2016/11/1

皆で子ども達を守り、育てよう  はなこ的考察―良いこと探し

 自分の生きている社会が、その未来を担う子ども達に果たして優しいのか?日々、自問自答している。


 今朝、雨でバスの到着が遅れに遅れて、通勤ラッシュの時間帯を過ぎているのに、先頭に立つ私の後ろにはいつの間にか10人以上の人が並んでいた。その中には幼い子ども連れでベビーカーも携えた若いお母さんもいた。

 イマドキのバスは前方の一人用座席にベビーカーを固定する為のストラップが付いている。ベビーカーの安全を図る為の措置だ。

 列の後方に並んでいた親子連れが乗車した時には、ストラップが付いている席がひとつしか空いておらず、母親は手をひいていた男の子をその席に座らせ、ベビーカーをストラップで固定して席に横付けにし、自分は立ったままの状態だった。

 よく見ると、ベビーカーと抱っこひもにそれぞれ幼児がいた。つまり母親は3人の幼子を連れていたのだ。

 バスが遅れたせいで、行く先々のバス停で行列が出来ていて、車内は次第に込み合って来た。仕方なしに母親はベビーカーに乗せていた幼子を男の子と一緒に座らせ、ベビーカーを畳んだ。

 座席に座らせた幼い兄弟に目を配りながら、片手でバーに掴まり、片手でベビーカーを持っている母親。その肩には抱っこひもで抱えた、もうひとりの幼子の重みがかかっている。

 大変だなあ。私がすぐ近くにいれば、せめてベビーカーを持ってあげるのに、と思った。すぐ後方の席に座っている若い女性は、親子連れに一瞥することもなくスマホをいじっているばかりだ。

 とにかく車内は混雑していて、私と親子連れの間には人だかりがあり、その状況が気にはなっても、私にはどうすることも出来なかった。

 そうこうしているうちに、漸くバスがバスターミナルに到着。

 母親は幼子2人の手を引き、ベビーカー以外にも大きめのマザーズバッグを抱え、バスから降りるのも一苦労だろう。降りる段になって、ベビーカーをバスから下ろすのだけでも手伝おうと、私は若い母親に声をかけた。

 持ってみると、A型ベビーカーは予想以上に重かった。その華奢な手で、こんな重い物をずっと動かないよう押さえていたのか。

 「母は強し」と感心すると同時に、もう少し周りの人間が気遣ってあげるべきではないかと思った。


 駅前のショッピングモールでエレベーターに乗った時のこと。

 私は最上階から乗ったのだが、途中階で親子連れが乗って来た。赤ちゃんを抱っこひもで抱えた若い母親と、父親と、3〜4歳くらいの動きの活発そうな女の子。

 そこで気になったのは父親の行動だ。エレベーターに乗り込む時、母親に続いて自分ひとりさっさと乗り込み、まだ外にいる幼い娘を大声で呼び寄せた。

 その間、エレベーターの操作盤の前の女性は、その親子の為に、ずっと「開」のボタンを押し続けていた。

 エレベーターに乗り込む時、父親はなぜ、幼子の手を繋がないんだろう?

 最近は、人ごみの中でも幼子の手を引かない親が少なくない。心配ではないのだろうか?実際、人にぶつかってよろけたり、転ぶ子どもを、私は何度も目撃している。

 さっさと前を歩いていて、子どもが泣いて初めて、我が子が転んだことに気づく親もいる。

 また、スマホに夢中で、我が子の動静をちゃんと見ていない親もいる。

 あまりにも無防備ではないか?

 それとも、幼い頃から子どもの自主性を尊重し、親があまり口出しや手出しをしない教育方法でも流行っているのだろうか?子どもの思うがままにさまざまな経験をさせ、敢えて痛い思いもさせる"経験主義"とでも言おうか?

 仮にそうだとしても、その実践は子どもの年齢や、時と場所によるのではないか?


 件の女の子はエレベーターに乗ると、扉の真ん前に立った。エレベーターの中でも手を繋ごうとしない父親。女の子が嫌がっても、言い聞かせて手を繋ぐべきではないか?

 大丈夫なのかと心配していたら、案の定、次の階で扉が開くと、女の子は勢いよく外へ飛び出した。

 「ここじゃないよ」と声をかけるだけの父親。その間、新たに乗り込もうとした人々は、この親子に待たされた形。

 堪らず私は「お父さん、お子さんと手を繋いだ方が良いんじゃないですか?」と、父親に向かって言った。父親は一瞬振り返ったが、私の言ったことが聞こえなかったのか、子どもと手を繋ぐことはなかった。

 周知のことだと思うが、エレベーターや電車のドア付近は幼子には危険な場所である。ドアで指や身体を挟まれる事故が後を絶たないと言う。特にドアと戸袋の間に、幼子の小さな指は入り込みやすい。

 私の夫は、子どもの安全を考えない親を目の当たりにしても、注意せずに冷たい視線を送るだけだ。そういう親の元に生まれた子どもが、親の不注意のせいで怪我をしたり、最悪死んでしまっても、それは親の責任で自業自得だと言う。

 しかし、そもそも私は、自分の目の前で、子どもが事故に遭うのを見たくない。


 私は、人間の人生は、いつ、どこで、どんな親の元に生まれたかで決まる部分が少なからずあると思っている。

 若いうちにしかるべき教育を受け、着々とキャリアを積んだ友人達を見るにつけ、もし、自分の親が教育熱心な親であったなら、私には今とは違った人生が開けていたのではないかと、時々思うことがある。

 与えられた環境の中で、自分なりに頑張って生きて来た自負があってもだ。「鉄は熱いうちに打て」という言葉は真実である。

 私が6才の時、4才になったばかりの妹は、一人で近所の商店へ行って、店の出入り業者のトラックに轢かれて死んだ。

 何も知らずに学校から下校途中だった私が目にした道路のおびただしい血は、私の妹の血だったのだ。火葬直前に見た、頭部を包帯でぐるぐる巻きにされた妹の姿は、50年近く経った今も脳裏に焼きついて離れない。

 以上のような私自身の個人的体験からも、「その生い立ちに関係なく、全ての子ども達が等しく守られ、育てられる社会」であって欲しいと思う。

 子育てに頑張る親に対しては、社会全体で積極的にサポートする。

 親がふがいないのであれば、社会全体で、せめて周りの大人が親の足りない部分を補い、身近な子ども達を守り、育てて行かなければいけないと思う。


 ひとりでも多くの人が、子ども達を守り、育てることに関して、ほんの些細なことでも躊躇うことなく行動に移すことが、少しずつ社会を変えて行くのではないかと、私は信じている。

2016/10/28

「いじめ」なんかに負けてたまるか!  はなこ的考察―良いこと探し

 「いじめは、いじめられる側にも問題がある。」
 普段は聡明かつ的確な発言で周囲の尊敬を集めている人物の意外な発言に、一瞬、私は耳を疑った。

 今これだけ若年層の間で「いじめ」による被害者の自殺や不登校が問題化(顕在化?)しているのに、その問題について真剣に考え、対処すべき大人が、些かでもいじめる側、加害者を擁護するような発言をしては、「いじめ」の問題は永遠に解決どころか減少の方向にさえ進めないだろう。

 仮に「いじめられる側」に何らかの落ち度があるケースがあるにしても、幾ばくかも「いじめ」と言う行為を肯定するかのような発言は厳に慎むべきだと思う。

 「いじめ」とは、より強い立場の者が単独で、或はボスを中心とした集団で、精神的、または肉体的、或は両方の暴力で、弱い者をいたぶり、追い詰めること。但し、強者・弱者の関係性は必ずしも固定ではなく、かつての「いじめる側」が何かをきっかけに「いじめられる側」になることもあるし、その逆もある。

 私が人間の善性に期待し過ぎなのか?

 どんなに高度な文明社会を築こうが、人間の本質は他の動物と変わらず「弱肉強食」で、強い者が弱い者をいたぶるのが人間の自然の姿なのか?そして、厳しい生存競争の中、強者とその取り巻き連だけが生き残り、弱者は淘汰される運命なのか?

 結局、冒頭の発言の人物は競争社会での勝者であり、その論理で「いじめ」問題を見ている。

 勝者がこの社会を動かしている以上、顕在化した「いじめ」問題を建前上無視することはできないので議題には上げるものの、本気で解決しようという方向に、残念ながら社会は向かっていないように見える。

 それが証拠に、文科省が学校に対してアンケートを実施しても、「いじめ」の存在を認める学校はそれほど多くない。端から「いじめ」問題に真剣に取り組むつもりのない学校が大多数なのだろう。

 それどころか、最近はどの世代でも殊更「階層化」で、狭いコミュニティの中における支配・被支配の関係を構築しようとしている。最近やたらと耳にする「○○カースト」(「スクールカースト」とか「ママ友カースト」とか、ふざけるなあほらしい)と言う何とも耳障りな言葉が今の時代を象徴している。

 斯様に社会が「いじめ」の土壌を育てているのだから、「いじめ」がなくなるわけがない。否、昔からずっとそうだったのだ。別に日本に限らず、人間が集い、社会を形成した時点で、強者が弱者を支配し、いたぶる「いじめ」に似た状況が、どの社会の、どの世代にも起きていた。ヨーロッパなんて厳然たる階級社会だしね。

 そんな状況の中で、弱者はどう生きたら良いのか?どう生き抜くべきなのか?特に子どもを育てる親や子どもの周囲にいる大人は、子どもが「いじめ」に遭遇した際の対処法を普段から考え、親子で「いじめ」に備えなければならないのだろう。

 具体的にはひとりでも味方を作ることを目指す。世界にたったひとりでも味方がいれば、心は折れないはずだ。特に10代になると親より同世代の味方が必要だ。

 弱い者同士で助け合うことを目指す。大勢と、誰とでも仲良くする必要などないのだ。

 たったひとりの味方の存在が自分を救う。そう信じて、必要最低限のコミュニケーション能力を身につけることが、自分で自分を守る術だと思う。これは大人にも言えること。

 それでは、親以外に自分の味方になってくれる人、友達をどうやって見つけるのか?

 例えば、まず自分の好きなものを見つける。それについて人に滔々と語れるほどの拘りを持つ。それぐらい何かに夢中になれたら、余計な雑音もあまり気にならなくなり、同じ趣向の仲間を見つけることも、それほど難しいことではないと思う。

 そう考えると、「オタク文化」は生まれるべくして生まれたのかもしれないね。


 傲慢な強者に「いじめられる方も悪い」と言わせる隙を与えないよう、弱者は弱者なりに知恵を身につけ、誰にも侵されることのない自分の世界を築き、理解しあえる仲間を作ろう

 人間社会を、本能のままに「弱肉強食」がのさばる社会にする、しないも、実は「弱者」の"知恵ある暴力を伴わない反撃"にかかっているのだ!


 かつての「いじめられっ子」からのエールです

    美瑛の丘から遠くの山並みを望む〜心が疲れた時は出来るだけ顔を上げて遠くを見よう…
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    自分の生活圏で「眺めの良い場所」を見つけよう。或は、その場で空を見上げてみよう

2016/10/21

クレーム社会だからこそ、声を大にして良いことは褒め称えたい  はなこ的考察―良いこと探し

 私も人のことを言えないのは重々承知の上で言うと、最近は一億総クレーマーかと思うほど「クレーム社会」になっている。

 ネット上のちょっとした発言に批判が殺到して発信元のサイトが「炎上」したり、TVCMの表現の一部が不適切だとのクレームが出たことが理由でCMが差し替えられりと、社会の中でクレームが大きな影響力を持ちつつある。

 特にネットの発達により個人の情報発信が容易になり、それまで内心思っていても、それを外に向けて発言することのなかった人々が、ネットを介してクレームをつけることが増えたと思う。そして、クレームを受ける側の企業や団体や個人も、ネットの情報伝播力(クチコミ)を恐れて、必要以上に神経質になっているように見える。

 もちろん、何事にもプラス・マイナスの両面があることは当然で、例えば行政サービスに不備がある場合、役所の窓口にメールで訴えることで、行政サービスが以前よりも迅速に改善されることも多くなっているのは確かだ。

 一方で、クレームの正否に関係なく、サイレント・マジョリティ(おとなしい多数派)よりもノイジー・マイノリティ(騒々しい少数派)の意見が採用される傾向も否めない。

 クレームにも、ある状態を改善したいと言う前向きな内容がある一方で、対象者を批判すること自体が目的化しているものもある。

 特に後者においては、批判によって相手を打ちのめすことが目的なので、その破壊力(負のエネルギー)には凄まじいものがある。

 また、現実社会においても、面と向かって相手を苛烈に批判する人も、中にはいる。

 しかし、当事者でない私が冷めた頭で客観的に見た場合に、そこまで激しくなじるほどのことか?と思うケースも少なくない。そのミスで莫大な損害が出るわけでもなく、生きるか死ぬかの深刻な問題でもないのに(もちろん、批判する側の小さなことも疎かにしない丁寧さ、生真面目さも一方で理解できるのだけれど)

 何か注意するにしても言い方があるだろうと思う。冷たく突き放すのではなく、批判一辺倒でもなく、威嚇するでもなく、的確な指摘による導き。そうしなければ、注意された方は「叱られた記憶」だけが脳裏に焼き付き、心が萎縮してしまうかもしれない。

 例えば、仕事上のミスに関しては、ミスを犯したことをただ責めたてるのではなく、ミスの原因を明確にして、今後ミスを犯さない為にどうしたら良いか一緒に考えると言うスタンスではダメなのか?たいていの仕事はひとりで背負い込むものではないと思う。チームワークで解決できることは、私達が思っている以上に多いはずだ。

【2016.10.23 追記】

 昨日の日経土曜版(p.7)で興味深い記事を見つけた。精神科医のコラムである。高野知樹ドクターは、まず臨床心理士堀越勝氏の著書からの引用で「コミュニケーションの深さ」について言及している。

 「コミュニケーションの取り方には『挨拶レベル→事実・数字レベル→考え・信条レベル→感情レベル』があり、だんだん深くなっていく。」

 上記のことを踏まえて、高野ドクターは仕事上のミスの指摘方法について、以下のようにアドバイスしている。
 
 「否定的な内容は傷つきやすい感情レベルから入らずに『ここ、ミス率が高いから気を付けて』となるべく事実・数字を入れて客観的に伝える。」

 「もし傷つけてしまったら、次の声かけは『ここは問題なし』など受け止めやすく。投げた言葉を、相手がどう受け取ったか観察しながら次の言葉を選ぶ。指摘するにも相手への思いやりが大切。その方が意図は伝わるはずである。」 

 ミスを指摘する側は、自分の指摘の仕方に、相手の尊厳に対する配慮が欠けてはいないか、常に気にかけるべきなのだろう。とにかく、自分自身の精神状態や相手に対する好悪の感情に影響されずに、冷静であるよう努めること。



 どうもこの頃、相手に対して過剰なまでの「怒り」をぶつける人が多いように思う(つまり感情的になりがち)。それだけ吐き出したいストレスを抱えている人間が多いと言うことなのだろうか?

 しかし、そのあり余っているエネルギーを、少しでも「人を生かす」方向には向けられないだろうか?「負」から「正」に転換はできないものか?

 現在のようなクレームだらけの殺伐とした社会で、人々が疲弊し、萎縮しがちだからこそ、人々の良い行い、素晴らしい行いに対しては、大げさなくらいに褒め称えた方が良いのではないだろうか?感動や感謝の気持ちを大げさなくらいに伝えてはどうだろうか?しかも気づいたら躊躇することなくすぐに。

 他の人が代わりに褒めてくれたからいいや、ではなく、自分も積極的に人を褒める。称賛する側に加わり、人に"正のエネルギー"を注ぐ。
 
 そうすることで、何だかイライラしている人が多い現在の高ストレス社会も、多少なりとも改善できるのではないか?

 人間は基本的に"イジワル"なのか、人の悪いところを見つけるのは得意なようだ。だからこそ、人の良いところを見つけるには努力が必要なのだろう。自分の心の目の曇りを取り払い、邪心なく人を見つめる為に。

 つまり、人の良いところを見つけるのは、自分自身の精神衛生上も良いと言うこと。粗さがしよりずっと前向きで、建設的で、創造的で、他者だけでなく自分自身をも生かす行為だと思う。


 人が生きた証として残すレガシーは、何もモノばかりではないんだよね。

2016/8/15

一部の横暴に対して我慢はしない。やられ損にならない為に私達が出来ること  はなこ的考察―良いこと探し

 いつの時代にも社会の中には、「確信犯的に悪意を持って、それを行動に移す人間」が一定の割合で存在するのかもしれない。

 そういう人間から見たら、私のような人間は、「正義漢ぶった単純な馬鹿」なのかもしれないが、どうしても彼らの「社会秩序の破壊行為」が看過できなくて、抗議せずにはいられない。

 (社会秩序の在り方も時代と共に変化する。例えば、タバコの毒性が明らかになった今となっては、老いも若きも、男も女も、タバコをスパスパ、所構わず吸うのが当たり前だった50年代、60年代のような状況は、社会常識として許されない)


 先日のことだ。いつものようにバス停に向かっていた私は、外出早々に嫌なものを見てしまった。バス停の先頭に並んでいた中年男性が、その場で飲み干したドリンク剤の空き瓶を捨て置いたのだ。

 さらに後ろに人が並んでいるにも関わらず、「健康増進法第25条」の「受動喫煙の防止」に則て、全国各地のバス会社が禁煙と定めているバス停で(会社のホームページにも明記)、平然と煙草を吸い始めた。

 その人物のタバコの副流煙は、風下にいる私達のところへ流れて来る。臭くて不快この上ない。夏休みはバスの利用者に子どもだって多いのに。

 堪らず口頭で「バス停での喫煙は禁止されていますよ」と注意したら、「お前には関係ないだろう」「文句があるなら警察を呼べ」と逆切れする始末。

 「灰皿があるんだから、吸っていいんだろうが」とのたまうが、これは喫煙者の吸い殻のポイ捨てが後を絶たず、それに困った隣接の建築会社がやむを得ず設置したもの。バス停での喫煙を推奨しているのではけっしてない。

 それでも朝になれば、バス停付近にはタバコの吸い殻が散乱している。以前も当ブログに書いたが、大工の棟梁から身一つでその建設会社を興した社長さん自ら、毎朝そこを掃き清めておられる。そういう経緯を知っているから、なおのこと男性のゴミ投棄と喫煙行為に私は腹が立ったのだ。

 しかし、そもそも人間は、自分自身で変わろうと思わない限り、変わらないものなのだろう

 ましてやこうしたケースでは、信頼関係を構築している間柄の人物からの指摘ならともかく、見ず知らずの他人からの指摘には、反省するどころか内心の後ろめたさもあって、却って頑なになる可能性が高い。

 私自身、端から相手を責めるような口調が、いけなかったのかもしれない。それでは、相手の反発を招くだけだ。「未熟なコミュニケーションの取り方」と言われても仕方ない。

 バス停での一部始終を私の後方で静観していた夫は、バスに乗車後「理屈の通じない人間に何を言っても無駄だよ」と、吐き捨てるように言った。

 「どうして、私に助け船を出してくれないの?」と不満をぶつけると、「男が出たら、暴力沙汰になるから」と至ってクール。

 まあ、他の人々から見れば、バスが到着するまで不毛な押し問答を続けるおじさんとおばさんは、はた迷惑であったかもしれない

 (しかし、何だね。「おばさんのくせに」には思わずカチンと来たね。悪いことは悪いと指摘するのに属性は関係ない。まあ、これはマトモに言い返せない阿呆の決まり文句ではある。こういう一部の不届き者のせいで、時と場所を弁えた良識ある喫煙者まで、肩身の狭い思いをすることになるのは気の毒だと思う。)


 こういうことを個人で繰り返しても埒があかないだろうと考え(昨今、相手が暴力行為に及ぶ危険性だってなきにしもあらずだし、話の通じない人を相手にするのは疲れるだけなので、今後は控えるつもりだ)、バス会社のバス停における喫煙に関する見解を確認したかったので、後日、バス会社に電話した。

 当のバス会社は、「私と同様のクレームは多数寄せられているが、自治体でターミナル駅周辺以外の場所は「条例で禁煙と定めていない」以上、バス会社としては個々のバス停に関しては、利用者に『禁煙協力をお願い』するしかない」と、ある程度予想はしていたけれど当たり障りのない回答。

 現状では喫煙者に「関係ねえだろう」と悪態をつかれたら、すごすごと引き下がるしかないと言う(せめてバス停の標識に「禁煙」やバス停をきれいに使うよう、注意喚起の張り紙をしてほしい旨訴えた。コストが掛かることなのでバス会社がどう対応するか分からないが、言うだけは言ってみた)

【16.08.17 追記】
 今日バス停を利用したら、早速、バス会社は貼り紙で対応して下さっていた利用者の声を蔑ろにしない真摯な姿勢と迅速な対応に感謝!

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 「つまり、『自治体でバス停での禁煙を条例化すれば』、バス会社としてももう少し強く働きかけることが出来るのか」と問うと、バス会社の担当者は「そうですね」と応えた。


 それならばと、自治体のホームページにある、市民からの市政への意見や提案を受け付ける窓口「市長への手紙」へ、早速、条例化の検討を願う旨の意見をメール送信した。後日、回答を貰えることになっている。


 以前、バスターミナルのゴミの散乱に関して市の担当局に問い合わせた際、その時点ではハッキリとした回答は得られなかったのだが、暫くして、「ゴミ箱設置の要望」は叶わなかったものの、清掃の回数が増える等の改善が見られた。

 その経験から、市民として自治体に対して意見を述べることは、けっして無駄ではないと考えている。

 単に自分の我を通す為ではなく、市全体、市民全体の利益(公共の福祉)を考えた提案ならば、自治体も動いてくれるのではないか?

 この国はサイレント・マジョリティーが、ノイジー・マイノリティーの横暴に、ひたすら我慢を強いられているケースがあまりにも多過ぎる。

 おかしいと思ったなら、ひとりでも多くの人が勇気を出して声を上げるべきだ。悪意ある一部の人間の横暴に、善良(←別に人として完全無欠である必要はない。ここでは個別事案に関して常識をきちんと守っている人を指す)である多数の人々が我慢する必要などないと思う。

 具体的には、市民生活の上でおかしい点があれば、我慢せずに担当部署に自ら働きかけて改善を促すのも、市民としての権利であり、務めではないかと思う。


 言うまでもなく、本来ならば条例等で規制をかけずに、ひとりひとりの良識で社会の秩序が保たれるのが理想なんだけれどね。


 訴えから17日後に、自治体の担当者から以下のようなメールが届いた。それによれば、既に条例で市内全域で路上喫煙は禁止されている。

 それを知ってか知らずかバス会社が条例違反者に対して弱腰なのは、条例が罰則規定のない拘束力の弱いものであること、また、私企業である以上費用対効果の面からも、いちいち個別事案に対応できないからだろう。

 自治体自体、主要駅前でのキャンペーン等でお茶を濁している。結局、上述の男性を見れば分かるように個人のモラル向上など殆ど期待できないので、さまざまな場所での個人間の小競り合いはなくならなず、多くの人(サイレント・マジョリティ)がバス停での煙害を不快に感じながらも我慢し続けることになると思う。

 何か、抜本的対策はないものですかね?

【自治体からの回答】

 ××市では、道路や駅前広場などでの喫煙が周囲の歩行者にやけどを負わせたり、衣類などに焼け焦げをつけたりするおそれがあることから、こうした他の歩行者に対して危険となる行為を防止し、歩行者の安全を確保することを目的として平成18年4月1日に「××市路上喫煙の防止に関する条例」を施行しました。

 条例では、喫煙者には市内全域で路上喫煙をしないよう求めるとともに、主要駅周辺などの多くの歩行者が利用する区域を「路上喫煙防止重点区域」として指定し、区域内では市で設置した指定喫煙場所を除き喫煙を禁止しています。

 条例施行以降、市内各駅周辺での毎月のキャンペーン活動やポスターの貼付、市営バス車内での広報など、路上喫煙防止に向けた啓発活動を行うとともに、路上喫煙防止指導員による巡回活動により、路上喫煙者への注意・指導を行っています。

 なお、人の往来が多い区域に限定して重点的、集中的に路上喫煙対策を講じ、意識啓発を行うことで、区域外への波及効果も期待でき、条例の周知、PR効果も高くなると考えていることから、特に人通りの多いターミナル駅周辺を「路上喫煙防止重点区域」に指定しているところです。

 条例を実効あるものとするためには、今後も広報・啓発活動等を継続して実施し、喫煙マナーを向上させることがなによりも重要と考えていますので、御理解の程よろしくお願いいたします。

 また、本市では、平成7年7月に、地域環境美化の推進を図り、もって市民の生活環境の向上に資するため、「××市飲料容器等の散乱防止に関する条例(通称:ポイ捨て禁止条例)」を施行し、道路、広場、公園、河川その他公共の場所での飲料容器等(空き缶・空きびん・紙コップ、チューインガムのかみかす、たばこの吸い殻)のポイ捨てを禁止しております。そして、上記の「公共の場所」には、今回御意見をいただきましたバス停も該当するものと認識しているところです。

 主要駅をはじめとした主要駅周辺を散乱防止の重点区域に指定し、集中的にポイ捨て禁止等の呼びかけ及び清掃活動を行う啓発キャンペーンや巡回指導を行っており、これらによって環境美化についての市民の皆様の意識の向上を図るとともに、市内全域への波及を期待しているものです。

 他方、市では、今回の御意見と同様に重点区域以外の場所でのごみの散乱につきましても御意見をいただく場合があり、一人ひとりのマナーやモラルの向上に向け継続した取組みが必要と認識しているところです。今後も、様々な機会や広報媒体等を活用して条例の周知、ごみに関するマナー向上の呼びかけを行い、「ポイ捨てしないまちづくり」を進めてまいります。


××市長 ○○ ○○

受付番号 28−001273

(路上喫煙防止について)
担当 市民文化局市民生活部地域安全推進課
電話 ×××−×××−2284

(ポイ捨て禁止について)
担当 環境局生活環境部減量推進課
電話 ×××−×××−2580

2016/8/4

ほんのもう少し先の"未来"を見据えて…  はなこ的考察―良いこと探し

 何かしら行動する時、ほんのもう少し先の"未来"を見据えて、行動した方が良いのではないかと思う。

 例えば、私の住むコミュニティでは、毎日曜日に古段ボールや古新聞や古着の廃品回収を行っているのだが、私は住民の廃品の出し方が気になって仕方がない。

 廃品回収業者が町内を2トントラックで周って、各ゴミ集積所で廃品を回収することになっているが、観察すると、種別ごとに回収している。

 例えば、1台のトラックに段ボールのみ積んで、荷台が満杯になったら、リサイクル工場に運ぶ。町内の各集積所のダンボールがなくなるまで、それを繰り返す。ダンボールが終われば、次は古新聞と…

 しかし、ゴミ集積所では、各々の住民が何も考えずに適当に廃品を置いている。段ボールはひもで結わえてすらいなかったりする。

 業者の回収方法を見れば、ゴミ集積所でも、廃品をきちんと種別ごとに分類して置いた方が効率的だし、業者も助かるだろう。

 以前はこの廃品回収を、地元の建設業者がトラックを出して、子供会の役員が月に一度行っていた。私も役員を務めた数年間、ほぼ毎月、春夏秋冬、町内を練り歩いて、廃品をトラックに積む作業を行った。

 だから、その作業の大変さが分かるのだ。特にこの暑い時期は体力の消耗が激しい。

 確かに業者は仕事でやっているのかもしれない。しかし、そうだとしても、少しでもその負担を軽くする気遣いが、廃品を出す側にあっても良いのではないかと思う。

 だから、せめて私が利用する集積所ぐらいは分類しておこうと、廃品を出すついでに、てんでバラバラに置かれた状態の集積所の廃品を、種別ごとにまとめ直している。

 ひとりでも多くの人が、自分の行動の先を見据えて、現時点で自分がどうふるまうべきか、どう行動すべきか考えるのは大事なことだと思う。そうすればきっと、社会はより快適になる。生き易くなる。後先考えずに何でもやりっぱなしではいけないと思う。


 このことは、女子トイレでの待ち行列(女性は身体の構造上、どうしてもトイレが近くなってしまい、女子トイレは常に混雑しがちだ)の並び方にも通じるところがある。

 限られた空間の中で、トイレから出て来る人の動線を妨げずに並ぶには、どうしたら良いのか、列の先頭の人は考える必要がある(もし待ち行列が手洗い場への道筋を塞いでいたら、私はできる限り先頭の人に声をかけるようにしている)。待ち行列の人のほんのちょっとの気遣いで、誰もが気持ちよくトイレを利用できるようになるのだ。

 狭い歩道や通路で、どのように歩いたら、前から来る人、後ろから迫る急ぎの人の邪魔にならないのか、友人や家族と歩きながらも、少しでも気遣いの出来る人間でありたいと思う。

 人の迷惑も考えず、横に広がってダラダラ歩くのはもってのほかである。

 
 ほんの少しでも想像力を働かせて行動したい。 

2016/5/31

気持ちを上げてくれる、お気に入りの曲たち♪  はなこ的考察―良いこと探し

 日々生きていると楽しいことばかりではありません。梅雨空も陰鬱な気分に拍車をかけがち。

 そんな時にはゴキゲンな曲で、陰鬱な気分も梅雨空も吹き飛ばしてしまえ〜

 幾つかの曲は日本のテレビCMでも使われているので、既にご存じかもしれません。

 最新のヒット曲ではありませんが、誰かも言っていたように
 "Good music never get old !"。

 PVもユーモアに富んだものばかりなので、これらの曲の楽しさを、当ブログを読んで下さる皆様とシェアできれば、はなこも幸せです

 そのサビは吉田羊さん出演の洗剤CMでもお馴染み。カナダのシンガー・ソングライター、カーリー・レイ・ジェプセンのキュートな魅力全開の1曲です。カナダローカルで活躍していた彼女の曲を偶然ラジオで耳にしたジャスティン・ビーバーが、彼の辣腕マネージャーに彼女を紹介したのがきっかけで、世界的にブレイクしたのは有名な話。PVのオチが笑えます。 
Carly Rae Jepsen "Call me Maybe"

 これもビールのCMに起用された曲。ノリの良さが気分をアゲアゲ。ハーモニーも美しいです。野外でのキャンプを描いたPVの映像も開放感に溢れて、見ていて心地よいです。ドライブしながら聴くと最高なんだろうなあ…
Owl City & Carly Rae Japsen "Good Time"

 あの名優トム・ハンクスが出演のPV。おじさんになっても、若き日の出演作『ビッグ』の頃の人間的な温かみがそのままのトムが素敵です。トムの口から「私、妊娠したの」は爆笑モノ…最後の群舞でトム、カーリ−の横で踊っているのは、カーリーを見出してくれたジャスティン・ビーバー。彼って悪童のイメージが強いけれど、慧眼の持ち主なんですね。
Carly Rae Jepsen "I Really Like You"

 あれっ?テイラー・スウィフトって米のカントリー歌手ではなかったっけ?ポップでユーモア溢れる(テイラーの運動神経の残念っぷりがかわいく、親近感が湧く)PVです。自虐的と言うか、開き直りっぷりが潔いと言うか、心情をストレートに綴った歌詞も魅力的です。これも某教育関連ビジネスのTVCMで使われた曲です。英語オリジナルの動画は、再生回数15億回に迫るメガヒット動画です。
Taylor Swift "Shake It Off"

2016/5/19


 一度開けてしまったパンドラの箱は、閉じる術がない。

 昨日久しぶりにNHKの「あさイチ」を見た。

 番組では女優?の山口智子さんの「私は子供を産まない人生を選択した。そのことについて、私は全く後悔していない。」という主旨の発言を端緒に、「女性の生き方」についての忌憚のないトークが、いつもの「あさイチ」らしい和やかさで(←これは有働アナの時折関西弁を交えた、親しみ易く巧みな進行によるところが大きい)、途中定時ニュースを挟んで1時間あまりに渡って展開された。

 パネラーは、「既婚で子供のいる女性代表」としてタレントの山口もえさんと作家の川上未映子さんの2人と、これまで非婚を貫き、思うことあってつい最近大手新聞社を辞めたと言う女性(申し訳ない。名前を失念!)がひとり、そしてNHKのアナウンサーとして二十数年のキャリアを重ね、たまたま今日まで結婚に至らず、つい最近出産を諦めたと言う有働由美子アナの4人。この4人にオブザーバー的立場として時々発言を挟む、番組レギュラーの男性陣2人(イノッチ柳澤氏)が加わってのディスカッション。

 女性の人生には、思いつくだけでも、実にさまざまな岐路がある。ここでは成人以後に限っても…
 
 まず、結婚するか、否か? 
 (結婚は「縁」と「タイミング」あってのものなので、
 望んでも出来ない可能性がある)


 敢えて結婚せずに、職業人としてのキャリアを追及するか?
 或は、結婚しても、キャリアを諦めないか?
 その何れでもなく、自分にとっての心地よさを第一に、
 仕事も結婚も自然の成り行きに任せるのか?

 結婚後も仕事を続け、キャリアを追求する為に、
 もしくは仕事の有無に関わらず、自分なりの価値観を貫く為に、
 子供は敢えて持たないか? 

 或は結婚も仕事も出産も諦めず、産休や時短勤務を利用して
 一時的にペースダウンしつつも仕事を続け、
 いずれはキャリアの追及を再び目指すか、
 或は、そのまま家庭優先で行くか?
 はたまたワークライフバランスを完璧に取って?、
 仕事も家庭も完璧?を目指すのか?

 結婚後も続けて来た仕事だが、出産を機に思い切って辞めるか?
 一旦出産を機に仕事から離れるが、子育てがひと段落したら、、
 何らかの形(フルタイムorパート)で仕事(社会)に復帰するか?

 さらに子供は授かりものなので、
 妊娠を望んでも、誰もが妊娠・出産出来るとは限らない。
 不妊治療をするとして、いつまで不妊治療を続けるべきなのか?
 やめるとしたら、やめ時はいつなのか?
 
 器質的に問題がなくとも、
 どんな女性にも妊娠・出産時期にはリミットがある。
 産み時はいつなのか?
 

 個々の選択の組み合わせの数だけ、多様な人生がある。


 
 こうして見ると、現代女性の生き方には、特に「子を産む性」と言う性差により男性以上にさまざまな選択肢があり、それが女性を悩ませる一因ともなっているようだ。しかし、元より教育を受ける機会もなく、ひたすら男性の陰で家庭を支える役割を求められた昔の女性に比べたら、それは贅沢な悩みなのか?

 人生の分岐点で、その都度何を選択したかによって、人ひとりの人生の道筋のあらかたは決まって行く。選択にあたっては自分自身の意志だけで決められるものでもなく、選択の時点でその人を取り巻いている環境や、時代の思潮の影響も避けられない。「自らの意志」と思っていることさえ、実は何らかの影響下にあったりする。

 また、選択した結果が必ずうまく行くとも限らず、只中にいる時には自分を客観視することも難しいので、人は常に自分の選択が正しかったのか否か、悩み続ける。おそらく「自らの生き方に迷いがない人」なんていないだろう。仮にそんな人がいたとしても、とにかく前に進む為に「私は迷いなく選んだ道を突き進む」と自ら言い聞かせているのだと思う。

 このブログでも取り上げた英国の秀作ドラマ「第一容疑者(Prime Suspect)」の主人公ジェーン・テニスン警部(後に警視)は、仕事一筋のキャリア・ウーマンであった。このドラマが作られたのは90年代で、91年にNHKに入局した有働アナも、バリキャリを求める時代の空気に呼応したかのような発言を、当時の雑誌のインタビューで残している。折しも、その数年前に男女雇用機会均等法が施行された。

 女性のキャリア観に変化が訪れたのは2005年頃。当時のキャリア志向の女性向け雑誌でも「出産」が大々的に取り上げられるようになった。以降、仕事・結婚・子供のすべてを手に入れることを目指す女性が増えた。

 女性の本格的な社会進出に伴い、初婚年齢が遅くなり、キャリアアップと出産の板挟みで悩む女性が増え始める。仕事でのキャリアアップを優先させれば、どうしても出産を先送りせざるを得ない。出産のリミットが迫る中、不妊に悩む女性も増えて行った。

 
 ここで少ないサンプル数ながら、個人的に見聞きした範囲で話すと、日本でも有数の進学校として知られるO学園の卒業生は、その多くがトップレベルの大学を卒業し、有名企業等に就職する。知人のお嬢さんは大手通信会社で働きながら4人の子供を、もう一人のお嬢さんも大手電機メーカーで働きながら3人の子供を産み育てている。

 少子化社会と言われる中、彼女達が3人〜4人も産み育てながら第一線で働き続けられるのは、ひとえに彼女達を支える彼女達の母親の存在が大きい。聡明ながら世代的に結婚後働き続けることが叶わず、子育てに専念した団塊の世代の母親達は、自身の夢を娘達に託している節がある。孫の世話から家事全般に至るまで、助けを求める声があれば出来る限り娘のもとへ駆けつけ、献身的に支えている。

 能力、キャリア、夫、子供の全てを手に入れた彼女達は、彼女達なりの苦労もあるのだろうが、多くの女性が羨むであろう恵まれた存在である。数多いる女性の中で、ほんの一握りの存在である。殆どの女性は望みの全てが叶うことなどなく、何かを得る代わりに何かを諦め、日々自分の現状に悩みながら生きているのだろう。一方で少数ながら、他人の動向など気にせずに、マイペースで我が道を行く女性もいるようだ。

 どんな人生であるにせよ、ひとりひとりにとっては一度しかない、かけがえのない人生である。

 
 さて、地上デジタル放送化で、テレビ番組と視聴者間のインタラクティブなやりとりが可能になる等、特に「生放送の双方向性」の流れを受けて、「あさイチ」も視聴者参加型の番組作りを積極的に行っている。今回も出演者の活発な意見交換の間に、リアルタイムで視聴者から寄せられた意見を、適宜、有働アナが読み上げてくれた。

 その中で例えば「妊娠出産を望みながら子供が授からなかった自分と、敢えて"子供を産まない"と選択した人とでは、"子供がいない"と言う点では、他人から見れば同じ状況だが、一緒にしないで欲しい」と言ったようなナイーブな意見があった。

 これは功罪相半ばするネット社会がもたらした「それまで心で思っていても誰も口にしなかった本音を、匿名性を言いことに誰もがあけすけと語るようになった」弊害だと思うが、情報伝播力の強大なテレビ番組での「一般的には無名の人物の発言」が、「匿名による本音の発露」として、思わぬ形で誰かを傷つけていることの典型であろう。

 結局、テレビの前の視聴者にとって、テレビで取り上げられる「素人の本音発言」は、その人物の属性が明らかでないが為に、ネット上の「匿名による発言」と何ら変わりがないのだ。それがもし、たまたまある人のアキレス腱を突こうものなら、冷淡で嫌味と受け取られる可能性が高い。

 「ネット以前」の世界ならば目に入らなかったであろう言葉が、今や不特定多数の人の目に容易に入る時代。しかもテレビ界がネット社会の影響を受けて、「匿名性の高い本音」を、速報性を売りにするテレビの性質上、十分な吟味もなしに安易に取り上げるものだから、誰かにとっては目にしたくない言葉、耳にしたくない言葉も、否応なく不特定多数の人々のもとに届く。

 こうなると、受け手である視聴者は、「誰かがポロリとこぼす本音に、いちいち傷ついてはいられない」とばかりに精神的な逞しさ、否、鈍感さを身に着けるしかないのではないか?万人にとって心地よい言葉がないように、耳障りのない言葉もないのだから。

 冷静に考えれば、単に元々人々の内に存在していたものが、表に露わになっただけのことなのだ。「世の中にはいろいろな考えの人がいて、他人とはどうしても分かり合えない部分もある」と言うことを、改めて突きつけられてしまっただけなのだ。

 悲しいかな今の時代、ナイーブでは、心穏やかではいられない。 

2016/5/3

GW前半、遠出しなくても結構楽しめる♪  はなこ的考察―良いこと探し

 GWも後半に入りました。前半は比較的天気に恵まれた関東も、後半は中国大陸から来た低気圧で雨模様になりそうです(←結局、雨だったのは水曜日の夜中だけで、日中は低気圧一過の後の雲一つない晴天でした。しかし、相変わらず強風)

 息子が幼かった頃は、全都道府県を旅すると言う目標もあり、GWには積極的に各地へ旅行に出かけた覚えがあります。しかし、ここ10年程は遠方に住む親が年を取って来たこともあって、郷里に帰省する回数が増え、その出費が嵩んでいるので、国内旅行は控える傾向にあります(逆に、年を取ると長時間のフライトが耐えられなくなるだろうと思い、年に1回の海外旅行は続けて来ました。我が家の経済力ではそれが精一杯)

 宿泊を伴う旅行の代わりに、値ごろな「はとバス」の日帰りツアーをよく利用しましたが、それも興味のある場所はほぼ回った感があり、今年は参加しませんでした。

 それで今年のGWは近場で遊んでいます。これが意外に楽しい。

 考えてみれば、この時期、関東は気候が安定して、花々も咲き乱れ、新緑も美しく、各地でさまざまなイベントも行われています。特に今年は魅力的な展覧会が目白押しの印象。面白そうな映画も、近くのシネコンで続々公開中。わざわざ遠出しなくても、日替わりでいろいろ楽しめます。

 私の場合、28日(木)に北関東の息子を訪ね(片道2時間半の電車の旅!)、29日(金)の朝に息子の車で自宅に戻って来て、30日(土)は近所のシネコンでレオナルド・ディカプリオ主演、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の映画『レヴェナント』を見て、5月1日(日)は最近出来たショッピング・ビルを見に愛車のママチャリで往復約1時間のサイクリング、昨日の2日(月)は東京国立博物館で開催中の『黒田清輝展』を見て来ました。今日は家族3人で映画『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』を見た後、行きつけの中華レストランで久しぶりのランチ

 あとやっていないのは「街散歩」くらいでしょうか?しかし、GW後半は天気が崩れるそうなので、街散歩は無理かもしれません。そうなるとシネコンで映画か、自宅で録りためた国内外のドラマを見るか、はたまた読書でノンビリ過ごすかもしれません。来る8日(日)は我が家のGWの〆として、生協で入手したチケットでピアノ・リサイタルを聴きにミューザ川崎へ行く予定です

 先日、ネットに、「主婦はGWを自宅で過ごすとなると、家族の世話に忙殺されて、普段より却って忙しい→GWは要らない」と言う記事がありました。何となく分かるような気がする。主婦は旅行にでも行かない限り、家事から解放されることはないですからね。プラス家族の世話となったら、ストレスも溜まるでしょう。

 旅行に行かないのなら、せめて日によっては3食の内1食を外食にするとか、家事の一部を他の家族が手伝うとか、幾らかでも主婦の負担を軽減するように工夫すれば、主婦もご機嫌でGWを過ごせると思います。

 「母の日」も近いですしね

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2016/4/3

人生は「自己満足」で  はなこ的考察―良いこと探し

 「自己満足」と言う言葉は通常、否定的な文脈の中で使われると言うか、否定的な意味合いで以て使われることが多いと思うのですが、個人の人生なんて、肯定的な意味合いで「自己満足」で良いのではないかと、はなこ的には思うのです。

 自分で、自分の人生に満足出来れば良い。

 世間で称賛されるでもなく、誰かに褒められるでもなく、自分で納得できれば良い。

 人生のスタートは人それぞれですから、
 恵まれた人は恵まれた人生から、
 恵まれていない人は恵まれていない人生から、
 自分の人生に何が不足しているのか、
 自分が生きる上で何が必要か、
 或は自分は何を得れば満足できるのか、
 自分なりに考え、それらを充足させようとして、自分なりに努力して行く。
 
 人それぞれの人生ですから、比べようがない。
 そもそも他人の人生のすべてなんて知りようがなく、
 私達はその一部を見ているに過ぎない。
 それなのに他人の人生と自分の人生を比べたりするから、
 不幸せを感じたりするのでしょう。
 それって虚しくないですか?
 そんな暇があったら、自分の人生にフォーカスしよう!ってもんです。

 与えられた環境の中で、自分がどれだけ頑張れたか?
 目一杯頑張らなくても、自分の求める生き方をどれだけ貫けたか?
 思うように行かない人生でも、自分なりにどれだけ前に進めたか?
 自分が子供の頃に思い描いた夢や希望をどれだけ叶えられたか?

 人生のその時々で、そして死の間際に、それまでの人生を振り返って、
 自分で満足できれば、それで良いのではないでしょうか?

 特に死ぬ時ぐらい、ああすれば良かった、こうすれば良かったと後悔せずに、
 自分を責めたりせずに、自分で自分を褒めてあげたいですね。
 そうした境地に至ればこそ、
 自分の周りの人々への感謝の気持ちも湧いて来るのかもしれません。

 幸福な人生には「自己肯定感」がとても大切で、
 それが自尊心に繋がるのだと思います。
 人が自らの人生のあるがままを受け入れ、強く生き抜く為に、
 自尊心はなくてはならないもの。
 人生の最期に、いくばくかの自尊心は持ち合わせていたい。

 その為にも、生きている限り、与えられた環境の中で、
 自分のやりたいこと、思ったことは出来る限り実行に移して、
 たとえそれが上手く行かず、思うような成果が得られなかったとしても、
 実行に移した自分のチャレンジ精神そのものを自分自身で称えて、
 再び何かにチャレンジする気力を持ち続けたいですね。

 やりたいと思っていながら、何かを言い訳に実行に移さないことが、
 後々、悔やむ原因になると思います。

 ドン・キホーテのように人に笑われようが、
 果敢にやりたいことに挑戦する。
 そういう自分でありたいですね。


 そして、ドン・キホーテを嗤う側にはけっしてつかないこと。
 他人の努力や挑戦を嗤う人は、
 即ち他者の人生を軽んじている人であろうから、
 そんな人に同調してはいけない。
 仮にそんな人に嗤われたとしても、
 そんな人の嗤いなんて気にする価値もない。

 そもそも他人を嗤う人に限って「所詮、努力しても無駄なのだ」と、
 自分自身、端からチャレンジすることを放棄し、
 自らの人生を蔑ろにしている人だと思うのですよ。
 真摯に生きることから逃げている。

 おそらくそういう人は、自らが招いたであろう現状に不満を燻らせ、
 他人を嘲笑することで溜飲を下げたつもりでいる。
 でも、それは自らの不甲斐ない人生から
 目を逸らす為の一時凌ぎに過ぎない。
 自ら動き出さない限り、現状は何も変わらないのに。

 実はそういう人こそ、他人を嗤う暇があったら、
 今の自分の顔を、人相を鏡で見てみる、
 謙虚に自分を省みるべきなんだろうなと思います。
 もちろん、これは自戒を込めての物言いです。 



 自分にとって一度きりの人生。
 他者にとってもかけがえのない人生。
 共に自らの人生を真摯に生きている限り、
 どちらの生き方も尊重できる人間でありたいです。

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2016/3/10

人の振りみて、我が振り直さんばね♪  はなこ的考察―良いこと探し

 近所にある3つのシネコンにはそれぞれに長所短所があり、状況に応じて使い分けています。

 109シネマズはひとつの劇場に一般のシートに混じって、限られた数ながらエグゼクティブシートなる、前後のピッチが少しゆったり目でリクライニング機能と右側にミニテーブルの付いたシートがあり、会員なら通常価格で利用できる為、私も109に行く時はそのシートを利用することが多いです。特にひとりでレディースデイの時に行く時は、通常のシートより隣席との間隔が開いているので快適。

 しかし、当の109シネマズ。駅に直結したショッピングモールに併設しているせいか、とにかく利用客が多い。おそらく現在は近所のシネコンの中でトップの集客数だと思います。そうなると必ずしも映画好きの人ばかりが来るわけではないので、マナーの悪い客が比較的多いような気がします。トイレの使い方も汚い人が多いのか、或は利用客が多すぎて清掃が追い付かないのか、他のシネコンに比べるとトイレもあまりきれいではありません。

 昨日も、家族との軋轢がありながらも個人の生き方を貫いた女性の姿を描いた映画を109シネマズで見たのですが、なかなか感動的な作品なのに、隣席の人のマナーの悪さでテンションも急降下

 まず、映画が始まっても暫く外から持ち込んだお菓子の袋の開閉にガサガサと大きな音を立て、上映中には何度もスマホの画面を覗いて光害をまき散らし、揚句の果てに(エンドロールの途中にその人は退出したのですが)、場内が明るくなった時、私の目に飛び込んで来たのは、その人のシートに散らかったままのゴミと寒さ除けに映画館が貸し出しているブランケット。

 ブランケットは映画館の出入り口付近に返却ボックスがあるので、帰り際そこに返却するのがマナーです。その人はそこに返却しないどころか、畳むことさえせずにシートの上にとっ散らかしたまま帰っていたのでした。

 これには呆れを通り越して、悲しくなりました。私と同世代(ちょっと上?)の女性で、連れの方もいたのですが、いい年した大人がマナー違反を重ねて、それで平気でいられる神経が理解できません。連れの方も友人として注意しないのでしょうか?結局、「類は友を呼ぶ」だから、似た者同士で気にならないのかもしれませんね。

 これまでの経験を振り返っても、私より少し上の世代の女性のマナーの悪さが目立ちます。思い余って注意すると逆ギレされる始末(だから最近はもう注意するのも面倒臭くて我慢することが多い)。自分より年下に注意されるのが気にくわないのか、或は年齢を重ねてオバタリアン化(死語?若い人は知らないでしょうね)して、もう怖いものなしなのか?若い人の方がよっぽど素直で、悪意もない。まだ改善の余地があり、救いもあります。

 その人がもし人の親なら、いったい我が子をどのように育てたのだろうと、暗澹たる思いがしました。マナーは、大勢の人が帰属する社会の中で、互いが気持ち良く過ごす為に、個人が行うべき心遣いだと思うのですが、身勝手な人がいるものですね。そんな親のもとで育てられた人も、マナーの何たるかを知らずに育ったが為に、親同様に心ない行為で周囲の人に不快な思いをさせているのかもしれない。残念ながら、このような負の気風も、親がわが子に「自分の背中<生き様>を見せる」と言う"教育"によって連綿と受け継がれて行くのです。

 もちろん私とて清廉潔白、完全無欠な人間ではありませんから、自分でも気づかないうちに周囲の人に迷惑をかけているかもしれません。だからこそ、「他人を鏡に、常に自分の行為を省みることが大切」だなと胆に銘じています。

【蛇足】

 そう言えば、飛行機から降りる時、エコノミー席から上のクラスの通路を通ると、その散らかりようにビックリします。ブランケットなんて床に落ちているのはザラ。そもそもエコノミークラスは狭いから散らかしようがないのかもしれませんが、プレミアムエコノミーやビジネスクラスの散らかりようには、そのクラスの客の傲慢さの顕れ、或は謙虚さの欠如とでも言いますか、しばしば見られる映画館のエグゼクティブシートの客のマナーの悪さに通じるものがあるような気がします。 

2016/2/2

エマニュエル・トッド氏の言葉  はなこ的考察―良いこと探し

 年始早々、バスの中で見知らぬ若い男性に暴言を浴びせられた。

 理由は分からないが、バスの出入り口付近に座っていた男性がわざわざ振り返って、私に向かって怒鳴り声を上げた。その直前にバスの支払いを巡って運転手とちょっとしたやりとりがあり、私は補足説明のつもりで運転手に向かって話しかけていたのだが、その時、その若い男性と目が合い、彼が何やら怒鳴っているように見えた。しかし若者の滑舌が悪かったせいか、何と言っているのか聞き取れなかった。と言うより、私に続いて何人もの人がバスに乗り込んでいる最中だったので、私に向かっての発言なのかも、その時は正直、定かではなかった。

 しかし、その男性がバスを降りる時にも、私を睨み付けて(その時も視線がぶつかった)「くそばばあ」と吐き捨てるのが、今度はハッキリと聞き取れたので、たぶん私に対しての言葉だったのだろう?しかし、なぜ、あの見知らぬ男性が初対面の私に暴言を吐いたのか、未だに分からない。彼はバスの先頭の座席に腰かけていたので、乗車時に私の手荷物が彼に誤ってぶつかりでもしたのか?それとも運転手に言ったことを、自分に向けられた言葉だと勘違いしたのか(しかし、別に人を怒らせるような変なことは言っていない)?或は、単に私の声が大き過ぎてうるさかったのだろうか?

 とにかくその時は、初対面の人間に対して瞬間的に、あれだけの憎悪感情を露わにする彼のメンタリティがちょっと怖かった。一方、すぐ近くにいたはずの夫は、その一部始終に全然気づいていなかった(普段から仙人然として、周囲の動静には無関心な人なので)

 その時は休暇で戻って来ている息子が家にいたので、息子にその時の経緯を話してみた。息子はこともなげに、「お母さんは知らないかもしれないけどさ、世の中にはすれ違いざまに、知らない人に向かって、心の中で"くそばばあ"とか"くそじじい"って悪態ついている人間がいるんだよ。おじさん、おばさんの存在そのものに嫌悪感を抱いているの」と言った。「え?どうして?」と驚く私に「なんか存在そのものが腹立たしいらしいよ。つまり、世の中にはいろいろな人間がいるってことさ。もちろん、僕は違うけどね。」と講釈した。


 それから何日か過ぎて、さまざまな分野の専門家をコメンテーターに揃えて、さまざまな分野の最新情報を伝えるテレビのバラエティ番組を見ていたら、心理学の専門家が「社会に一定割合いると見られるサイコパスと呼ばれる社会的病質者は、ひとりで妄想に妄想を重ねて、怒りを募らせる傾向がある」旨の話をしていた。

 別に件の若者がサイコパスだとは言わないが、あれ以来、人が抱く怒りの感情<怒りの沸点温度も、何にカチンと来るのかも人それぞれで、他人には知りようもないから怖い>について気になっていたので、人知れず怒りを溜め込み、その怒りが爆発寸前の人間が身近にもいるのかもしれないと、ふと思った。その人間の怒りの爆発の瞬間にたまたま居合わせようものなら、どんな被害を受けるか分かったものでない。時々発生する理不尽な無差別殺人が、正にそうなのではないか?


クリックすると元のサイズで表示します 昨日、深夜のニュース番組「ニュース23」で、フランスの人口歴史学者エマニュエル・トッド氏(64)が、キャスターらによるインタビューに答えていた。

 番組での紹介によれば、氏は「家族システム」や「人口動態」に着目した分析で知られる気鋭の人口歴史学者で、1976年に初めての著書『最後の転落』でソ連崩壊を、2002年の『帝国以後』ではアメリカの衰退を予言し、そして近年の著書『文明の接近』ではアラブの民主化をいち早く指摘したことで知られた人物らしい。最近、書店の店頭で、氏の著書「シャルリとは誰か?」(文春新書)を見かけて、氏のことが気になっていたこともあり、その話に聞き入った。以下は「ニュース23」より。

 最新著『シャルリとは誰か?』では、昨年未曾有のテロに見舞われた母国フランスを痛烈に批判していると言う。

現在の状況
「現在、アメリカ、ヨーロッパ、日本などの先進国は危機的状態にある。」
「今の傾向として、『テロは中東から、先進国の外から来ているものだ』と考えられがちだが、第一に重要なことはテロの問題は先進国内部から生まれていると理解することだ。」
「もちろんイスラム国は危険だし、警戒すべきだが、むしろ先進国の社会がうまく機能していない。国内の問題を分析する必要がある」

シャルリエブド事件
「(フランスにおける)大規模なデモは社会的に重要な出来事だったが、(これには)嘘がある。フランスの理念である『自由』『表現の自由』を守ると訴えていたが、この事件(シャルリエブド襲撃事件)でフランスの自由は脅かされていない。シャルリエブドは非常に質の悪い小さな新聞で、『イスラム嫌い』の風刺画に特化した新聞に過ぎない。
「イスラム教がフランスでは少数派で、しかも社会的に弱者であるとわかっていながら風刺するのは"表現の自由の権利"なのだろうか?あのデモには嘘の側面があり、"イスラム嫌い"の表れなのだ。」

不平等の拡大
不平等の拡大は世界的な問題。先進国共通の問題だ。」
「その原因は教育の進展の中にある。フランス、アメリカ、日本で識字率が上がり、人々に平等な初等教育が徹底された。」
「(かつて)高等教育を受ける人は殆どいなかった。その後、各国で中等・高等教育が急速に広まり、人々は『再階層化』された。子供の成功は『教育のレベル』によって決まるようになった。」
「つまり(社会は)不平等を前提に物事を考えるようになった。」

EUの今後
(氏の第4の予言→)ヨーロッパの今後20年間はEUの分散・分解の歴史になるだろう。ヨーロッパ(EU)は機能しなくなっているが、『ユーロ』は存在している。」
「私が恐れていることは、こうした状況で『移民・難民の問題』『イスラムの問題』が、ヨーロッパの指導者らに利用されるということだ。」
「フランスについて言えば、『移民とイスラム』の問題が本来あるべき政策の『代替物』として使われるのではないか?」
「これはハンチントンの言う『文明の衝突』ではなく、西欧社会の麻痺の状態だ。自らの政策の失敗に責任を取らない指導者の麻痺状態。彼ら(指導者)は本来の問題を直視せず、『イスラムの問題』としてすり替え、逃げている。それはもちろん文明の衝突ではないが、非常に非常に危険だ。」
「このような現象は反ユダヤ主義が高まった時期に見られたものだ。ヨーロッパの歴史における最も暗い時代を思い起こさせる。」

打開策
「先進国が危機から脱する出口が見えない状況は、リーダーが凡庸というだけでなく、社会の中間層・中核を成す人々の、自分さえ良ければいいという"エゴイスム"、自己満足の強い"ナルシズム"から生まれているそこに問題がある。」
「この状況を本当に打開するには、今さらのように『善き人生とはどういうものか』という根本的で倫理的な問題について考えるべき。」
「そして各国があるべき姿を模索して行かなければならない。」

日本が進むべき道
「日本の最高の長所は日本の問題点であると言えるだろう。日本の問題は(長所でもある)完璧を求めることに固執しすぎることだと思う。」
「日本が出生率を上げるために、女性のより自由な地位を認めるためには、不完璧さ、無秩序さを受け入れるということを学ぶべきだ。」
「子供を持つこと、移民を受け入れること、移民の子供を受け入れることは、無秩序をもたらす。日本は最低限の無秩序を受け入れることを学ぶべきだと思う。」

 
 エマニュエル・トッド氏の言葉は、現在の自分の心に強烈に響いた(不平等の拡大の項は、著書を読んでみないことには、その真意が測りかねるけれども)

 「エゴイズムやナルシズムは捨てるべし」「善き人生とはどういうものかについて、今一度真剣に考えるべし」は、今年早々の"頂門の一針"になりそうだ。平たく言えば、「袖振り合うも他生の縁」で、出会う人には出来るだけ穏やかに友好的に接し、助けの必要な人には躊躇うことなく手を差し伸べること。社会を形作るひとりの人間として、より良い社会を築くために、自分はどうあるべきか今一度ちゃんと考えること!

 新著の『シャルリとは誰か』、読んでみようかな?


2015/12/26


育ちの良さを感じさせる人がいる。
自分の身近に少なくとも数人はいる。

その人の人柄で一番特徴的なのは、
何時お会いしても笑みを絶やさないこと。
情緒が安定していて、感情の起伏が穏やかと言うことだ。

だから一緒にいて心安い。


また、常に誰に対しても、何に対しても、公正な態度を崩さない。
人の悪口にも安易に同調しない。
たとえ親しい間柄であっても、
相手に何らかの非があれば、その場でやんわりと正す。
しかし、けっして責めたりはしない。
とにかく諭し上手である。

だから、諭されれば素直に従わざるを得ない。反論の余地がないのだ。
その聡明さで、一緒にいて"気づき"を与えられることも多い。


そして、誰に対しても丁重に接し、親切である。何か頼まれれば協力も惜しまない。
人の長所を見出す励まし上手でもある。

だから、尊敬せずにはおれない。自分もかくありたいと思う。


育ちの良さと言えば、生まれた家の"格"で決まると思われがちだが、
育ちの良さは、生まれた"家柄の良さ"だけで決まるものでもないようである。

"立場"が人を形作るのはもちろんだが、
誰もが一目置くような家柄の出でなくとも、
賢明で、聡明な親のもとで育てば、
誰でも育ちの良さの特質を獲得できる可能性はあるようである。

そもそも家柄の良さは、"賢明さ"の代々に渡る継承が作り出すものであり、
各代の次世代に対するしっかりとした"教育"の賜物と言えるのかもしれない。

残念ながら生まれる"家"も"親"も選べないが、
育ちの良い人から、人としての在り方は学ぶことができる。
育ちの良い人と出会うチャンスは自分で作ることができる。


日々易きに流れることなく、目標を持って生きること。
日々自らの言動を省みること。
そして、日々改善の努力を惜しまないこと。

その先に、心惹かれる、自分の手本となる
素晴らしい人との出会いがあると信じて…

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     パリのロダン美術館の広大な庭。澄んだ青空に浮かぶ白い雲が印象的。

2015/12/25

充足感と不足感と  はなこ的考察―良いこと探し

 最近つくづく思うことは、

 これまでの"人生の垢"をすべてそぎ落としたとして、今の自分に何が残るか、と言うこと。
 自分がこれまでの人生で一番求めていたのは何か、と言うこと。
 
 そして、"失敗"は自分に"気づき"を与える貴重な機会である、と言うこと。

 すべてをそぎ落として後に残ったものが、自分にとって最も大切なもの、かけがえのないものなのではないか?

 それは自分が人生で一番求めていたものなのかもしれないし、それがもし一番求めていたものであったなら、自分は今、十分幸福だと言えるのではないか?だとしたら、そのことに感謝しないとね。

 もちろん、人生で求めるものは人それぞれだ。

 おそらく、それらは大人になる前に自分にはなかったもの?自分が持っていなかったもの?だから人の生き方は、どんな子供時代を過ごしたかで決まるのではないかと思うのだけれど、実際どうなんだろう?


 一方、シルヴァスタインが『ぼくを探しに』で描いたのは、自分の欠けた部分を探し求め続ける人生への疑問。

 「ぼくを探しに」は"完璧"であることの不自由さや不具合を描き、"完璧"であるがゆえに人生で失うものの大きさを静かに訴えかけている。

 完璧でないからこその人生の味わい深さに目を見開かせ、完璧でない自分を肯定し、その人生を慈しむよう促している。

 ただし、『ぼくを探しに』でぼくが探し求めていたのは、おそらく私の文脈では"人生の垢"に当たるもの。それは人(世間)から自分がどう思われているか(自分の言動が、他人には予想外の受けとめ方をされていることも多い)とか、世間の自分(の能力)への評価とか、それらが自分にもたらしたもの。

 人生も後半になると、何だかそうしたものがどうでも良くなって、それらをすべてそぎ落として後に自分に残ったものさえあれば、それで十分ではないかとも思えて来た。

 とは言え、人生で自分の思い通りに行かないことにぶち当たると、自分には何か欠けているものがあるのではないか、自分はこのままで良いのか、と考えさせられるのもまた事実。

 
 かくして充足感と不足感の繰り返しで、私の人生は過ぎて行く。

2015/12/8

赤ちゃんの泣き声は明るい未来への道筋  はなこ的考察―良いこと探し

 昨日、バスの中で1歳前後の赤ちゃんがずっと泣き続けていました。どうやらバスに乗っているのが不快らしく、手足をバタつかせて全身で不快感を表していました。

 まだ通勤時間帯にギリギリ入っている頃だったので、バスの車内は結構混雑していました。若いお母さんは、何度あやしても泣き止まない赤ちゃんに困っているようでした。朝から心身共に疲れているのか、中にはその母子の周辺で露骨に不快な表情を浮かべている人もいました。

 しかし、最近息子が独り立ちして、折に触れて息子が幼かった頃の思い出が蘇る私にとってみれば、そんな赤ちゃんの泣き声さえ、懐かしさを呼び覚ます愛おしさに溢れています。

 バスはものの10分ほどで駅に着いたので、私はお母さんに声をかけて降車時にベビーカーを持ってあげました。この時期のお母さんは手荷物も多いですからね。

 バスから降りた途端、赤ちゃんはさっきまでの大号泣がピタリと止んで、母子共に安堵の表情を浮かべました。赤ちゃんはお母さんに促されて、私に笑顔で「バイバイ」と手を振る仕草も。よく見ると赤ちゃんの小さな鼻から鼻水が…風邪による鼻づまりも、赤ちゃんの不快感に拍車をかけていたのかもしれません。

 「今泣いた子がもう笑った」と言う表現が正にピッタリな赤ちゃんの目まぐるしい感情の動きに、思わず笑ってしまいました。ここで笑える自分に、実は幸せを感じてもいます。

 赤ちゃんの泣き声さえ聞こえて来ない社会の暗たんたる未来を想像したら、いっときの赤ちゃんの泣き声なんて何のその。

 近年、子供嫌いの若者が増えているのは、成長期に赤ちゃんとの接点が少ないせいではないかとの反省を踏まえて、欧米諸国のようにティーンエイジャーにベビーシッターをさせようとの動きがある、と最近の報道で耳にしました。良いことだと思います。

 これは老人に対しても言えることで、核家族化が進んで各世代が分断された形の現代社会では、世代間のコミュニケーションを密にすることで、相互理解を深める必要があるのではないでしょうか?

 乳幼児保育施設と老人施設を併設する。幼稚園と中学高校を併設する。まずはそういったハードウエアの面から、世代間交流の場を設けて行くと良いのかもしれません。

 自分が愛して止まないこの日本と言う国が、人が生まれてから死ぬまで、その存在に尊厳を認めてもらえる社会、誰もが「生まれて良かった」「自分は生きていて良いんだ」と思える社会であって欲しいと思います。

2015/9/8


 最近、「親」と言う言葉が常に頭から離れない。

 こんなに不完全な人間ながらも自分は一端の「親」であるし、
 中学生が被害者となった夏休み期間中の痛ましい事件でも、
 世間では「親」のことが取り沙汰されたし、
 つい最近見たテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』でも、
 今は亡き不肖の父「親」に、
 遺品を巡って未だに振り回される女性の姿を
 目の当たりにしたせいだろうか?

件の女性、小学生の時に新聞配達で得たわずかばかりの収入も、父親の借金の返済に充てられた言う。今回、「これは価値がある」との生前の父の言葉を信じて形見の陶器を出品したものの、結局、鑑定結果は二束三文で、最後の最後まで不肖の父に振り回された形だ。鑑定結果を知った時の、笑うに笑えない彼女の切ない表情が印象的だった。

 「親」とは一体、何なのだろう?
 「親」とは、子どもにとって、どんな存在なのだろう?
 
 「親」になるのに「資格」試験があるわけでもない。
 立派な人が(選ばれて)「親」になるわけでもない。
 「親」になったからと言って、
 皆が皆、即「親」としての自覚を持てるわけでもない。
 かと言って、経験を積めば、誰でも立派な「親」になれる保証もない。
 しかも、「親」だからと言って、
 誰もが無条件に我が子に愛情を注げるわけでもない。

 この世の「親」と言う立場にある人々のどれだけが、
 「親」としての「役割」「務め」を理解しているのだろう?
 「親」としての自分に悩んでいるのだろう?
 「親」としての自分に「自信」や「誇り」を持っているのだろう? 
 「親」としての「喜び」を感じているのだろう?
 「親」として満たされているのだろう?
 
 おそらく、少なくとも子どもの立場から見て、この世に完璧な親(←注・親として完璧、とは言っていない)など存在しないのだろう。自分を産み、育ててくれた親は親として、また、ひとりの人間としても、何かしら欠点を抱えているものだと思う。

 その親との生まれた直後から始まる関わりが、否応なく人としての基本を形作る。その性格や価値観や他者との関わり方(他者との距離の置き方)、そして学習能力(机上の学問だけでなく生活全般における新たな事柄を、積極的に学ぼうとする意欲と習得する能力)を育てる。

 だから親自身に人としての能力が十分に備わっていないと、その親に育てられた子どもは、幼児期はともかく他者との関わりが一気に増える就学期に入ると、さまざまな面で苦労することになる。人並みの基本的な能力が身についていないからだ。

 そうした頼りない親のもとに生まれた子どもには、たったひとりでもいいから親以外の誰か大人(或いは年長の子ども。年長の兄姉に助けられた子どもも古今東西に多くいる)が、子どもの良き相談相手として身近にいて欲しいものだ。

 幸いなことに、神の配慮なのか、生存本能とも言うべきものか、子どもには生まれながらに備わった"自ら育つ能力"もあって、成長するに伴い、自らの欠損部分を自ら学習して補うことも出来るのだ。さらに不徳の親を反面教師に、自律的で思慮深い人間に育つ子どももいる。

 おそらく、そうした子どもには、"自ら育つ能力"にスィッチを入れてくれる、その子どもの為に親身になってくれる誰かが身近にいるのではないだろうか?今、こうしている間にも、世界のどこかで、親以外の誰かの愛情が、助けの必要な子どもにスィッチを入れてくれているのかもしれない。

 今、巷には「毒親」なる言葉があり、親の呪縛に大人になってもなお苦しむ人が手記も出版している。特に、ある分野の成功者として世間に知られた人物がそんな本を出しているのだから、弥が上にも注目を集める。

 しかし、その前提には「親はかくあるべき」と言う、親を徒に理想化した「親神話」が存在しているのではないか?所詮、親とて、ひとりの人間である。完璧であるはずがない。何かしら欠点を抱えて、自分のふがいなさに生真面目に苦悩しながら、或いは辟易しながらもどうすることもできずに、生きている人間に過ぎない。

 思うに、大人になるということは、親から自立するということは、そうした親を絶対視していた子ども時代から、不完全なひとりの人間として相対化して見られるようになると言うことではないだろうか?

 自分が親になって初めて自分の親の苦労を知ると言うのも、つまりはそういうことなのだと思う。けっして完璧とは言えない自分が曲がりなりにも人の親になり、今、子育てに四苦八苦している。その現状から、自分の親もかつてはそうだったのかもしれないと理解して、親の愛情に感謝する。親に対する思いは違っても、懸命に子育てした親のもとで育った人もまた、非力なひとりの人間として親を見ている。

 冒頭に登場した「何でも鑑定団」出演の女性にしても、最後の最後までどうしようもない父親だったのかもしれないが、その父親のもとで育った彼女が、今や大勢の人前に堂々と出られるような大人になっている(私は人を見る時に、生まれながらの造作より、生き様が映し出された人相を見る。彼女は穏やかな人相をしていて、好印象だった)。ひとつでも何かやましいことがあれば、こうした公の場には出られないはずだ。これは、ダメ親を克服した子どものひとつの姿である。彼女の今の在り方こそ、かつての親への反旗である。実は、世の中には、そんな人が大勢いる。

 自分の現在のふがいなさを、親のせいにしてはいけないのである。いい大人になってまで親への恨みつらみを心に抱えていては、いつまでも親から自立したとは言えないのである。それは自ら進んで親の呪縛に囚われていると言って良いのかもしれない。


 親は親で、親の最大の仕事は子どもを自立させることと弁えて、成人したら心を鬼にして突き放すぐらいの気構えがないと、子どもはいつまで経っても精神的にも経済的にも自立できないし、いい大人が罪を犯した時でさえ親の育て方が悪い、という世間一般の見方も変わらないだろう。



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