこそ公徳心の問題だろう。
みんなで使う場所は、みんなできれいにする。
もちろん、この場合、映画館だから、
片付けや掃除は映画館スタッフの仕事ではあるのだけれど、
どう見ても非常識な事態を、見て見ぬふりをするのもどうなんだろう?

スタッフも上映直後の劇場の汚れ具合を見て、
一部観客のマナーの悪さに、さぞかしガッカリしていることだろう。

尤も過去の地下鉄サリン事件のようなこともあるから、
公徳心にかられてやたらめったら拾うことも、現実には難しい。

自分で拾うのが嫌なら、スタッフに声をかけると言う選択肢もある。
実際、私は女子トイレがあまりにも汚い(男子が見たら幻滅するような光景)時など、
近くのスタッフに声をかけ、その旨伝えている。
スタッフもすぐさま対応してくれる。

それにしても、映画館に子守りをさせる前に、
親は子どもに最低限の躾けをするべきではないか?
このままでは日本の将来が思いやられる。
他人に注意される前に、まず親が、
我が子に「公共の場でどう振る舞うべきか」教えるべきではないのか?
子どもの教育の責任の多くは、あくまでもその親が担うべきだと思う。

これもまた、"自分の半径1m以内に心を砕くこと"なのだと思う。
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2015/3/5

最近気になった物言い  はなこ的考察―良いこと探し

■最近見た映画の中で、登場人物が友人に対して会社の上司の悪口をグチグチ言い募る場面があった。

 そこで農作業を終えて帰る祖父が、通り過ぎざまに「人の悪口ばっかり言うのは、自分の中に同じところがあるからだべ」(←方言だったので、正確には聞き取れなかったが、そんな感じ)と言い捨てて、件の人物が「ここ最近では一番グサッと来た」と呆然とした面持ちで悪口を止めたのが印象的だった。

 私も一瞬ドキッとしたが、祖父の発言は、山間の村に長く住んで、閉鎖的な人間関係にある中で身につけた処世訓なのかなと思った。そこまで自分を省みる謙虚さがないと、村社会ではたちまち村八分に遭うのだろうか?

 そう言えば、「自分がどうしても好きになれない相手は、相手の中に自分の嫌な部分が見えるからだ」と言う説もある。近親憎悪はその最たるものだろう。


□ある脳科学者が、「妬み嫉みは一概に悪い感情とは言えない。それを自分の向上心に繋げるなら。文明の発展も、そうした妬みや嫉みなどの人々の負の感情が向上心へと転換された結果だ」と述べた。

 確かにそうかもしれない。そうかもしれないが、相手を羨んだり、妬んだりする感情を、自分の向上心へと昇華させるには、強い意志とそれ相当の努力が要る。それにポジティブ思考の持ち主であることが前提だ。ポジティブで努力家なら、妬み嫉みの感情を自身の向上心に昇華させるのは容易いだろうが、そんな人は一握りのような気がする。だから、ネットには妬み嫉みの言葉が溢れかえっているのではないか。

 脳科学者として功成り遂げた人だからこそ言えることだと思う。だからと言って、自分には(羨んだり妬んだりする対象のようには出来ない)無理だと最初から諦めるのも何だか悔しいではないか。ここはダメモトで"こっそり"「一握りの人間」を目指してみるのも良いのかもしれない。おおっぴらに公言なんかしたら、またどこかの誰かから、妬みや嫉みを買うかもしれないからね
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2015/2/5

評価軸もさまざま  はなこ的考察―良いこと探し

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 昨日、レディースデイを利用して、 (日本人俳優が多数出演しているが歴とした)台湾映画『KANO 1931 海の向こうの甲子園』を見て来た。

 これは、日本統治下の台湾・南部の弱小高校野球部が、ある日本人監督との出会いにより、劇的な成長を遂げて台湾代表として甲子園へ赴き、一大旋風を巻き起こした実話に基づく映画だ。

 Yahoo映画では現在、サイトユーザーから平均値で4.65ポイント(5点満点)と言う高い評価を得ている。ユーザーレビューを見ると、軒並み5ポイントの満点評価が付いている中で、たまに1ポイントや2ポイントと言う低評価も見られる。極端な低評価は何が原因なのだろうと読んでみると、例えば選手の成長過程の描き方が薄っぺらい、無駄な描写が多過ぎて長過ぎる(なんと上映時間は3時間5分もある!)など、ドラマツルギーの拙さに言及したものが多い。

 4年前の東日本大震災における台湾の国を挙げての巨額の支援や、WBCで見せたフェアプレイ精神、さらに本作全体を覆う日本&日本人礼讃のムードは、ここ数年のギクシャクした中韓関係にうんざりしている日本人から見れば面映ゆいほど心地良く、同じ近隣国ながら、日本に敵対心剥きだしの中韓に比べて、概ね親日的な台湾への相対的評価が高いものになるのは必然と言える。そのせいか、高評価を与えている人々のレビューは些か情緒的で、映画作品としての評価に大甘なところがあるのは否めない。

 とは言え、本作の高評価の背景には、作品としての完成度以外の別の評価軸の存在も見えるのだ。つまり、日本人の台湾人に対する贔屓目を差し引いても、本作には作品としての拙さを超えて人々の心に訴えかけるものがあった、と言うことではないのか?

 そこで、ひとつ思い出したことがある。先日見た『アナザースカイ』と言う番組での、歌手・中島美嘉の発言である。

クリックすると元のサイズで表示します 希代のファッショニスタであり(プロも絶賛のぶっ飛んだファッション・センス)、常にクール・ビューティな佇まいで、何となく近づき難い、謎めいた雰囲気を持った彼女。そんな彼女が、番組MC今田耕司の卓越したコミュニケーション能力の賜物か(今田氏は相手の懐に飛び込むのが上手く、誰もがその"今田マジック"で胸襟を開かずにはいられない)、番組では胸の内を赤裸々に明かした。

 「昔から、自分の歌は上手いとは思えない。自分の歌には自信がなかった。その代わり、"伝える"自信はあった。」

 彼女は「完治は難しい」と医者に宣告された耳の病によって歌が思うように歌えなくなり、2010年、逃げるようにNYへと旅立った。しかし、逃避先のNYで彼女が見たものは、「この先も病からは逃れられない」と言う現実だった。そして、歌手としては致命的な病を得てもなお、何かを発信しようとしている自分がいることに気付く。

 彼女は「1曲の歌には人を救う力がある」と信じている。この信念は何があろうと揺るがない、と言う。だからこそ、自分の心からの思いをファンに届けたいと、彼女は再びステージへと返り咲いたのだった。

 それまで公けにして来なかったであろう、自身の数年間の苦悩をひとしきり吐露した彼女は吹っ切れた表情を見せ、その目は真っ直ぐに未来を見据えているように見えた。直後のナレーションは、そんな彼女を「歌姫から表現者へ」と言う言葉で表現した。

 確かに彼女より歌唱力に勝る歌手は幾らでもいるのだろう。しかし、"唯一無二の表現者としての彼女"に代わる者はいない。ファンは"彼女の"歌が聴きたいのだ。

 映画人にしても、歌手にしても、画家・彫刻家・演奏家と言ったアーティストにしても、彼らは等しく「表現者」である(というよりアーティスト=表現者なんだろうか?)。各々に、人々へ伝えたい、訴えかけたいものがあり、それを伝える、訴えかける手段が違うだけだ。

 伝えたいものを人々に届けるためには、当然ながら伝えるための技術が必要である。しかし、技術もまた万能ではないのだ。技術だけ磨いてもダメなのだ。そこで息詰まっている表現者は、この世の中に大勢いるような気がする(最近では、ディズニーアニメ『アナ雪』の日本語版主題歌を巡る女優・松たか子と歌手・May.Jの優劣騒動?が記憶に新しい)

 
 優れた表現者は、その技術の稚拙さを超えて、自分の思いを、伝えたいものを、人々の"心"に届けることが出来るのだろう。その届いた思いが、人々を感動させる。そして、それが表現者の究極的に目指すところであり、最も難しいことでもある。もし、そうでないと言うならば、あらゆる表現活動は、表現者の単なる自己満足でしかない。

 その意味で、映画『KANO』の映画としての完成度はともかく、制作陣が映画を通して伝えたかったこと・思いは多くの人々の心に届き、映画サイトのユーザーレビューの高い評価に繋がったのではないか?

 映画の評価軸はけっしてひとつではないのだ。もちろん、賛否両論あって当然だ(多数派の意見が最大公約数的な似たり寄ったりの内容が多い中で、少数派のそれは個性的で興味深い内容が多いのも、また事実)

 参考までに、藤田令伊著『アート鑑賞、超入門!7つの視点』(集英社新書、2015)では、作品と鑑賞者の関係について、以下のように語っている。

 「アートとは多種多様な表現によって多種多様な価値観を発信するものなのに、見るにあたってはひとつの見方しか許されないというのでは、アートの存在意義自体が否定されかねません。

(中略)

 アート鑑賞は個人個人が主体的主観的に見て愉しめばよいものです。アート作品が作者ごとの多様な表現を披露し、多様な価値観を見る者に問うのと同じように、私達見る側もそれぞれの主観的な価値観と感受性で多様にアートを見てよいのです。

 絵や彫刻が作家にとっての「作品」であるならば、鑑賞は見る側である私たちにとっての「作品」です。「作品」である以上、一人ひとりの主体性が反映されていなければ何の意味もありません。ほかの誰でもない「私が見る」ということが大事なのです。」(p.36-37)

 最後に、数多くのユーザーレビューの中に、在日台湾人のレビューがあった。その内容が印象的で、『KANO』と言う作品が台湾で製作されたことの意味とその重みを端的に語っておられたので、以下に付記(一部抜粋)しておきます。

 「(前略)台湾は昔からいろんな国に占領された島で、他国と比べたら、国意識はそんなに強くないが、他民族の良さを客観的に観察できるところは長所です。

 世界歴史と中国歴史を勉強している台湾人は、なぜか台湾歴史はあまり勉強しなかった。そしてKANOの監督は台湾の歴史文化を台湾人に伝えたい気持ちで(筆者注:2本の)映画を作ったら、皆全部大ヒットになり、台湾意識を彼の映画によってたびたび起こし、今台湾で最も影響力を持ってる監督です。

 その監督は、近代台湾の発展は日本とつながっていると感じているでしょう。彼の今までの台湾映画は全部日本とつながっています。

 最初の映画は日本統治時代、一人の台湾の女生徒と日本人の先生との純愛ストーリーで、次の映画セデック・バレは台湾のセデック族(蕃人)は、自由を求めて台湾を侵略した日本軍に抵抗して、最後に日本軍に殺された実話の内容でした。この映画は中国でも話題になって、日本はやはりひどいなという世論が出たが、三番目の映画KANO(筆者注:実際は本作では監督ではなくプロデューサーを務めている)ができた。今回逆転して、日本人の素晴らしい先生によって日本人、漢人、蕃人という最強チームが結成し、甲子園に進出した実話の映画だった。

 映画KANOの中に台湾を愛し、台湾の農産物の研究を進んでいる日本人がいて、台湾の発展に最も大きな影響を与えた嘉南大圳も日本人が作ってくれたという内容もあった。

 要は完璧な民族はない。嫌な歴史があれば感謝すべき歴史もある。そして民族の壁を忘れ、一緒に同じ目標を持って皆それぞれの長所を発揮し一緒に仲良く頑張れば、KANOみたいな素晴らしいチームが出てくると監督がこう伝えたいのではないかと私は思っています。



 
 事程左様に映画から幅広く興味・関心が喚起され、さまざまなことについて学び、考えさせられる。これだから、何をさておいても映画鑑賞は止められない(実は先週末、左足に怪我を負い、靴を履くのも辛い状況だったのですが、その痛みを押して映画館に行ったのでした単なる"映画バカ"ですね。ははは…)

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2014/12/27

記事のその後(1)  はなこ的考察―良いこと探し

 以前、書いた記事に関して、その後得た新たな情報をもとに、改めて考察することがある。記事は書いたら書きっぱなしではなく、常にその内容が公正なものであったのか検証するのも、書き手としての誠実な態度だと思うし、もし、誤りがあれば、それを正す柔軟性を持った人間でありたいと思う。

 10月に『都市部に子どもの居場所はないのか?』と言うタイトルで記事を書いた。共働き世帯の増加に伴い、親が就労中に子どもを預かる保育施設の建設が、特に都市部で急ピッチで進んでいるが、そのことで行政と地域住民との間で軋轢が生じている、と言うニュースを目にして感じたことを率直に綴ったものだ。

 後日、NHKの情報番組『クローズアップ現代』でも、この問題が取り上げられた。

 それによれば、保育園建設に異を唱える地元の老人グループにも、彼らなりの言い分があるようだ。番組で取り上げられたのは、地域の老人の憩いの場であった公園を潰して、保育所建設が強行されたケースである。

 それに対して、番組では、当初は保育所建設に反対の立場を取っていた地域のリーダー格の男性が、行政側との粘り強い話し合いと、保育園側との積極的な交流を通して、次第に態度が軟化した他のケースを紹介し、保育園建設を巡る問題の原因のひとつとして、行政と地域住民とのコミュニケーション不足を指摘していた。特に行政側の、地域住民に対して有無を言わせない高圧的な姿勢が、地域住民の反発を生んでいるように感じた。

 前者のケースに関して言えば、地域住民が日常的に利用し貴重な交流の場であった公園を保育園建設の為に潰すならば、地域住民の為に公園に代わる場所を行政側は責任を持って用意すべきであったと思う。

 地価の高い都市部ならではの発想なのかもしれないが、公共的な土地の活用を、民有地と同様の考え方で"金銭的な損得勘定で判断する"のは誤りである。都市の中での孤立、孤独死が懸念される現代にあって、地域住民同士の交流は、住民の孤立化予防の重要なファクターである。行政が公共の福祉として、地域住民の交流の場を積極的に作りこそすれ、逆に奪うと言うのは本来あってはならないことだ。

 ニュース番組ではほんの数秒で事象のエッセンスを伝えるがゆえに、そこからこぼれ落ちる様々な事実がある。そこにも目配りをした上で、ことの是非を判断しなければいけないのだなと、改めて思った。

 また、番組では社会学者の興味深い研究も紹介していた。それは、老人、親、子の三世代の、同一地域における遊び場の変遷である。これによれば、当初は街のそこかしこにあった空地が、年々都市化が進んだことで、子世代では殆ど消失している。

 このことは、何を意味するのか?街から子どもの遊ぶ姿が消えたのである。今や、公園でもキャッチボールやドッチボール、サッカーなど、ボール遊びは禁止である。ましてや交通量が多い道路では遊べない。しかも親世代の時代にテレビゲームのような室内ゲーム機も登場し、子ども達は殆ど室内で遊ぶようになった。

 こうした変化は、子ども同士の関係や、子どもと地域住民との関係にも確実に影響を与えた。まず、異年齢で連れ立って大勢で遊ぶ機会が減った。もっぱらゲームを介して同年代との遊びが増えたのだ。さらに、子どもと地域住民が直接触れあう機会も激減した。特に子どもと老人が話す機会は殆どなくなった。これにより、互いに壁が出来てしまう。互いにとって、相手は理解できない異質な存在になった。このことが、老人世代の子どもアレルギーに繋がっているようだ。子どもの声が、(特に普段、孫との接触もない)老人世代には騒音にしか聞こえないのだ。

 先日、美術館のワークショップに近隣の都立高校生も参加したのだが、開催後の反省会で、一人の生徒が「私は正直言って子どもが苦手なのですが、今日はワークショップで沢山の子どもと接して、少し苦手意識も減ったように思います」との感想を述べた。これも異年齢で遊ぶ機会が減ったせいなのだろうか。私から見れば、高校生もギリギリで子どもの範疇(←子どもと大人の端境期?)である。実際、つい数年前までは小学生だったではないか?それでも、高校生にとっては最早、小学生は異質な存在なのだ。結局、今や各世代間で交流が途絶しているので、互いが相手を異質な存在として捉えるようになっているのかもしれない。

 このことを端的に現しているのが、世代を超えて愛されるヒット曲が久しくないこと、つい最近でも、若者の間で人気を博している「進撃の巨人」や、子どもの間で大人気の「妖怪ウォッチ」が、大人世代の私には、どんな内容で、何が彼らを惹きつけているのか、さっぱり分からないこと、だろうか?

 保育所建設を巡る問題は、図らずも、現代の都市部が抱える問題〜世代間交流の途絶による相互不信〜を浮かび上がらせたように思う。逆に言えば、世代間交流をもっと積極的に行えば、世代間の無用な溝も埋まり、誰にとっても、より生きやすい社会になるということなのだろう。
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2014/12/9

今日も上野だったんですが…  はなこ的考察―良いこと探し

今日は90人の児童を2つのグループに分け、それぞれにトークを実施しました。45分のトークを、インターバルを殆ど置かず2回続けて行ったので、ちょっと疲れました。子ども達にしても、90分間のうち、前半と後半に分かれてトークと企画展鑑賞をそれぞれ行ったので、集中力を維持するのは大変だったと思います。

面白かったのは、トークを終えて帰る間際、多くの子が美術館は楽しかったと口々に言っている中、私が担当したグループのひとりの女の子が、「私は美術館みたいな場所が大っ嫌いなの」と発言したこと。どうして?と尋ねると、「静かな場所が嫌い。苦手」との返事。傍らにいた男子が「うるさい場所がすきなんだよな。お前。モールとかさ」と口を挟むと、「そうだよ!(それが何か?)」と口を少し尖らせて見せました。

でも、嫌いという割には、その子は作品を見て、回数こそ少ないものの自分なりに感じたことをちゃんと発言していたのです。作品をしっかり観察しないと出て来ない発言でした。どんな感想を抱いたにせよ、それだけでも、彼女が今日、美術館に来たことには意味があったと思います。

また、トーク中盛んに発言した女の子は「私はやっぱり日本画の方が好きだな。日本画の色の優しいところ。西洋の絵はあまり好きじゃない。絵の具とか、日本の方が好き。」と率直な感想を述べてくれました。

そもそも、小学生の段階では行動範囲もまだ限定的で、興味関心の幅も親の嗜好に依拠するところが大きいでしょう。

親が美術に関心がなければ、家族で美術館に来ることもないはずです。だからこそ、スクール・ギャラリー・トークの存在意義があるのだと思います。

真の教育とは、児童生徒の世界観を広げてあげることです。それまで知らなかった世界を見せてあげる、体験させてあげることだと思います。見ないことには、体験しないことには、それが好きなのか嫌いなのかさえ、子どもには判断できません。もしかしたら、単なる食わず嫌いだった、と言うこともあり得ます。

パキスタンの一部の偏狭なイスラム教徒が女子生徒への教育を頑なに拒むのも、女性が教育を通して世界観を広げることが、彼らの将来的な脅威になると考えているのでしょう。子どもを産み育てる性である女性が豊かな世界観を持つことは、子どもの教育にも大きな影響を与えるはずです。

教育は、"ひとりの人間の人生を豊かにする目的で行われるのであれば"、素晴らしい成果を上げるでしょう。

その意味でも、今回、パキスタンのマララさんがノーベル平和賞を受賞したことには、大きな意義があると考えます。
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2014/11/29

大事な子供がどうなっても良いの?(怒)  はなこ的考察―良いこと探し

 今日、駅の改札を出た直後のことだ。

 大勢の人間が足早に行き交う雑踏の中で、見たところ2才にも満たないよちよち歩きの幼児がひとりで歩いていた。状況的に違和感があるので、弥が上にも目についた。

 こんな人ゴミの中で、こんな幼い子をひとりで歩かせるなんて、一体親は何をしているんだ?と思って幼児の周りを見てみると、確かに近くに親らしき人物はいた。若い女性がスマホを見て笑いながら、歩いている。目はスマホの画面に釘付けで、傍らの幼子に注意を払っている様子は一切ないどころか、周囲にも無関心なのは明らか。周りの人間がよけてくれているのが当然と言わんばかり。もうビョーキ。スマホ依存症。

 ここで突然、後方から誰かが近づいて来て幼児を掠っても、親は咄嗟の対応は無理だろうし、最悪、掠われたことさえ気付かないかもしれない。

 かわいい子だから、私が掠って行っちゃおうかなあ、と一瞬思ったが、良心がその悪魔な思いを押しとどめた。そのまま何事もなかったように通り過ぎることもできたが、目の前の幼子のことがやはり心配で、私は思いきって親らしき人につかつかと歩み寄り、肩を叩いて言った。

 「危ないですよ。お子さんの手を離しては。こんな人ゴミの中で」

 私はすぐその場を立ち去ったので、その後の母親の反応を詳しく見ていないのだが、もういい加減にして欲しい。

 大事な子供がどうなっても良いの?

 スマホに夢中になる親も親だけれど、そんな未熟な親を放置するのも、社会的責任としてどうなんだろう?育てられる子供にとっては"今、そこにある危機"なんだから。

 たとえ他人の子供であっても、親にどう思われようと、その子の身の安全を第一に考えて、もうさ、彼らより先に生きて来た分、さまざまな経験を積んだ上の世代として、注意しようよ。

 危ないのは危ないって。ダメなものはダメだって。

 せっかく生まれて来た命なんだからさ、みんなで守ろうよ。
 見て見ぬふりは止めようよ。


 これは近年、ニュース報道で露わになった(おそらく昔からあった。それが社会的な問題として認識されるようになっただけ)"児童虐待"の防止にも通じる話だと思う。
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2014/11/23

情けは人の為ならず(、巡り巡って自分に還って来るのだから)  はなこ的考察―良いこと探し

 今日、息子が都内での用事を終えて友人と田端で別れた後、秋葉原まで歩いて行く途中の日暮里駅近くで、年配の外国人夫婦に呼び止められたと言う。

 「宿泊先のホテルを探しているのだが、分からないので、助けて欲しい。」

 聞くと、トルコから来たばかりらしい。特に帰宅を急いでもいなかった息子は、二人をその場で待たせて、ひとりで駅まで行き、駅員にホテルの場所を教えて貰うと、そのまま二人をホテルまで送ったそうだ。件の夫婦はとても恐縮した様子で、「時間を取らせて申し訳ない」と繰り返していたそうだが、当の息子は「大丈夫です。時間はたっぷりありますから」と応えて、その場を立ち去ったらしい。

 息子は1才半の時に、トルコのイスタンブールを訪ねている。そのことを言ったの?と聞くと、息子は、どうして、そんな話しなきゃならないの?と反駁する。

 だって、あちらはトルコから日本へ来た。あなたは日本から(正確には当時駐在していた中東から)トルコに行ったことがある。それだけで、一気に心の距離が縮まるじゃない?お互い、親しみが湧くというもの。これこそ、身近な国際交流よ、と私。

 息子は、大げさだよ、とにべもない。

 とにかく、良いことしたじゃない。袖振り合うも多生の縁、情けは人の為ならず。あなたが施した親切は、きっと別の形であなたに還って来る、と言ったら、

 当たり前のことをしただけだよ、と、これまたクールな物言い。

 照れなのか、本気でそう思っているのか?

 振り返れば、私もトルコに行った時には、地元の人に親切にされたことがあった。図らずも、今回は息子が私の代わりに、そのお返しをしたと言うことか?

 さらに振り返れば、昔、私も息子と同じことをした。たぶん、今でも同じことをすると思う。そのことを息子の目の前でしたわけではないし、息子にそのことを話した覚えもないが、成長した息子が親の私と同じことをするとは、DNAの為せるわざなのか、はたまた私のこれまでの教育の成果なのか?(笑)

 何にしても、息子が損得勘定抜きに、そんな風に人に対して自然に振る舞えるのが、親としては嬉しい。やっぱり、"情けは人の為ならず"だからね。
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2014/11/6

あらゆる経験が、自分という人間を形作る  はなこ的考察―良いこと探し

 ある人が、自分の人生は挫折の連続だった、と言う。日本人にありがちな一種の謙遜なのかとも思うが、過去の経緯をいろいろと聞いているので、それらのことを指して、本人は挫折と言っているようでもある。

 しかし、それらの挫折経験は、確実に彼女の人間的な器を大きくしたと思う。自分の思うようには行かない人生を歩んで来たからこそ、他人の誤りや失敗も寛容に受け止められる、広く柔らかな心を持てたのではないだろうか?

 しかも、彼女には自分自身の失敗を省みる謙虚さがあった。人生における挫折を、他人のせいにしない潔さがあった。だからこそ、失敗から何かを学び、自分自身の内面的成長へと結びつけられたのだろう。

 彼女の人生の上で起きたあらゆる出来事が、今の彼女を作り上げた。人生で直面したあらゆる出来事から、彼女は人間として大切なものを学び取った。

 そんな彼女の周りには、常に人の輪が絶えない。そんな彼女の生き様から、私も学びたい。

 人生の中で自分の身に起きる出来事に、無駄なものはひとつもない。挫折で心が折れたまま力なく生きるか、挫折から何かを学び取って力強く前進するかは、自分次第である。自分の身に降りかかる火の粉を払って前進するか、あえなく炎に包まれて自滅するかも、自分次第である。

 同じような経験をしながら、そこから何らかの気付きを得る人もいれば、そうでない人もいる。私は前者のような豊かな感受性と鋭い洞察力を持った人を目指したい。

 これまでの人生経験が、今の私を形作って来た。これからの人生経験が、未来の私を形作って行く。

 人生の折り返し地点から数年を過ぎて、これからの人生に何が待ち受けているのか、想像するだけで恐れと楽しみが半々である。とまれ、死に際に「いろいろあったけれど、良い人生だった」と言えるような生き方に、少しでも近づけたらと思う。

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