2014/11/22

『インターステラー』(原題:INTERSTELLAR、2014、米国)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 昨夜、「公開前夜祭」と銘打った上映後トークショー付の試写会を、日比谷のワーナーブラザーズ試写会室で見て来た。

 言わずと知れた鬼才?クリストファー・ノーラン監督の最新作。

 タイトルの"INTERSTELLAR"とは、「星と星の間の、星間の」と言う意味の形容詞。名詞じゃないんだなあ…その後に続く言葉、名詞を、作品を見終わった後に、各々が、それぞれの解釈で付ければ良いのだろうか?

 上映時間は169分と、最近見た『6才のボクが、大人になるまで』に負けず劣らずの長尺だったが、見ている最中は、先の読めない展開と、次から次へと繰り出される壮大で美しい映像に釘付けで、長さは全然気にならなかった。正に「相対性理論」だな、これは同じ1時間でも、つまらない授業は長く感じられて、大好きな彼や彼女と過ごす時間は短い、と言う(笑)。

 時代設定は近未来。いよいよ気候変動などで地上の砂漠化が進み、農作物の収穫もままならない状況下で、残された人類は存亡の危機に立たされている。食糧難が最大の問題と化した世界では、既に軍隊も存在しない。マシュー・マコノヒー演じる主人公も元はNASAのパイロットだったが、現在は砂嵐吹きすさぶ自身の農場で、義父と共にトウモロコシを育てている。

 そんな中、娘のマーフ(マーフィーの愛称)が、自室の異変に気付く。それは、その後の壮大な宇宙の旅に繋がる伏線だった…


 『2001年宇宙の旅』の系譜に連なる物語だ。劇中に登場するロボットTARSは、その形状からして『2001年〜』の重要なモチーフであった「モノリス」へのオマージュらしい。最新のブラックホール理論に基づいて語られる宇宙の概念は興味深く、宇宙空間の映像表現も素晴らしい。本作で、「5次元空間」なるものも初めて見た。理論が高度過ぎるのか、私がボンクラ過ぎるのか、話の内容について行けているような、いないような曖昧さを残しながらも、そこに映画音楽の名手ハンス・ジマーの仰々しいまでの壮大な音楽が加わって、否応なく作品の世界にどっぷりハマってしまう。キューブリック作品と異なるのは、親子愛が物語の中心軸にあって、全編を通して温かみが感じられるところだろうか。

 そもそも『STAR WARS』シリーズと『ブレードランナー』を見て映画監督を志したと言うノーラン監督が放つSFスペクタクル。何れも好きな人間なら、本作を見て面白くないわけがない。あまり内容に踏み込むとネタばれになってしまうので、ここでは詳しく書けないのがもどかしいところ。

 本作はプロデュースを監督の妻が、脚本を実弟が手がけている。製作費は実に150億円と桁外れで、ノーラン・ファミリー渾身の一作とも言って良いだろう。上映後のトーク・イベントでは、元々スピルバーグ監督が撮ろうとしていたのを、ノーラン監督が横取りしたと言っていたが、本当なのだろうか?「マイケル・ベイでもなく、ローランド・エメリッヒでもなく、クリストファー・ノーランが描いたSF超大作」(トークでも、そこのところが強調されていた・笑)〜それだけでも、知的興奮を覚えるものだ。

 とにかく今年の映画の掉尾を飾る真打ちの登場であるのは間違いない!

 その作品世界を、スケール感を、是非、映画館の大きなスクリーンと迫力ある音響システムで、体感して欲しい! 


ワーナーブラザーズ試写会室のこと】

 JR新橋駅にほど近い、地下鉄の内幸町駅からはすぐの、日比谷セントラルビル1階にある、ワーナーブラザーズ・ジャパン所有の試写室。試写室と言うだけあって、座席は50席ほどのコンパクトな作り。スタジアム形式で傾斜も付いているので比較的見易い。

 昨夜は、開場時間を過ぎて来た人は、既存のシートに座れずにギリギリまで右往左往していた。一応、急遽折り畳みイスを両サイドの通路に設置して対応していた。私は開場30分前に現地に着いたが、既に15人ほど並んでいた。一番前の席は直前のスクリーンを見上げる体勢になるので、できれば避けたいところ。利用する機会があるのなら、早めに現地に行った方が無難だろう。

2014/11/15

『6才のボクが、大人になるまで』(原題:BOYHOOD、米、2014)  映画(今年公開の映画を中心に)

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今年見た中でも、個人的には最高と思える作品のひとつ。

6才の少年とその家族の、その後の12年間の軌跡を描いた作品である。

異色なのは、主要キャストを変えずに、
12年間に渡って、ひとつの物語を紡いだこと。

それはつまり、キャストにとっての12年間が、
約3時間の作品の中に凝縮されているとも言える。

サイド・ストーリーとして、メイキング映像も見てみたいものだ。

全編を通じて流れる楽曲のセンスも良く、
各々のシーンをより一層印象深いものにしている。

DVD化されたら、是非とも手元に置きたい作品である。



 当初は息子も誘って家族で見るつもりだったが、息子は興味がないと言うので、夫婦だけで見た。本作は、ひとつの家族の12年の記録と言う形が、私達夫婦にとっても思いがけず、これまでの子育てを振り返る契機となり、感慨深い作品となった。

【あらすじ】

 メイソン6才。母と姉の3人でテキサス州の小さな街で暮らしている。"自由人"の父メイソン Sr(イーサン・ホーク)は、彼が4才の時、母と離婚して以来、1年半も行方知れず。若くして母親となったメイソンの母オリヴィア(パトリシア・アークエット)は、「中途半端な学歴のままでは今後十分な収入も期待できず、母子3人の生活が立ち行かなくなる」と、一念発起して大学に戻ることを決め、母子は祖母の住むヒューストンへと転居する。

クリックすると元のサイズで表示します そこへ、ある日突然舞い戻って来た父。風来坊の父だが、姉もメイソンも父のことは大好きだ。両親の関係はもう戻らないが、親子関係に変わりはない。以来、姉弟は時々、別れた父と会うようになる。その後、母は大学で二番目の夫と出会い、その連れ子の姉弟も加わって6人で暮らすことになるのだが…

 メイソンは少年から大人へと成長する中で、日々、さまざまなことを経験して行く。その間、家族にもさまざまな変化が訪れる。


【感想】

 映画史上初の試みで、12年間に渡り、両親姉弟の4人の主要キャストを変えずに、ひとつの家族の物語を綴った本作。

 子役の夏休みの期間を利用して、年に3〜4日間を撮影に充てたと言う。しかし、時の流れが見事なまでに自然に描かれていて、エピソードの連なりが姉弟の成長と両親の加齢を違和感なく映し出している。さらにオーデションで見出した6才の子役(エラー・コルトレーン)の成長に合わせて、その都度、役柄の性格付けも行うなど、想像以上に丁寧に作り込まれた作品のようである。

 コルトレーン青年にとっても、自身の成長が、美しい映像・音楽と共に物語の中に記録された本作は、かけがえのない宝物となったのではないだろうか?

 また、子ども達の成長とリアルタイムで撮影が行われた為、その時々のトピック(例:ハリー・ポッターブーム等)も巧みに作品の中にエピソードとして取り込まれ、この12年間の世相の記録映像としても興味深いものがある。

 さらに、本作は米国社会の現状をありのままに活写し、その後追いを続ける日本社会にも多くの示唆を与えるものとなっている。

 例えば「ステップ・ファミリー」の問題である。ステップ・ファミリーとは、子持ちの男女が離婚後、別の相手と再婚したことで新たに成立した家族の形である。婚姻によって生じた血縁のない親子関係、兄弟姉妹関係は、「血縁」と言う決定的な絆がないだけに、その関係作りには誰もが悩み、苦労するようである。

 本作の家族も、両親の離婚と再婚により、複雑な家族関係となっている。このことが、多感な少年期を過ごすメイソンや姉サマンサ(ローレライ・リンクレーター)の心に、時に複雑な影を落とすものの、本作はそうした問題点だけに留まらず、さらに従来の血縁関係を越えた新たな家族の在り方も描いて見せて印象的だ。

 その下地として、本作でも敬虔なクリスチャンの「隣人愛」が見え隠れしているのだが(人種を問わない養子縁組も、この隣人愛に基づくものなのだろう)、同様の問題に直面した時に、強固な宗教的バックボーンもなく「血縁」に拘るだけの日本人に、果たして米国人のような柔軟な着地ができるのか、或いは日本人なりに別の解決方法が見出せるのか、気になるところではある。

 次いで、印象的だったのは、米国のホーム・パーティ文化である。本作では、家庭で行われるパーティの様子が、何度となく描かれていた。バースデー・パーティに始まり、ティーンエージャーが親の不在中に友人を招く、教師が教え子を自宅に招く、そして、我が子の高校卒業を祝うパーティ。その何れもが、気取りなく親しい人を招いて行われている。

 私も海外駐在中に現地の日本人社会の慣習に倣って(とかく娯楽の乏しいイスラム圏だったせいか、招き招かれるホーム・パーティが、現地の日本人にとっては一種の娯楽であった)、何度かホーム・パーティを開いたが、ホステス役がどうも苦手な上にパーティ料理のレパートリーも少ない為、毎回、四苦八苦した思い出だけが残っている。付け焼き刃で、自信のなさもあって、どうしても「きちんとゲストをおもてなししなければ」と必要以上に身構えてしまう自分がいたようだ。

 それだけに劇中のホステスの自然体で和やかな雰囲気が羨ましかった。結局、パーティのホステス(ホスト)にしてもゲストにしても、幼い頃から何度も経験を積み重ね、体得して行く文化のひとつなのだろう。

 最後に改めて気付かされたのが、米国の家庭における我が子の高校卒業の「人生の節目としての重み」である。

 日本では大学や専門学校の学費も親が負担するのが殆どという状況の中、20才の成人式でさえ、高額な晴れ着を親に準備して貰うなど、親におんぶに抱っこの状態で、大半の子供の実質的な巣立ちは、大学や専門学校を卒業した時点だと思う。しかも就職後も、結婚するまでは、親元に留まる子供が少なくない。

 一方、米国では、一部の富裕層を除けば、大半の学生は、大学の学費を高校時代のバイトや学生ローンや奨学金で賄い、寮生活でも親からの仕送りはなかったりするなど、高校卒業時点で、親からの経済的自立を果たしている。高校卒業を機に、親元を離れる子供も多い。だからこそ、親にとっても、子供にとっても、高校卒業は特別な意味を持っているのだろう。男女ペアで参加するプロムも、重要な巣立ちの儀式として位置づけられているようだ。

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 私も、来年にはひとり息子が大学院を修了し、就職を機に家を出る。それだけに、スクリーンの中のパトリシア・アークエット演じる母オリヴィアの嬉しさと寂しさが綯い交ぜとなった心情が、胸に痛いほど伝わって来た。そして、「オリヴィアに比べたら、私なんて、息子は24才まで自宅で一緒に過ごしてくれたんだから、6年も余計に過ごしてくれたんだから、寂しがってちゃ、いくら何でも子離れしなさ過ぎよね」と自分自身を慰めたのだった(親バカモード全開)。 

 リチャード・リンクレイター監督は、インタビューで本作について、以下のように述べている。

「僕にとって、この映画の主役は『時間』でもある。我々がどのように時間と付き合っているか、自分達の人生をどう感じているのか、誰にとっても考えさせられる何かが、この作品にはあると思う。みんな大人になり、成長を経験しているのだから…」

 人と人との心理的距離感、それに少なからず影響を及ぼす、人生における「時間の流れ」に、一貫して拘り続けて来た監督らしい言である。


 時間は過ぎて行く。時間は誰にも止められない。だからこそ、今、この時は尊い。

 17世紀のオランダでも、同様の考えのもと、ヴァニタス画が描かれた。過ぎゆく時間との付き合い方を考えさせると言う意味では、この映画は、"現代のヴァニタス画"とも言えなくはないか?

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【パトリシア・アークエットのこと】

 テレビドラマ『アリソン・デュボア』に長年親しんで来た者としては、パトリシアが虚構の世界で長年に渡って、"デュボア家"以外にも"家族"を持ち続けていたことに、正直驚いた。ドラマではシーズン毎に髪形が変化していたが、本作でも同様であり、不思議な感慨を覚えた。と同時に、スクリーンの中でまたもや見せつけられた、彼女の母親役としての希有な存在感に圧倒された。本当に巧い女優だと思う。


2014/11/8

『小野寺の弟 小野寺の姉』(2014、日本)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 本作を公開中のチネッッタでは、パンフレットが早々と売り切れる程の人気ぶり。私も映画館で見た予告編につられて見てみた。

 元々、姉弟同キャストで舞台劇だったのを、違う筋書きで映画化した作品らしい。両親を早くに亡くした年の離れた姉弟が、互いを思いやりながら、慎ましく暮らす様子を描いている。姉弟は古びた佇まいの家に住み、二人を取り巻く周囲の人々は温かい。日本が昔から得意とする人情劇の舞台設定である。映画は姉弟それぞれに恋愛エピソードを折り込み、それぞれのキャラクターやふたりの関係性を浮き彫りにする。

 度々登場する食卓シーンに、二人の絆の深さが窺える。そこには何気ない日常を、丁寧に穏やかに暮らす、ひとつの家族の姿がある。

 しかし、見終わった後に特に感動したとか、何かが心に突き刺さったといったような感慨はなかった。意外に淡々とした思いで席を立った。だから、この作品の何が、人々を惹きつけているのだろうと疑問に思い、ヤフー映画のレビューを見てみた。すると、点数評価(点数は高く、高評価である)からは見えて来ない、本作に対する個々の(人によっては複雑な)思いが見えて来た。

 本作は、見る人の、それまでの幸福度を測るリトマス試験紙のようである。幸福な人生を歩んで来た人は、本作に描かれた世界観を素直に感受して、概ね好印象を持った一方で、自身が姉弟と似たような境遇にある(あった)人、身近にそういう人々を見て来た人は、自身の経験を改めて思い出し、「映画で描かれている世界は、現実とはかけ離れたファンタジーに過ぎない」と感じて、不快感さえ覚えているようだ。現実の人生は厳しく、映画のように"ほんわか""ほっこり"とは行かない、と言うことなのだろう。特に本作に対する怒りをも含んだ拒絶反応は、作り手にも予想外だったのではないか?

 本作を見て心地よさを感じた人の多くは、これまでが十分に恵まれた人生だったのだろう。そして、そういう人が大多数だからこそ、本作には高評価がついており(もちろん、全ての作品に、このパターンが当て嵌まると言うわけではない)、逆にそのことが一部の人々の拒絶感に繋がってもいるのだろう。

 映画も絵画や彫刻と同様に、見る人自身が持つバックグラウンドによって、着眼点も、印象も、解釈も(知識・教養の多寡により理解度も)異なって来るのは当然で、それが図らずも社会を構成する人間の多様性を端的に現している。小さな島国に"ほぼ"単一民族がひしめきあって暮らす日本でさえ、そうである。そのことを踏まえて、社会で異なる立場の人間同士が互いに努力して歩み寄り、いかに相互理解を深めるかが、「誰にとっても生き易い社会」の実現に繋がって行くのだろうが、それが難しいからこその、身近なところでの「ご近所トラブル」であったり、もっと大きな枠でのマジョリティに対するマイノリティの生き辛さなのだろう。

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2014/11/3

『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(原題:THE HUNDRED-FOOT JOURNEY、印/UAE/米、2014)  映画(今年公開の映画を中心に)

         大女優ヘレン・ミレンの女っぷりは相変わらず…
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 とあるフランスの田舎町で、
 通りを挟んで繰り広げられるフランスとインドの料理対決。

 異文化のぶつかり合いの先には、
 意外にも、
 「普遍的な価値観の共有」と言う、
 不和を解く鍵があった。
 

 
 期待した以上に素晴らしい作品で、胸を打たれた。「料理をいただく」と言うことの意味や、「家族の絆」と「志を同じくする人々との繋がり」について、そして異文化とどう向き合うべきなのか、改めて考えさせられた。

  
 さて、世界各地で必ずと言って良いほど目にするのは、中華料理店とインド料理店である。

 私がかつて駐在した中東の都市でも、残念ながら日本料理店はひとつもなかったのだが、インド料理店は確かにあったし、中華料理店に至っては、さほど大きくない街に北京、広東、四川、(台湾)等、中国各地の味を供する店が7つもあった。

 かつて母国に見切りをつけて新天地を求めた中国人は、何はなくとも中華鍋だけは携えて国を離れ、移住先では、現地の食材を使って中華料理店(それから派生して食料品店)を開くか、多額の資本と熟練の技術を必要としないクリーニング店を営んで、強かに現地社会に定着して行った、と聞いたことがある。

 今回、フランスの田舎町で、(地元民から見れば)唐突にインド料理店(元よりフランスと関わりの深かったヴェトナムでも中国でもなく、インドであるところがミソ?)を始めた一家も、同様に新天地を求めてインドからヨーロッパへと向かい、ロンドンを経て、当地へと辿り着いたのだった。山間の、異国からの移住者も殆どいない(であろう?)静かな街の外れに、突如として大音量で響き渡る異国の音楽。これには誰であろうと最初は驚き、違和感を覚えるだろう。

クリックすると元のサイズで表示します 迎え撃つ地元のミシュラン一つ星を誇る老舗レストランも黙ってはいない。オーナー自ら嫌がらせにも近い対抗策に打って出る。道路を挟んで向かい合う両者の対立は、一部で人種偏見も相俟って次第にエスカレートして行く(傍から見れば、本当に大人げない)

 しかし、国は違えど、そこは同業者。"舌をうならせる美味しさ"を求める気持ちは同じである。頭より先に、その舌は相手を受け入れるのだった…


 
 かつて、キーラ・ナイトレイ出演で『ベッカムに恋して(原題:Bend it like Beckham)』 と言う映画があった。この作品も、移民家族の間に横たわる年配層と若年層のジェネレーション・ギャップを描いて、印象的であった。

 本作でも、頑迷な親世代の葛藤をよそに、若者世代はその柔らかな感性で、人種間、国家間の垣根を軽々と乗り越えて行く。

 ただし、同業者同士の恋はそう簡単には成就せず、最後まで見る者をヤキモキさせる。老舗レストランでひたすら上を目指して努力して来た女性シェフ、マルグリットの抑えきれない対抗心は、密かに好意を抱くインド人青年ハッサンの類い希なる才能への嫉妬も孕んで、恋の妨げとなっているようだ。

 "GIFT"の才能は、血の滲むような努力の上に築かれた成果を易々と越えてしまうのだ(『アマデウス』然り)。マルグリットがしばしば見せる、ひとりの女性としての喜びとプロのシェフとしての悔しさがない交ぜになった複雑な表情は、凡庸な(とは言え、彼女もかなり優秀なシェフのはず)人間の悲哀を痛切に表現して、見る者の胸を衝く。

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 その恋と仕事の間で揺れる繊細な女心を、カナダ・モントリオール出身の女優シャルロット・ルボンが、その円らな瞳の魅力を最大限に利用して表現しているのが印象的だ (彼女は、『イブ・サンローラン』でサンローラン最初のミューズとしてモデル役で出演していたのが初見)

 そして、英国が誇る大女優ヘレン・ミレンは言うに及ばず、初見が殆どのインド人主要キャストも、それぞれが魅力的だ。

 ヘレン・ミレンは日本の吉永小百合とほぼ同世代。面立ちは、その特徴的な高い鼻から、岩下志麻に似ていると個人的には思っている。カトリーヌ・ドヌーヴほどの美女ではないが、年齢相応の役柄を堂々と演じて、年齢に抗うばかりが女優の生き方ではないと自ら体現している希有な女優とお見受けする(同様に、英国はジュディ・ディンチと言い、エマ・トンプソンと言い、お国柄だろうか?)

 そう言えば、主演のマダム・マロリー役は、フランスが舞台の作品で、年齢的にもドヌーヴが演じでもおかしくない役柄なのに、そこを敢えて英国人であるヘレン・ミレンが演じたのはどうしてだろう?単に舞台設定をフランスにしただけで、基本的に英語圏の映画会社制作だからだろうか?それだけが理由でもないような気がする。もちろん、彼女が演じて大正解!である。

 インド人一家の次男で天才シェフ、ハッサンを演じるマニシュ・ダヤルは、浅黒い肌に端正な顔立ち。面差しが角度によっては日本の山田孝之を彷彿とさせる。資料を見てもこれといった代表作は見あたらず、本作が本格的な海外作品デビューなのだろうか?今後も目が離せない俳優になりそうだ。

クリックすると元のサイズで表示します パパ役のオム・プリはインド映画界で長年活躍したベテラン俳優で、彼の出演作リストを見る限り、私は過去に何度も彼を目にして来たはずなのだが、申し訳ないことに全然記憶になかった。

 アバタ肌に大きな鼻が特徴的で、けっして美男とは言えないが、今回は威厳あるインド人一家の家長を表情豊かに、時にはユーモラスに演じて、存在感を見せつけている。彼が演じるパパの人間的魅力で、当初対立していたヘレン・ミレン演じるマダム・マロリーとの心の距離を徐々に縮めて行く様子も、本作の見どころのひとつだろうか。

 他にも本作では印象に残ることが幾つかあった。

 まず、レストラン経営者(シェフも含む)の、神への信仰にも似た「ミシュラン信仰」。傍らに未開封のシャンパン一本を用意し、電話機の前でミシュランからの星評価の報を固唾を飲んで待つ、上品なスーツに身を包んだマダム・マロリー。その仰々しさにまず驚いた。一レストラン・ガイドブックが付ける星の数に、老舗の一流レストランがそこまで一喜一憂するさまが理解できず、些か滑稽にさえ思えた。しかし、そもそも人生でそのような場に立ち会ったことのない人間には、そこに身を置いた人間の思いなど分かるはずもないし、何も言う資格などないのかもしれない。

 次いで、フランスの「地産地消を尊ぶ精神」に、何もかもが東京に一極集中する日本に暮らす私はハッとさせられた。日本では産地最高の食材は、その殆どが東京の築地市場に集まるようになっているのではないか?今や、産地にわざわざ足を運ばなければ口にできない食材の方が少ないのではないだろうか?東京の「一都市におけるミシュラン星獲得レストラン」の尋常ない多さも、一極集中のなせる業なのだろう。

 一方、本作では当然のように、時の大臣が山間のレストランまで足を運び、一流のシェフが地元で採れたばかりの新鮮な食材を使って作った料理を食べていた。このことは、作品の冒頭で、ハッサンに料理を指南する母親の「料理とは、食材の命をいただくこと」と言う言葉を思い起こさせた。これはハッサンの胸に深く刻まれた、料理に対する思いそのものでもある。

 さらに、少し気になったのは、両者が対抗心剥きだしで調理に励んでいた時の料理は、果たして本当に美味しかったのだろうか、と言うことである。料理は、作り手の気持ちがそのまま味に反映されるものであると、私は思う。

 そして、インド人の海外進出を後押ししているのが、彼らの英語力であること。インドは連邦制で、州ごとに定めた公用語だけでも22もある多言語国家であり、連邦制国家の成立時、多数派言語であるヒンディー語のみを連邦全体の公用語とすることに反対する声も大きかった国内事情から、英語も公用語として認められた歴史的経緯がある。

 その為、インド人はある程度の教育を受けた層ならば、英語が当たり前のようにしゃべれる。それが海外進出において、彼らの強みになっている。最近はIT技術者としての来日が増えているらしく、私の地元でも日常的にインド人を見かけるようになった。比較的英語が苦手だと言われる日本人も英語力が身につけば、日本を離れて海外に活路を求めて行くケースが、今後は増えて行くのではないだろうか?たかが英語、されど英語である。

 最後に、本作はインド映画と紛うばかりに、全編を通して流れるのはインド人作曲家によるインド・テイストな音楽であった。しかし、本作はあくまでもインド・UAE・米国資本で制作され、スウェーデン人のラッセ・ハルストレム監督が演出を手がけ、あのスティーブ・スピルバーグや有名女性司会者オプラ・ウィンフリーが制作に関与した、ハリウッド発の"多国籍連合"映画なのだ。

 私も別記事で言及しているように、今年はインド映画が熱い。それは、インド映画がハリウッドナイズされて、海外にも受け入れられ易くなったと言うのが、その理由のひとつである。今回はネタ切れにほとほと困り果てたハリウッドが、まだまだ未開拓のインドに目を付けたとも言える。かくして、インド風味のハリウッド映画が出来上がったわけである。おそらく、これからも暫くは、インド映画人の快進撃が続くことだろう。

(敬称略)

【追記 2014.11.10】

 映画批評家、前田有一氏のサイト『超映画批評』では、観客をミスリードしそうな邦題のおかしさについての言及があったが、かといって原題をそのまま使用しても、おそらく多くの人には意味が伝わりづらいのかもしれない。

 直訳すれば「100foot(メートル換算で約30m)の旅」?通りを隔てて対立するふたつの文化のビミョーな距離感を表しているのだろう。物理的には百歩程度で行き来できる距離にありながら、その文化的隔たりが大きいさまを皮肉っているとも言える。それはそのまま、移民社会の現状(移民受け入れによる社会的混乱。特に移民立国である北米・中南米よりも、成熟社会に移民が入り込んだことによる深刻な軋轢や混乱を生んでいるヨーロッパ社会)を言い当てているとは言えないだろうか?


2014/10/26

『イコライザー』(原題:THE EQUALIZER、2014、米)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 期待した以上に面白かったよ♪
 かなり容赦ない暴力描写だけど
 ゆえにPG12。


 今年の12月には還暦を迎えるデンゼル・ワシントン御大が、無敵の元CIAエージェント、現ホームセンター従業員ボブこと、ロバートを演じる本作。日中はホームセンター(←その巨大さにはビックリさすが大国アメリカ。何もかもスケールが日本とは違う)の店員として働き、深夜には24時間営業の近所のダイナーに繰り出して、紅茶をすすりながら読書を楽しむ、ひとり暮らしの温和な男。簡素で規則正しい暮らしぶりに、彼の生真面目な人柄が窺える。

 そんな彼が、ダイナーの常連客であるクロエ・グレース・モレッツ演じる少女売春婦と親しくなったことで、悪に対して正義の鉄槌を下す"必殺仕事人"としての自分に目覚めるのである。彼の際立つ二面性が楽しめる。その両面を貫く1本の芯は、揺るがぬ正義感である。

 2時間あまりの長尺なのだが、中だるみもなく、最後まで緊迫感が続く。デンゼル演じるボブは昔取った杵柄よろしく強靱な肉体と明晰な頭脳と多彩な業(←今は一般人なので、基本的に銃を使わないで戦うのがミソ)で、悪人共にただひとり立ち向かうのである。すごいぞ、デンゼル。リーアム・ニーソンに並ぶおじさんの星

 彼のような無敵のイコライザーが実在するならば、世界は幾ばくかの平穏を取り戻せるのだろう。悲しいかな、現実には彼のようなイコライザーはいないし、次々と生まれ出る悪徳なる存在に一旦関わってしまえば、私達はそこから逃げる術は殆どないのだ、たぶん。

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2014/10/14

今年見た新作映画を振り返ってみる(1)  映画(今年公開の映画を中心に)

 元々映画の感想を記す為に始めたブログなのに、ここ数年は殆ど映画の感想は書いていない。しかも怠けて書かずにいると書き方の要領を忘れてしまい、益々書くのが億劫になるものだ。

 時々、自分はなぜ映画の感想を、しかもそれ相当の時間をかけて(←映画の情報を集めたり、画像を加工したり、文章の構成を考えたり、何度も推敲を重ねたり…)書いているのだろうと思う。何より書くことで映画を見た時の感動が蘇り、その感動がより深く胸に刻まれるからだと思うが、少なくとも以前は何の迷いもなく、思うがままに感想を書いていた。以前書いた感想を読むと、記事によっては手前味噌になるが、なかなか巧く書けているものもある。ああいう風に、再び書けることがあるのだろうかと、今は正直言って自信がない(以前より感性が鈍ってしまったのか、加齢で頭の回転が悪くなってしまったのか、自分の考えや思いを的確に表現する言葉が出て来ない…)

 今年のこれまでの鑑賞記録を振り返るには中途半端な時期ではあるが、何となく思いついたので、とりあえず、現時点までに見た作品をリストアップしてみようと思う。その過程で、特に印象が蘇った作品については、おいおい感想を認めて行くとしよう。因みに10月28日時点で、映画館で見た新作映画は98本を数える。

 基本的に私は「夫婦50割引」(夫婦の何れかが50歳の場合、割引料金が適用される)か、毎週水曜日の「レディースデイ」か、毎月1日の「映画の日」、或いは各映画館が独自に設定している割引の日にしか映画を見ないので、1本あたり1,100円(この価格も消費税値上げ以降のもので、以前は1,000円だった)で、しかも、イマドキのシネコンは6本ないし5本見たら1本無料で見られるサービスもあるので、年間100本見たとしても10万円は使わない。ブランドバッグをひとつ、ふたつ買うのとそんなに変わらない(ブランドによってはひとつも買えない)。もちろん、私はブランド品に興味はないし、私が普段お金を使うのは映画以外に本や展覧会(←これも招待券を貰うことが多いし、買うとしても金券ショップで前売り券や安くなったものを買う)くらいなので、同世代の女性の中で突出して贅沢しているとも思わない。

 私が映画を身近な娯楽として感じているのは、自宅からバスや自転車で10〜15分程度のところにシネコンが3つもあり、メジャーな作品だけでなく、単館系の作品も気軽に見られる環境が整っていることが理由としてあげられるだろう。以前は渋谷まで行かなければ見られなかったアート系の作品も、自宅近くで見られるのだ。映画を見終わった後に買い物に行っても、費やす時間はせいぜい3時間である。すっかり私の生活の一部になっている。私は「新作を映画館で見る」には最高の環境にいると思う。尤も、どうしても見たい作品があれば、未だに日比谷や銀座まで出向いてはいる。

 映画の素晴らしいところは、タイトルを見ただけで、印象的なシーンがすぐさま頭に浮かぶところだろうか。瞬時に作品の世界へと誘われる。私がテレビ画面に映し出されたワンシーンを見ただけで、それがどんなに古い映画でも見たことのある作品なら、即座にタイトルと主演俳優を言い当てるのを、夫は「役に立たない(収入に結びつかない)特殊能力」と言って、いつも残念がっている(笑)。尤も、この程度の能力の持ち主は、巷に幾らでもいると思う。


 今年は、私にとって「映画の当たり年」である。(昨年があまりにも不作だったのかもしれないが)素晴らしい作品に例年になく出会えた。

クリックすると元のサイズで表示します 相変わらず韓国映画にはハズレがない。今年だけでも韓国人が製作に関わった作品(韓国発とは限らないが、韓国人監督や俳優が絡んでいる作品も含む)は「危険な関係」「ゲノムハザード〜ある天才科学者の5日間」「7番房の奇跡」「新しき世界」「スノーピアサー」「怪しい彼女」「ルーシー」「レッド・ファミリー」「ザ・テノール 真実の物語」の9本は見ている。日本には選りすぐりの作品が来ているとは言え、その水準の高さには目を見張るものがある。何より演出力の高さとプロットの巧みさは群を抜いていると思う。俳優も独特の存在感がある。それが近年の国際映画祭における韓国映画の評価の高まりに繋がっているのだと思う(因みに所謂"韓流TVドラマ"は見たことがない)《写真は「ザ・テノール〜真実の物語」》

 私は、日韓で取り交わした条約で既に解決済みであるにも関わらず、未だに過去の問題に囚われて日本に執拗に謝罪と賠償を迫る韓国と言う国の在り方は嫌いだ。しかし、国内市場が小さいが故に、活路を求めて、あらゆるジャンルで海外市場へ果敢に挑戦を続ける韓国人の強かさ〜積極的な攻めの姿勢〜には一目を置いている。それが映画の世界でも功を奏しているのは確かだ。

 昨日たまたま見た民放のニュース番組でも、先ごろ開催された釜山国際映画祭が1996年から始まった後発の映画祭であるにも関わらず、昨年の東京国際映画祭(1985年より開催)の観客動員数12万人の倍近い23万人を集めたとの報道があった。番組では、短期間にこの映画祭がアジアbPの映画祭へと飛躍した理由として、「これから市場・作品共に成長が期待される"アジア映画"に特化したこと」「ショート・フィルム製作のワークショップを開催する等、今後のアジア映画を担う若手の育成に力を入れていること」「世界に向けてアジア映画を売り込むべく、アジアの製作会社と世界中のバイヤーとの出会いの場アジア・フィルム・マーケットを設け、先発の香港フィルム・マーケットと並んで、積極的にアジア映画の見本市としての役割を果たしていること」を挙げていた。

 逆に日本の映画界は、世界2位の市場を持つがゆえに、海外市場への進出を意識した映画作りに韓国から大分遅れを取り、日本市場先細りへの危機感が足りなかったと、ある映画関係者が今更ながらの反省の弁である。釜山国際映画祭を躍進させた上述の3つの発想が、なぜ日本から生まれなかったのか?それは日本映画界が恵まれた国内市場に胡坐をかいて、努力と革新を怠ったからだろう。私が特に気になるのは人材育成の体制だ。映画人を養成する専門の大学が設置されたのも(←専門学校からの改組)、東京芸大等、国立大学で映像製作の指導に力を入れ始めたのも、日本ではつい最近のことである。製作現場では、未だに徒弟制度もどきの低賃金で、若手が下積み生活を送っているのではないのだろうか?

 また、世界を意識すると言う意味では、日本の俳優陣に、海外の俳優ほどの内面的な豊かさが感じられないのが本当に残念だ。ハリウッドで活躍する俳優にしても、韓国人俳優にしても、トップ俳優ともなれば、インタビューでの発言には豊かな教養に裏打ちされた知性が感じられる。誰もが一家言を持っている。ハリウッドの俳優に至ってはハーバード、イェール、スタンフォード、コロンビアなど、超一流の大学で学んだ人間がゴロゴロいる。そうした学歴の裏づけがなくとも、ディカプリオやアンジェリーナ・ジョリーのように、環境問題や人権問題に深い関心を寄せ、国連の活動に積極的に関わっている俳優もいる。そうした演技力以外の素養が、演じる役柄に深みや奥行きを与えているのだと思う。俳優業に限らず、所謂「芸術表現」の分野では、表現者の内面から滲み出る豊かさが演技力と相俟って、鑑賞者の心を打つのではないだろうか?

 それが日本ではどうだ?映画のプロモーションでも、まるで台本に書かれた台詞を覚えたように通り一遍のことしか言えず、自分の言葉で語れない。容姿が美しく台詞覚えが良ければ俳優になれるのが、日本の映画界なのだろうか?俳優は大手プロダクションに所属さえしていれば、実力が伴わなくても主役の座を得られる上に、固定ファンが俳優を甘やかす。公正なオーディションによって、実力を持った無名俳優が発掘されることは稀である。国内のぬるま湯に浸かって満足しているようでは、常に厳しい競争に晒されながら切磋琢磨する海外の俳優陣には、到底太刀打ちできないだろう。それどころか、端から演技者としての高みを目指そうなんて志など持ち合わせていないのかもしれない。

クリックすると元のサイズで表示します 最近、ハリウッドの映画でもドラマでも、韓国人俳優の活躍が目覚しい。それに対して、日本人俳優の内向き志向もさることながら、現時点で、私が思う海外に出ても恥ずかしくないレベルの演技力と内面性の両方を備えた日本人俳優は、公の場での言動を見聞きする限り、渡辺謙か香川照之くらいなものである(頭の中に真田広之の名もちらつくのだが、いかんせん彼の発言を耳にする機会が殆どないので、何とも評価のしようがない。渡辺謙は大病を患ったり、「ラストサムライ」での成功を契機とした彼を取り巻く環境の変化が、内面の充実に繋がったのだろうか?)。次いで、自分の言葉を持っていると言う点では、桃井かおりだろうか。他に、若干20歳ながら俳優としての実力も矜持も十分にあり、日本の若手では珍しく自身の将来的ヴィジョンを明確に語れる二階堂ふみに、私は大いに期待している。また、中堅俳優で、聡明さを持ち合わせている俳優と言えば、海外作品にも積極的に参加している伊勢谷友介も忘れてはならないだろう。彼の活躍のフィールドは俳優業に留まらず、社会貢献にも熱心で、ポリシーを明確に持っている人だ。

 もちろん、「自分は俳優(業)しかできない"役者馬鹿"(←日本は他にもアスリートの"筋肉馬鹿"等、一芸に秀でていればそれで良しとする風潮があるが、米国ではオリンピックチャンピオンが医師を目指す等、人間としての幅の広さを重視しているように見える。彼我の違いはどこから来るのか?ゴルフ等一部のスポーツを除き、アスリートとして活躍できる期間は若年期に限られており、その後の長い人生をどう生きるのかについて、選手に早い段階で考えさせるような指導がなされているのだろうか?)」と自認する俳優の中に、俳優としては優れた資質、力を持った人もいるのは認める。たとえ英語をしゃべれなくとも、プロモーションで上手くスピーチできなくとも、その希有な演技力で海外映画に誘われる人もいるだろう。しかし、コンスタントに活躍できるかと言うと、それは難しいのが現実だ。海外で活躍する方が、国内で活躍するより格上と言うわけでもないのだろうが、国内市場が先細りするのが避けられない以上、俳優も今後は海外進出を意識せざるを得なくなるのではないか?(←ことスピーチ下手に関しては、これまでの日本の学校教育にも問題があったのかもしれない。今後は海外の俳優に気後れせずにスピーチができるよう、日本の俳優も日々努めて教養を蓄え、演技を離れたところでも自身の表現力を磨く必要が出てくるだろう。)


 さらに、今年注目の国はインドである。以前からインド映画も年に1〜2本は見て来たが、「きっと、うまくいく」以来、本格的に注目し始めて、今年は「マダム・イン・NY」「巡りあわせのお弁当」「パフィ! 人生に唄えば」の3本を見ている。いずれも見ごたえのある作品であった。インド映画が、かつてのような賑やかに踊って唄って最後は大団円(←これはこれで個性があって好きなんだが…)から、より洗練された、最後にしみじみとした余韻を残す、物語の面白さが際立つ作品等、幅の広がりを見せて来ているのが興味深い。海外作品にも触れた若手が、インド映画界に新風を吹き込んでいるのかもしれない。今後も目が話せないインド映画である。


 赤字の作品は、作品の完成度、プロットの巧みさ、キャストの名演でオススメ作品。特に太字は個人的に感銘を受けた作品である。青字作品は気楽に楽しめる内容、或いはキャストの魅力で、見て損はない作品。黒字作品はDVDでも十分だったかな、と思う作品。

(敬称略)
 
1月(13本)※内10本は「TOHOシネマズ1カ月間無料パスポート」で鑑賞

@キャプテン・フィリップス
A麦子さんと
B大脱出
Cジャッジ
Dエンダーのゲーム
Eバイロケーション 表
F危険な関係
Gトリック劇場版ラストステージ
Hルパン三世VSコナン
I黒執事
Jゲノムハザード ある天才科学者の5日間
Kソウルガールズ
L7番房の奇跡

2月(9本)
 
Mアメリカン・ハッスル
N新しき世界
Oマイティソー・ダークワールド
Pエージェント・ライアン
Qスノーピアサー
Rメイジーの瞳
Sちいさいおうち
㉑ニシノユキヒコの恋と冒険
ウルフ・オブ・ウォールストリート

3月(11本)

キックアス2 ジャスティス・フォーエバー
ネブラスカ
大統領の執事の涙
それでも夜は明ける
アナと雪の女王
あなたを抱きしめる日まで
㉙猫侍
ワンチャンス
ライフ
銀の匙
白ゆき姫殺人事件

4月(5本)※一週間、旅行で不在

ローン・サバイバー
ウォルト・ディズニーの約束
ダラス・バイヤーズ・クラブ
㊲サンブンノイチ
そこのみにて光輝く

5月(11本)

プリズナーズ
ワールズ・エンド
キャプテン・アメリカ ウィンターソルジャー
とらわれて夏
Wood job!神去なあなあ日常
ブルー・ジャスミン
FOOL COOL ROCK
チョコレート・ドーナツ
8月の家族たち
マドモワゼルC ファッションのミューズ
ディス/コネクト

6月(12本)

インサイド・ルーウィン・ディヴィス
(51)ぼくたちの家族
(52)トカレフ
(53)Xーmen Future and Past
(54)ノア
(55)私の男(←二階堂ふみちゃん主演)
(56)マンデラ
(57)グランド・ブダペスト・ホテル
(58)ラスト・ミッション
(59)こっこ、ひと夏のイマジン
(60)サード・パーソン
(61)her 世界でひとつの彼女

7月(11本)

(62)人生はマラソンだ
(63)万能鑑定士Q
(64)All you need is kill
(65)超高速参勤交代
(66)ジゴロ・イン・NY
(67)マレフィセント
(68)複製された男
(69)マダム・イン・NY
(70)怪しい彼女
(71)ゴジラ
(72)思い出のマーニー

8月(6本)

(73)るろうに剣心 京都大火編
(74)バトル・フロント
(75)トランスフォーマー・ロストエイジ 3D
(76)巡り逢わせのお弁当
(77)プロミスト・ランド
(78)パルフィ! 人生に唄えば

9月(11本)※10日間は旅行で不在

(79)イブ・サンローラン
(80)フライト・ゲーム
(81)るろうに剣心 伝説の最期編
(82)イン・ザ・ヒーロー
(83)実写版 ルパン三世
(84)猿の惑星 新世紀ライジング
(85)ルーシー
(86)イントゥ・ザ・ストーム
(87)柘榴坂の仇討ち
(88)アバウト・ア・タイム
(89)ジャージー・ボーイズ

10月(10本)

(90)バツイチは恋のはじまり
(91)悪童日記
(92)レッド・ファミリー
(93)ザ・テノール 真実の物語
(94)小川町セレナーデ
(95)誰よりも狙われた男
(96)まほろ駅前狂騒曲
(97)イコライザー
(98)STAND BY ME ドラえもん 
(99)If I stay

11月(12本)

(100)小野寺の弟、小野寺の姉
(101)マダム・マロリーと魔法のスパイス
(102)祝宴シェフ
(103)福福荘の福ちゃん
(104)ザ・ゲスト
(105)花宵道中
(106)エクスペンダブルズ3
(107)6才のボクが、大人になるまで
(108)ショート・ターム
(109)トワイライト ささらさや
(110)インターステラー
(111)西遊記〜はじまりのはじまり

12月(6本←まだ途中)

(112)チェイス
(113)天才スピヴェット
(114)ゴーン・ガール
(115)ビリー・エリオット ミュージカルライブ〜リトル・ダンサー
(116)ホビット 決戦のゆくえ
(117)あと1センチの恋
(118)ベイマックス


2014/8/25

プロミスト・ランド(原題:PROMISED LAND、2012,米国)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 後からじわじわと様々な感慨が湧いてくる映画。

 米映画界のナイスガイ、マット・デイモンが鬼才ガス・ヴァン・サント監督と『グッドウィル・ハンティング』以来、タッグを組んだと言う本作。それだけで期待も大いに膨らむと言うのに、なぜか神奈川県では現時点で上映がなく、都内でも2館のみ。しかも2012年制作の映画が今頃公開という不可思議さ。

 おそらく、本作で扱われているシェールガスを巡る話が、エネルギー資源開発では避けられない環境破壊と言うセンシティブな問題を含んでいるからなのだろう。

 特に日本では、2011年の東日本大震災によって起きた福島の原発事故が未だ収束せず、国民の間でも日本各地に点在する原発の稼働に対して、万が一の事故を懸念する声が少なくない。福島の事故によって人々は、豊かな風土と温かなコミュニティが一瞬にして、恐ろしいほど呆気なく、破壊されてしまうことを知ってしまった。「開発」と「破壊」は表裏一体なのだ。

 だからと言って、本作は声高に「反開発」を唱えているわけでもない。結局、シェールガスを巡る話は、"人間を描く"道具として使われているだけである。大企業に入社した地方出身の主人公が、出世を夢見てがむしゃらに働き続けて来て、いよいよ出世も射程圏内に入った時、思いがけず冷や水を浴びせかけられる。そこで我に返って自分の原点を見つめ直した時、彼は何を思ったのか?結局、どんな生き方を選択したのか?本作は、そういう人間ドラマを描いているのだと、私は思った。

 そう映画を解釈すると、本作の上映を見送った映画館側の的外れな自主規制が、情けなく思えて来る。もちろん、映画の解釈は見る側の自由だ。映画館の方で余計な気を回して上映しないより、とにかく上映して、見る側の解釈に委ねたら良いのに。映画館側の体制(大勢?)に阿った(或いはこの内容ではマット・デイモン主演でもヒットが見込めないと判断したか?それで公開に至らず、映画ファンの元に届かなかった名作・佳作も少なくないのだろう。逆に『ホテル・ルワンダ』のようなケースもある)、このような傾向が、表現の自由を狭めて行くのではないかと、私は危惧している。

 
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 シェールガスの採掘権と引き換えに提示される金額は、貧しい農村地帯の人々にとっては目にしたことのない大金だ。その大金に目が眩む人間もいれば、「うまい話には必ず裏がある」と疑いの目を向ける老教師フランク(ハル・ホルブルック)のような人間もいる。

 主人公のスティーブ(マット・デイモン)は自身もアイオワの農家出身で、地元にあった農耕具メーカーの撤退により、急速に寂れて行く地元を目の当たりにした経験を持つ。彼はグローバル社という巨大エネルギー開発企業の先兵として、パートナーのスー(フランシス・マクドーマンド)と共に採掘権の契約を進めて行くのだが、自身の苦い経験を踏まえて、このままでは先行きが暗い農村部の人々に良かれと思って採掘権契約を進めているフシがある。

 「都市への富と人の一極集中」と「地方の衰退」はセットである。地方には、都市にはない豊かな自然が溢れているが、それだけでは経済的に糊口を凌ぐのに精一杯で、未来を展望する精神的余裕などなく、我が子にも十分な教育を授けられない厳しい現実がある。

クリックすると元のサイズで表示します そこに環境保護団体のメンバーを名乗るダスティン(ジョン・クランシスキー)の横やりが入る。果たして、スティーブとスーは、住民との契約をうまく取り付けることができるのか?グローバル社は思惑通りに、この経済的に貧しい農村地帯での採掘権ビジネスを成功させることができるのか…


 最近の米国映画に顕著な傾向だが、実社会の現状を反映したものなのか、本作でも女性の方が逞しく、"男前"である。スティーブの仕事のパートナーであるスーは一児の母であり、愛して止まない息子を頼りない夫(もしかして離婚しているのか?)と共に自宅に残して、全米各地を飛び回っているキャリア・ウーマンである。常に冷静で、感情に流されることなく、目前の仕事をテキパキと片付けているのが、スティーブとの一連のやりとりからも見て取れる。昇進を目前にしたスティーブより、寧ろ彼女の方がやり手なのではと思わせる仕事ぶりなのだ。彼女の言動の端々から、一家の家計の支え手としての覚悟と強さが感じられる。それに引き換えスティーブ、お前は…以下省略。

 しかし、どちらの生き方にも理があり、一概にどちらが正しく、どちらが誤りとも言えない気がする。現実は物語のように白黒ハッキリ付けられるものではないだろうし、人それぞれに、自分の人生の中で大切にしたいものがある、と言うことなのだろう。

 
 以前、地元の市民大学で米国社会について、数回にわたって講義を受けたことがある。講師は現役の東大教授だった。講師曰く、「米国は歴史が浅い国ゆえに、古い歴史に対する憧れがある。それがよく現れているのが、古代ギリシャ神殿を思わせる威風堂々とした公共建築の数々」「米国の本質は都会にあるのではない。農村地帯にある。汗水垂らして働く農民こそが、かつてのカウボーイが、米国人の実像であり、彼らが米国大統領を選び、米国を動かしている」

 映画を見ながら、特に後者の言葉が思い出された。米国大統領候補らはだからこそ、地方遊説を重視するらしい。自分たちこそ真性の米国市民と信じて疑わない人々を前に、自らも市民の為に汗水垂らすことを厭わない人間であることを、積極的にアピールするらしい。都市生活者にしても、その大半が地方出身者のはずであり、基本的な価値観は自身の出自によるところが大きいのではないか?

 確かに私のような旅行者が訪れるのは、米国の中でもニューヨークやロサンゼルス、サンフランシスコ、ワシントンDC、ボストン、ラスベガスなど、都市部が多い。そうでなければグランド・キャニオンのような人里離れた雄大な自然が魅力の観光地である。今回の映画の舞台のような農村地帯を訪れることなど、殆どないだろう。私が知る米国の姿はほんの一部に過ぎず、知らないことの方がずっとずっと多いのだ。

 そう言えば、LAのユニバーサル・スタジオ・ハリウッドを訪れた際、場所柄、米国各地から訪れる観光客が多いせいか、出会った人々の殆どが、自分がドラマや映画で知る人懐こい米国人と言うより、「人見知りな性格の持ち主」の印象が強かった。たまたま同じアトラクションで狭いスペースで短時間一緒になった家族は、こちらが親しみを込めて笑いかけても(却って怪しい外国人と思われたのか)、最後まで固い表情のままでニコリともしなかった。今考えると、夏休みに、アジア系もあまり住んでいないような地方から、家族旅行で来た人達だったのかもしれない(映画の中でもアジア系は一切登場しなかったような…)


 今回演出を手がけたガス・ヴァン・サント監督の作品は、「エレファント」「グッドウィル・ハンティング」「小説家を見つけたら」「永遠の僕たち」「ミルク」「誘う女」などを見て来たが、何れも登場人物達の関わり合いを丁寧に描いた人間ドラマで、見終わった後に深い余韻を残す作品揃い。人間の本質や生き方について、改めて考えさせられることも多い。

 時折挟み込まれる風景描写も美しく、物語の舞台がどんな場所なのか、何気ない風景のワンショットが雄弁に語ってくれているかのよう。その演出は居丈高に何かを主張するでもなく、さりげないシーンで、さりげない台詞に、ハッとするような深みがあって、強い印象を残す。けっして説明口調でもないのに、直接的に何かを訴えるわけでもないのに、しっかりとメッセージが心に届く。これは監督の巧みな演出力の賜物なのだろう。

 最近はCGの多用や3Dなど技術頼みの作品が多く(それはそれで映画的外連味が楽しかったりするのだけれど)、十分に練られた脚本で、心の琴線に触れる台詞の多い、丁寧に作り込まれた人間ドラマが少ないので、こうした作品を見ると正直ホッとするし、米国映画もまだまだ捨てたもんじゃないなと思う。 

(日比谷、TOHOシネマズシャンテにて鑑賞)

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『プロミスト・ランド』公式サイト


2014/7/26

マダム・イン・ニューヨーク(原題:English Vinglish、インド、2012)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 今から10年程前のことである。美術館の帰り、ひとり電車に乗っていた。いつものように自宅最寄り駅で降りて、当時構内にあったパン屋に入ったところ、突然、見知らぬ外国人に、英語で話しかけられた。

 「英語を話せますか?僕は○○に住んでいるんだけれど、君と話したくて、電車を途中で降りたんだ」と。も、もしかして、40代にして、人生初のナンパ?

 その外国人、浅黒い肌に、身長は190cmは軽く超えているであろう大男だが、スレンダーで、なかなかの美男子。しかし、どう見ても20代半ばから30代前半。私がドギマギして無言なところへ、なおも話しかける。

 「あなたは独身ですか?両親と住んでいるのですか?家はこの近くですか?」どうも私のことを、自分と同世代と思っているらしい。やはり、話の流れからしてナンパのようである。話している英語の訛りから察するに、インド人か、その周辺国の出身と見た。

 結局、「ワタシ、エイゴ、ワカリマセン」で、逃げた。ハッキリ、私は中学生の息子がいる主婦です、と答えるべきだったのかもしれないが、とにかく予想もつかない出来事に驚いて、その場から…逃げた。

 日本人女性としては、婉曲な表現で呼ぶなら"ぽっちゃり系"、遠慮のない呼び方なら"デブ"の私。何しろ10年前のことなので、少なくとも今よりはウエストにくびれもあった。しかもナンンパされた時、私には珍しくボディ・コンシャスな服を着ていた。

 なぜ自分がインド人青年?にナンパされたのか、当時は謎だったのだが、後年、インド映画を見るようになって、登場する美女が揃いも揃ってグラマラスと言うか、かなり肉感的なのを知り、日本では"デブ"扱いの私も、インド人から見たら、もしかしたら「日本人離れした、長い黒髪のグラマラスな美女」に見えたのかもしれない、との結論に至った(笑)。


クリックすると元のサイズで表示します …と前置きがかなり長くなってしまったが、表題の映画の主演女優シュリデヴィも、今でこそ美しいサリーを身にまとい、落ち着いたマダムの雰囲気を湛えているが、スター女優として活躍していた頃の彼女は、はちきれんばかりのダイナマイトボディを強調するような衣装で、歌い、踊っていたのである。

 その彼女が結婚・出産を機にスクリーンから遠ざかり、本作が実に15年ぶりの復帰作となった。撮影当時、既に50歳近いはずだが、その美貌は健在。まるで少女漫画から出て来たような長い睫毛と大きな瞳は、彼女の心情を豊かに表現して、見る者を釘付けにする。結婚生活の充実が、さらに大人の女性としての自信を、彼女に与えたようにも見える。

クリックすると元のサイズで表示します 本作の主人公は、インドに暮らす中産階級の専業主婦シャシ。料理上手で、彼女が作るお菓子ラドゥは近所でも評判だ。家族を心から愛し、彼らに尽くすシャシ。しかし、仕事人間の夫は妻の料理の腕前を認めるも、妻が手作りの菓子ラドゥを人々の求めに応じて販売するのを快く思わず、ミッションスクールに通う娘は娘で、英語が苦手な母親をあからさまに恥じている。

 主婦が家事をするのは当たり前、主婦のくせに今さら自己主張するな、と彼女を家庭に縛り付けておきながら、主婦は家事ばかりして半人前で教養に欠ける、と言わんばかり。そんな家族の心ない態度にシャシは深く傷つき、自信をなくしている。

 そんな彼女の人生は、米国に暮らす姪の結婚式の準備を手伝うために、家族より一足先に単身ニューヨークに渡るところから少しずつ動き始める。

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  主人公シャシのサリー姿がとにかく気品に溢れ、美しい…。その七変化もお楽しみあれ!

 異国で現地の言葉や習慣が分からないばかりに戸惑ったり、思わぬ失敗をして、現地の人間から辛辣な言葉を投げかけられたり、失礼な態度を取られることは少なくない。ニューヨークに渡ったシャシもそうだった。彼女の短いニューヨーク生活は、屈辱的な体験から始まった。

 ニューヨーク郊外の姉の元に滞在するも、日中、姉はもちろんのこと、その娘達も仕事や学校で不在がちである。そこで意を決して街に出てはみたものの、不慣れな土地では電車に乗ることすら一苦労である。ただでさえ心細いのに、ファーストフード店では店員に馬鹿にされ、恥ずかしさのあまり店を飛び出してしまったシャシ。

 落ち込んでベンチに座り込むシャシに、店で出会った男性が優しく声をかけてくれた。どうにか気を取り直したシャシの目に飛び込んで来たのは、路線バスの車体広告。「4週間で英会話!」と謳った英会話学校の広告だ。咄嗟に、その学校の電話番号を覚えるシャシ。ここから、"奥様"シャシの挑戦が始まるのだ!

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 シャシが参加したクラスには、さまざまな国籍の、さまざまな立場の老若男女がいた。世界中から人々を吸引して止まない国際都市ニューヨークならではの多様性だ。まさに"サラダボウル"である。そこには「英語を学ぶ」と言うひとつの目的の下に、紆余曲折を経て、国家間の不和、人種間の偏見を乗り越えて、互いを理解しあう人々の姿があった。特に講師のディヴィッド先生が扇の要とも言える存在で、個性豊かな生徒達をうまく束ねていた。その終始リベラルな姿勢は素敵だった。

 今やインターネットで使用される言語の8〜9割が英語と言われる中、ビジネスでも、学問の分野でも、英語圏の人間は英語ができるというだけで、非英語圏の人間に比べて大きなアドバンテージがある。逆に非英語圏の人間は、英語が出来ないばかりに不利益を被ることが少なくない。「英語帝国主義」と揶揄される所以である。現実的対処として、非英語圏の人々は英語を学ぶしかない現状がある。

 私も中東駐在時に、British Councilの現地校に通った経験がある。クラスは、レベル的にはある程度英語をしゃべれる人々の集まりで、やはり現地の人が圧倒的に多かったものの、仕事で駐在のフランス人男性、自国内の混乱から現地に避難していたスーダン人女性などもいた。講師はオックスフォード大で歴史学の博士号を取得したと言うレバノン人女性。現地の人にしても、パレスチナ系や近隣のシリア系、イラク系と厳密には一様でなく、20人ばかりの小さな教室でも、人種のパッチワークが形作られていた。私は好奇心も手伝って、休み時間には、クラスメイトと積極的に会話した。

 スーダンの恵まれた家庭の出身者と思しき、美貌の若い女性は、当初、アジア系の私を(たぶん、アジア系と言うだけで)小馬鹿にした様子だったが、ペーパーテストで私が一位の成績を取ると、態度が一変した。フランス人男性は偶然同世代で、南仏出身だという彼とは、最初から会話が弾み、互いの家族の話で盛り上がった。一方、オックスフォード出のレバノン人女性講師は、名門大で博士号を取得しながら、英会話学校の講師に甘んじている自分の不遇を嘆いている風だった。その言葉の端々にプライドの高さが窺えたが、キャリア形成もままならない彼女の境遇には同情した。

 現地の人々とも程なく仲良くなり、互いの家を行き来するまでになった。シリア系のアムジャッドと名乗る好青年とは、その後家族ぐるみの付き合いに発展した。パレスチナ系女子大の職員と言う年配女性ライラとは当初からウマが合い、彼女を通じて、JICAの招きで来日経験もある現地のキャリア官僚女性とも知り合うことが出来た。当時、現地の郵便事情も良好とは言えない中、彼女のたっての頼みで、来日時に世話になったと言う日本の医大教授への贈り物を、善意のリレーで無事、教授の元へ送り届けられたのは、駐在時の印象深い出来事のひとつである。

 幼子を抱えた一介の主婦が、知り合いのいない異国で、こうした多様な人々と出会えたのも、英会話学校のおかげである。彼女達との触れあいは、イスラム圏で、幼子もいて、日中ひとりで外出もままならない私にとって、何よりの息抜きとなり、異文化を知る貴重な機会でもあった。夫が現地の研究機関に在籍し、残業が殆どなかったことが幸いしたとも言えるが、アップタウンにある我が家からダウンタウンにある英会話学校への送迎と、私が不在中に息子の世話をしてくれた夫には、今でも感謝している。

 私自身の実体験に照らして、映画の主人公シャシの身に起こる出来事のひとつひとつがいちいちもっともなことで、思わず何度も「そうそう」と頷き、心の中では「頑張れ!、シャシ」とエールを送りながら、物語の展開に注視した。シャシを励ましながら、その実、自分が励まされているようだった。

 主婦であるシャシは、ただ家族から尊重されたかっただけである。家族からのリスペクトが欲しかったのである。

 彼女の4週間の英会話学習の集大成とも言える、クライマックスのスピーチには、心を打たれた。彼女のコンプレックスに他ならなかった英語で、自分の思いの丈を表現する。それは皮肉にも、彼女が彼女自身の言葉を持った瞬間でもあった。その表現は未だ稚拙であっても、伝えたい内容は聡明さと思いやりに溢れ、聞き手の心に響いたに違いない。けっして流ちょうではない訥々とした語り口が、却って一語一語をしっかりと聞き手の心に届けたようにも見えた。さらにそれは、彼女を蔑ろにしていた家族に反省を促す一撃でもあった。購入した映画のパンフレットにはその全文が掲載されていて、それだけでもパンフレットを買って良かったと思った。

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 CM監督として長らく活躍し、これが長編映画第一作目だというガウリ監督は30代後半の女性である。自身の母を念頭に脚本も手がけた監督の手腕は高く評価され、国内外で監督賞を総なめにしたらしい。

 本作は結婚によって男性以上にその環境や立場の変化を余儀なくされる女性の尊厳を描いて、ボーダーレスな魅力を放っている。女性は大いに励まされる一方で、男性は自身の妻や恋人への日頃の態度を顧みる機会となるに違いない。

 また、ニューヨークを主舞台にすることで、本作は、インド人、ひいてはアジア人から見た欧米社会の様相を描いていると言っても良いだろうか?なかなか興味深い観察に富んでいて、「あるある」エピソードのオンパレードである。そしてインド映画に、確実に新しい風が吹いているのを感じる佳作である。その意味でも、是非、多くの人に見ていただきたい映画である。

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映画「マダム・イン・ニューヨーク」公式サイト


2014/6/28

円卓 こっこ、ひと夏のイマジン  映画(今年公開の映画を中心に)

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 飽き性の私が美術館のボランティアを10年以上も続けているのは、ひとえに子供達に会えるからである。特に小学生が可愛くて堪らない。

 元々は社会人入学した大学で美術史を専攻して、卒業後も何らかの形で美術と関わり続けたいと言う思いから美術館でのボランティアを始めたのだが、今では美術作品以上に子供達の魅力の虜となって、美術をダシに子供達に会うのがボランティア活動の最大の楽しみになっているようなフシがある(美術館の皆さん、ごめんなさい)

 特にひとり息子が成人して、子育てにひと区切りついた辺りから、小さな子供達を見かける度に、幼い頃の息子の記憶と重ねて、懐かしさと愛おしさがこみ上げて来るようになった。子育てのただ中にいた時には自分に余裕がなかったせいか、今になって、あの頃が自分の人生の中でかけがえのない宝物のような日々だったことに気付いたと言う感じだ。

 映画「円卓こっこ、ひと夏のイマジン」は、主人公こっこ、こと渦原琴子ちゃんの日々の"冒険"〜そう、日々新たなことに出会う、好奇心旺盛なこっこちゃんの日常はまさしく冒険の日々である〜を描いて、小学生にメロメロな私を魅了して止まない。

 <教室で、妄想のひとり舞台をノビノビと演じているこっこちゃんの傍らで、鼻をほじっている男の子の姿が、何だかリアルで楽しい…>
クリックすると元のサイズで表示します こっこちゃんは小学3年生。両親、祖父母、3つ子の姉と共に、大阪千里?の公団住宅に住んでいる。

 玄関のドアを開けると目の前にダイニングキッチン、と言う開けっぴろげで気取りのない間取りが、いかにもアパートらしいと言うか、昔懐かしい佇まい(友達の家を訪ねたら、おもてなしに決まって出て来るのがカルピスなんて、いつの時代の話なんだろう?もしかして設定は、原作者の子供時代なのかな?)

 けっして広くないDKの中心にドーンと鎮座する、中華料理店にあるような朱色の円卓が、これまた気取りが無く、おそらく8人と言う大家族が1度に食卓を囲む為の苦肉の策なんだろうけれど、何だか微笑ましくもあり、こっこちゃんの家族の温かさが伝わって来るような道具立てになっている。実際、毎回、この円卓を囲んで繰り広げられる渦原家の食事のシーンは賑やかで、楽しそうだ。

 この渦原家を見て思うのは、他人を思いやる優しい心は、子供の頃から温かい愛情を受けて育つものと言うことだ。基本的に、人は自分が与えられたものしか、他人に与えることが出来ないのだと思う。そして自分に足りないものは、想像力で補うしかない(皆が皆、愛情豊かな環境の下で育つわけではないから、この"想像力"と言う能力は、人が生きて行く上で本当に大切で、必要なものだと思う。幸いなことに想像力は、意志さえあれば、自ら育てることができるものである)

     <大皿に盛られた数点の料理。笑顔に囲まれた円卓の上でグルグル回る>
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 本作は小学3年の1学期から夏休みを経て2学期に至る、こっこちゃんの成長を描いていて、学校生活での、こっこっちゃんを取り巻く友人達や先生との関係も、子供目線でリアルに描かれていて興味深い。

 想像力豊かなこっこちゃんは、ややもすると妄想に突っ走ってしまうのだが、学校の雰囲気は総じてそれを許容する大らかさがあり、見ていてホッとする。今よりノンビリした時代の話なのか、あるいは大阪と言う地域性なのか?

 そう言えば、3年前の大阪1泊旅行で、天王寺動物園で居合わせた遠足の小学生の会話が、とても楽しかった記憶がある。チンパンジーとオランウータンの食事のサンプルを前に丁々発止のボケとツッコミで、まるで漫才を見ているようだった。元気いっぱいで、ケラケラとよく笑う子供達だった。

クリックすると元のサイズで表示します 吃音に悩む幼なじみのぽっさんや、クラス委員を務める朴くんにまつわるエピソードでは、真っさらな心で世界を見るこっこちゃんの感性が、既に心が偏見で塗り固められたオトナの私には新鮮だった。

 結局、子供の真っさらな心に、さまざまな色を着けるのは周りのオトナや、巷に溢れる情報であったりする。その結果、人は成長するにつれ、さまざまな色メガネで世の中を見るようになる。良くも悪くも、それがオトナになると言うことなのかもしれない。

 だから、子供の素朴な好奇心から発せられる質問や、何ものにも囚われない自由な発想は、時にオトナの虚を突いて、オトナを驚かせる。さらにオトナには当たり前なことが、子供にはまだ理解できず、いざそれを子供が知り得る限られたボキャブラリで説明しようとすると、これが案外難しい(単に、私が下手クソなだけなのかもしれない。劇中の平幹二朗さん演じる祖父は、こっこちゃんにも分かるよう上手に説明していた)

 息子が小1の頃、こんなことがあった。息子が台所の私の元に来て、何の前触れもなく「お母さん、お母さんがお父さんと結婚して良かったことは何だと思う?」と聞いた。突然の質問に上手く応えられなかった私に、息子はニコニコしながら言った。「あのね、ぼくが生まれたことだよ。お母さん、ぼくが生まれて来て、良かったでしょう?」

 予想外の、息子の素直な喜びに溢れた言葉に、私は心底驚き、思わず息子を抱きしめた。もう20年近く前の出来事だが、今でも思い出す度に心が温かくなる。

 また、先月、一緒にTDLに行った幼い姪は、常に身近にいないせいもあるが、伯母である私が自分の母親の姉で、祖母の娘であることが今ひとつわかっていないようである。説明を試みたが、彼女が理解したかどうかは、正直、自信がない。残念ながら、未だに"たまに会う親戚のおばちゃん"程度にしか思っていないのかもしれない(笑)。

クリックすると元のサイズで表示します 思えば子供時代は、今はオトナの自分にも確かにあったはずなのに、既に遠い記憶の彼方に追いやられている。そのせいか、しばしば子供の心が理解できず、子供が不思議な生き物に見えてしまう瞬間がある。

 映画の中で、こっこちゃんが紡ぐエピソードの数々は、そんなオトナの、どこか懐かしく、時に甘酸っぱい子供時代の記憶を呼び覚ましてくれるようだ。月並みな表現だが、昔子供だったすべてのオトナに、是非見て貰いたい作品だ。そして、子供だった頃の自分を思い出して欲しい(たとえ辛い思い出の方が多かった子供時代でも、身近に自分を見守ってくれるオトナや、助けてくれる友達が、必ずひとりはいたと思うよ。その存在が生きる支えとなって、今があるのだと思う)

 主人公こっこちゃんを、名子役の誉高い芦田愛菜ちゃんは、喜怒哀楽豊かな表情でノビノビと演じて、素晴らしい。実は彼女を映像で見るのは「阪急電車に乗って」以来なのだが、名声が高まるにつれて子供らしさを失ってはいないかとの心配は、少なくともスクリーン上の彼女の溌剌とした姿を見る限り、杞憂だったようだ。子役としても、ひとりの女の子としても、今の輝きを失うことなく成長して行って欲しいと思う。

「円卓 こっこ、ひと夏のイマジン」公式サイト


2014/3/24

(28)『あなたを抱きしめる日まで(原題:PHILOMENA)』(仏/英、2013)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 今年に入って昨日までに31本の新作映画を見ている。私は基本的に好き嫌いのない雑食系なので、いつもの如くジャンルは多岐に渡る。現時点で私がベストだと思うのが、タイトルの作品だ。原題はジュディ・ディンチが演じる主人公の名前。邦題は、幼い頃に生き別れた息子との再会を切実に願う、主人公の心情に寄り添ったものとなっている。

 
 本作は実話に基づいた作品。近年は映画界が物語を創り出す力を失ってしまったのか、実話の映画化流行りである(米アカデミー賞作品賞のノミネート作品の殆どが実話ベースの作品であることが、このことを如実に示している)。残念ながら良質で斬新なシナリオが慢性的に不足している映画界は、実話のドラマ性に安直に乗っかっている印象が否めない。映画化にあたって多少の脚色が加えられているとは言え、実話が元々持つリアリティの迫力に、現状は人間の想像力(創造力?)が敗北していると言えよう。

 今や世界はネットで繋がって、遠い外国の出来事もリアルタイムに知る時代。テレビは現実世界の誰もが予測のつかない展開を(シリア問題然り、ウクライナ問題然り…)、リアルタイムに映像で流し続けている。そんな中でフィクションは意外性を描けず、人々の目には陳腐な嘘話としか映らなくなって、この世界で居場所を失ってしまったかのようだ。

 かつては実話に基づくと言うだけで、何かしらのインパクトがあった。しかし、このところの実話ベース作品の乱立ぶりには、正直なところ、そろそろ辟易して来てもいる。果たして、どこまでが実話で、どこからがフィクションなのか、その境界も曖昧であり、そこで描かれた"真実"が信頼に足るものか(何らかのイデオロギーへの誘導がなされているのではないか?)、見る側は懐疑的にもなっている。

 本作には、そんな実話の映画化に対する疑念や飽食感を吹き飛ばすような、物語としての際立った面白さがあった。

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 具体的には主人公とその息子が辿った数奇な運命や、個人の尊厳を蔑ろにする組織の非情な暴力性、信仰の在り方への鋭い疑義、そして、通常なら接点を持たない者同士が出会った時の化学反応の面白さ(階級社会における階級間の断絶をコミカルに描き、親子の離散と言う重いテーマを扱いながらも、全編にユーモアが散りばめられている脚本と演出が心憎い)など、興味をそそる、見応えのある要素が、最近にしては珍しく98分と言うコンパクトな時間の中にギュッと詰まった充実感があった。さらにその属性から想起されるイメージを敢えて覆す登場人物個々の複雑な造形には、人間の品性とは何なのか、何を以てそれは磨かれるのか、改めて考えさせられるものがあった。

 もう1度見たい。もう一度見て、印象深いシーンのひとつひとつを、思わず聞き逃してしまった台詞のひとつひとつをこの目と耳で確かめ、いつまでも記憶に留めたい…見終わった直後から、そんな衝動にかられる作品だった。

 本作のプロデュースと共同脚本も手がけたと言う、共演のスティーブ・クーガンがこれまた魅力的で、彼についても後日言及できたらと思う。彼は両親の離婚で否応なく翻弄される幼い少女を描いた『メイジーの瞳』でも好演している。

 蛇足ながら、先日放映の『王様のブランチ』では、ジュディ・ディンチが現在、殆ど失明に近い状態で、本作も友人に録音して貰った台詞を繰り返し聞いて覚え、撮影に臨んだと言うエピソードが紹介されていた。名優の誉高い彼女が、障害を克服しての今回の出演と知って、本当に驚いた。映画の中で主人公フィロミナを演じる彼女は、障害を一切感じさせない自然な立ち居振る舞いで、一見どこにでもいるような、その実、苛酷な経験をひた隠しにして生き抜いて来た老境のアイルランド人女性を演じていたのだ。

 ハーレクインロマンスを愛し、世界に名だたる英国の名門大学の名も知らず、常にバッグに忍ばせたキャンディを誰彼構わずに勧める(おばちゃんの習性は世界共通?)庶民性が際立つ一方で、厚い信仰心を礎に、謙虚で、思いやりと智慧に溢れた、気高い精神の持ち主であるフィロミナ。そんな魅力的な人物を見事に演じきったジュディ・ディンチは、まさに女優として円熟の境地に達している。それだけに、あと何回、彼女の名演をスクリーンで見ることができるのだろうと、ふと考えてしまった。彼女が米国アカデミー賞受賞式など、華やかな舞台に一切姿を見せなかった理由も、深刻な目の障害が原因だったのかと、初めて合点が行った。

 話題作やヒット作に食指が動かない映画好きの方に、是非オススメしたい作品です。

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『あなたを抱きしめる日まで』公式サイト

2013/1/29

1ケ月フリーパスポートで映画三昧♪  映画(今年公開の映画を中心に)

クリックすると元のサイズで表示します このひと月、某シネコンの1カ月フリーパスポートで、時間の許す限り映画を見ていた交換マイルの有効期限の関係で年末に取得したのだが、主婦という立場上、年末年始の1週間近くは忙しくて映画館には行けなかったので、実際に利用できたのは3週間だ

 このフリーパスポートは、このシネコン独自の顧客サービスで、映画の上映時間を分単位でマイル換算し、6、000マイル溜まったら取得できるものだ。マイレージには有効期限(2年?)があるので、その期限内に6,000マイルに到達しなければならない。

 映画1本、上映時間が2時間前後、1本当たり100マイルとしたら、6000÷100÷12で、1月当たり5本の映画を当該シネコンで見れば、1年でフリーパスポートを取得できる計算だ。月5本なら週1強で見れば良いから、映画フリークなら、そんなに難しいことではない。実際は、そのシネコンで毎週見るとは限らないので(一般受けする映画をメインに上映するシネコンなので、毎週見たい映画があるとは限らない)、私の場合、2年かけて取得することになる。
 
 最寄りの当該シネコンは今年で開業10年で、私の1ケ月フリーパスポート取得も、今回で3度目だ。シネコンも近年は過飽和で経営環境が悪化していると聞く。この、映画フリークには堪らないサービスもいつまで続くのやら…できれば、いつまでも続いて欲しい

 このフリーパスポートで見た映画は以下の通りだ。

@F「フランケン・ウィニー」
AK「大奥〜永遠〜右衛門左・綱吉編」
BD「妖怪人間ベム」
CJ「トワイライト・サーガ・ブレイキング・ドーン」
DL「恋のロンドン狂騒曲」
EI「96時間リベンジ」
FC「LOOPER」
GH「ドラゴンゲート 空飛ぶ剣と幻」
HB「TED」
IA「アルバート氏の人生」
J@「ライフ・オブ・パイ」
KE「東京家族」
LG「ストロベリーナイト」

 人によっては、このフリーパスポートで20本前後は見るらしい1日に2本のハシゴも珍しくないようだ。利用する時には、当日(利用できるのは窓口で当日のみ。事前予約はできない)、写真付きのパスポートを窓口に提示して、見たい映画を指定するのだが、スタッフに「今日は何本見られますか?」とよく聞かれた。私は目や腰の具合も考えると、2本のハシゴはちょっとキツイ(最終日は、これで見納めと、邦画を2本頑張ってハシゴしたが…)。しかも、映画館までの交通費や自分が自由に使える時間を考えると、13本でもかなり頑張った方だと思う(尤も、映画をあまり見ない人や多忙な人から見れば、これはこれで、とんでもない本数だろう)

 因みに、一覧の作品に付いている番号で、最初に付いているのは見た順序。2番目に付いているのは、オススメと言うか、私自身が感銘を受けた順位だ。

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 オススメ1位の「ライフ・オブ・パイ」は名匠アン・リー監督渾身の1作で、監督の下、3,000人のスタッフが4年の歳月をかけて創り上げたものだと言う。原作はカナダ人作家が2001年に上梓した、英国ブッカー賞受賞のベストセラー小説で、「児童文学の傑作」の誉高い作品。

 先日、監督へのインタビュー映像を見たが、監督はアジア・ヨーロッパ・アメリカと、文化圏による作品に対する反応の違いを興味深く語っていた。この作品は主に監督の故国台湾で撮影されており、監督は、カナダ人作家によって書かれた、インド人青年が主人公の原作を、アジア人である監督が、映画として世界の人々に届けることに大きな意義を感じていると語っていた。


 家族と共に移民先のカナダに向けて出航した船の遭難により、ただひとり太平洋に投げ出された少年パイ(←自ら付けた愛称)。救難ボートに偶然乗り合わせたのはシマウマ、ハイエナ、オランウータン、ネズミ、そしてベンガルトラだった。死を覚悟する極限状況の中で、少年は何を見、体験し、考えたのか?


クリックすると元のサイズで表示します 全編を通して「宗教と人生」「神仏と人間との関わり」を哲学的に語った印象が強い本作だが(それだけに、宗教色を嫌う人や、宗教に興味の無い人には敬遠されがちか…その意味で"人を選ぶ作品"なのかもしれない)、200日以上に渡る漂流の冒険譚の中では、美しく鮮烈な映像表現が光る。

 3D映像作品としては先駆の「アバター」に遠く及ばない、との評がある一方で、「大変な映像技術の進歩が凝集しているわけだが、『驚異の映像』ではなく『ものがたりの驚異』を前面に出しているところに、この映画の勝利がある。」との見方もある。

後者は映画評論家の宇田川幸洋氏が新聞の映画評で述べていたもので、彼の言を踏まえて本作を見てみると、「ものがたりを語るための道具としての映像表現」の素晴らしさに改めて感服する。本作ではまず、ものがたりありき、なのである(その"ものがたり"に心動かされたからこそ、監督も映画化を思い立ったのだろう)

 アン・リー監督はどのような手法で、文字として綴られた小説から得た自身のイマジネーションを、映像技術のスペシャリスト達に伝えたのだろう?イマジネーションを映像へ、と言うと、今は亡き黒澤明監督の絵コンテが真っ先に頭に浮かぶのだが、今や映像制作に膨大な数の技術者が携わる映画制作の現場で、本作のようなスケールと完成度の映像表現を実現させるのは容易ではなかっただろう。

 冒険譚でほぼ出ずっぱりのベンガルトラは殆どがCG映像らしいが、スタッフはモデルとなったトラの動きを丹念に、それこそ起きてから寝るまでを観察し、200万本とも言われるトラの体毛の表現にも15人のスタッフが専従したらしい。監督が目指す映画の、ものがたりの世界観を表現すべく尽力した数多くのスタッフ。エンドロールで名前が紹介されることはあっても、その多くは人々の記憶には残らない無名に近い職人だ。

 その労に報いるべく、「3,000人のスタッフが4年かけて創り上げた本作を、是非多くの人に見て貰いたい」と、インタビュー映像で監督自ら強く訴えかけたのが印象的だ。自身が頭の中で思い描いた映像が、実際の映像として大きなスクリーンに映し出された時の監督の気持ちはどんなものだったのだろう?その映像によって語られる冒険譚に、どれだけ多くの人々が心を動かされるのだろう?

 ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」が登場してから3年。デジタル3D映像技術は、本作でひとつの到達点を見たような気がする。技術の高さは当然の前提として、その技術を使って物語の世界観をいかに的確に表現するのか?デジタル3D映像技術の分野は、そこが問われる段階に入ったと言えるのかもしれない。

 とにかく、本作は映画館で見なければ、その魅力が半減すると言っても過言ではないだろう。米アカデミー賞作品賞最有力とは言わないまでも、(特に邦画でその傾向が顕著なのだが)映画作品としての必然性が感じられない作品が少なくない中、本作は見終わった後、確実に「映画を見た」と満足できる1本だと思う。

映画『ライフ・オブ・パイ』公式サイト

 他の作品についても、おいおい感想をしたためて行きたい。
 
 元々、映画の鑑賞記録として始めた当ブログだが、このところ殆ど書いていなかった理由は書くのに時間がかかるからなのだが、今年は気持ちを新たに、映画についてもっと書いて行きたいと思う。何はともあれ有言実行しなきゃね


2012/7/20

『苦役列車』(2012、日本)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 先日、久しぶりに息子と2人でファミレスでランチを食べていたら、隣の席の40代と思しき2人組の女性が、ババアがドータラコータラと大声で喋っていた。細かな内容までイチイチ聞いてはいないが、何度もババアを連呼しては下品な笑い声を上げるので、せっかくのご飯も不味くなるほどだった。
 延々と人の悪口をサカナに食事なんて…言葉には何の罪もないが、使い手の使い方によって、その品性は著しく損なわれるものなのだと、よ〜く分かった。別に筆者には、誰からも尊敬を集める立派な人になろうなんて大それた考えは毛頭ないが、品性下劣な人間だけにはなるまい、と思う。

クリックすると元のサイズで表示します 表題の映画『苦役列車』を見て来た。作家、西村賢太が芥川賞を受賞した自伝的小説が原作の映画である。
 筆者は西村氏を何度かテレビで見かけたことがある。子どもも見るかもしれない時間帯の生放送で、臆面もなく「女を買う」とか「フーゾク通い」を公言するあたり、私が苦手とするタイプの男性である。(独身中年男の開き直りなのか?、それともわざとワルぶっているだけなのか?)女性を性的対象としか見ていないような気がして、お会いするのは御免被りたいタイプの男性である

 その彼の若き日を描いた自伝的小説なのだから、おそらく私が苦手とする人物像が主人公だろうとは思ったが、主演が若手でも注目のカメレオン俳優、森山未來クンなのだから見ずにはおれない(貫多の友人、日下部正二役で共演の高良健吾クンも、本来、変幻自在のカメレオン俳優なのだが、今回は実直な青年キャラで存在感が今ひとつ薄い。しかし、そういう役柄も引き受けてキッチリ演じるのが、高良クンなのである)

「ねぇ、ヤラせてくれよ」「イヤよ!」
クリックすると元のサイズで表示します で、期待の森山クンは、若き日の西村氏が投影されたであろう北町貫多を、見事に演じきっていたのである。
 15才から日雇い人足に身を投じ、浴びるように酒を飲んでは街で所構わずゲロと唾を吐き、日課のようにフーゾクに通い詰め、家賃を滞納しても悪びれず、プライドのカケラもなくすぐ土下座するもポーズだけ、臆面もなく友人には借金を申し込み、かわいい女性を見れば「ヤリたい」と言って憚らない。
 そんなどーしようもない北町貫多になりきっていた。しかし、森山クンの素の部分の清潔感で、19才にしてやさぐれた北町貫多は、ある種潔癖症の私でさえも辛うじて見るに堪える(笑)物語の主人公になっていた。

 貫多が小学生の時に父親が性犯罪を起こしたのをきっかけに一家は離散の憂き目に遭い、彼は両親が互いを愛し信頼しあい、我が子を慈しむ家庭の温もりに包まれることなく、15才で自活した。その生い立ちが、他者とマトモに信頼関係を結べない、友情や恋愛の何たるかを知らない、彼の情緒的欠落をもたらしたように思う。

クリックすると元のサイズで表示します 彼はけっして薄情な人間なんかではない。人の情に触れることなく孤独を抱きながら生きて来たがために、彼は人との関係を深める術をただ知らないだけなのだ。
 だから友情をじっくりと育み、互いに成長しあうことができない。それゆえに人は次第に彼から離れて行く。劇中、そんな一過性の出会いと離反を繰り返す貫多の姿は、見ていて痛々しかった。
 結局、「他者との距離感」や「関係性」と言ったものは、良き理解者の庇護の下、幼い頃から根気強く人と関わることを通してしか学べない、と言うことなのだろうか?不幸にも社会に出るまで「人と関わる術」を学べなかった人間は、何度となく心傷つき、孤独に直面しながら、自ら体験的に学んで行くしかないのだろう。

原作者、西村賢太氏
クリックすると元のサイズで表示します この貫多が作家自身の若き日の姿であるとするならば、後年、自身を顧みて、その生き様を私小説へと昇華できたのは、当時ただ欲望のままに動いていた西村氏にとって唯一の理性的な行為と言って良い「読書」の賜物なのだろう。
 愛すべきキャラクターではない主人公の、お世辞にも輝いていたとは言えない青春時代。 しかし、これもまた紛れもない青春の姿形なのである。人生なのである。それが作家、西村賢太によって小説という形で世に出たこともまた、人が生きることの意味を考える上で必然だったのだろう(つまり、価値のあるなしに関係なく、生まれた人の数だけ人生があると言うこと。これは紛れもない真実なのだ)
 そして、今また映画で、森山未來と言う希有な役者を得て、『苦役列車』と言う作品は新たな魅力を放っている。

 キッタナイ言葉と情けないシーンのオンパレードだけれど、私、嫌いじゃないです。この作品。

映画『苦役列車』公式サイト

【映画のオリジナル・キャラクター:桜井康子を演じたAKB48出身の前田敦子

クリックすると元のサイズで表示します 古書店でバイトする女子大生を演じた前田敦子。主人公貫多が恋して、足繁く古書店に通うきっかけとなった女性だ。
 小説には存在しない映画オリジナルのキャラクターらしいが、彼女の登場により、女性の気持ちにはてんでお構いなしの貫多の恋愛オンチぶりが鮮明となった。ともすればむさ苦しい男ばかりの物語に、華やかさも添えている。

 マスコミで、やれ「思ったより集客力ない」だの、やれ「存在感が希薄」だのと叩かれているが、今回の彼女は悪くない。寧ろ、女優業を始めて間もない(←確か、映画とドラマで出演4本目位だよね?)彼女の初々しさが、不器用な若者の青春ドラマにピッタリと嵌っている。
 映画の興行成績不振の戦犯扱いとすら受け止められる、マスコミの報道姿勢には悪意すら感じる。ひとりの若い女の子を寄って集ってイジメて何が面白いのだろう?そもそも、映画の質と興行成績は必ずしも一致しないのではないか?


2012/7/8

スープ(日本、2012)  映画(今年公開の映画を中心に)

昨日、主演の生瀬勝久らによる初日舞台挨拶付の上映回を見て来た。

映画&映画館大好きとは言え、映画鑑賞に出せるお金にはどうしても限りがあるので、見ようか見まいか迷った時には、ネットのユーザーレビューを参考にしたりするのだが(もちろん、その評価やコメントをそのまま鵜呑みにしているわけではないが)、この作品、私がユーザーレビューを見た時点で、12人のユーザーから、ほぼ5点満点に近い高評価だった。通常、どんなに見応えのある作品でも、4点以上獲得することはそう簡単なことではないのに。古今東西の名作が過去に獲得した得点を陵駕するような高得点に多少の胡散臭さを感じながらも、脇役では既に得難い存在感を示している俳優、生瀬勝久初主演映画と言うことで、私達夫婦には珍しく割引なしの一般料金で見て来た。

して、鑑賞後の感想は…それなりに面白い。キャストがベテラン、中堅、若手と充実していて、よくこれだけのキャストを集められたものだと思う。

物語は、妻に去られた生瀬演じる渋谷が、両親の離婚に傷ついた娘とのぎくしゃくした関係に悩んでいる最中に事故で死んでしまってからの葛藤を軸に描いている。今生に思いを残して死んでしまった渋谷の、娘の身を案じる姿が切ない。

展開が一風変わっている。前半は生瀬勝久と小西真奈美松方弘樹(←同じ見るなら、私は『十三人の刺客』で見たような本格時代劇俳優としての彼を見たい!)を中心に展開する"あの世"と"残された娘が生きる今生"を交互に描きながら物語は進むが、後半は登場人物も一新して、学園ドラマを思わせる展開である。1本で2本分のドラマを見せられたような転調である。特に後半に登場した広瀬アリス野村周平ら若手俳優の瑞々しい演技が印象に残った。成長した娘(伊藤歩がキレイだ!演技も巧い!)を巡るエピソードには、思わず目頭が熱くなった(ついでに言うと、今注目の美少女橋本愛の上前歯の歯並びの悪さが気になった。これは彼女の美貌が天然で、ヘンにいじっていない、と言う証拠でもあるのだが…せめて歯列矯正して欲しいところだ。しかし、安易な差し歯はご勘弁。口元が不自然になるから。)

だが、お世辞にもユーザーレビューで5点満点に近い点数を獲得するほどの傑作とは思えない。あの「サウンド・オブ・ミュージック」や「アラビアのロレンス」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「東京物語」を陵駕するような名作とも思えない。

今朝、再びユーザーレビューを見てみたら、28件に増えていた。5点が殆どの中に唯一、最低評価の1点が混じっていた。その人のコメントは「これはステマか?」

つい最近、レストランの口コミサイト「食べログ」における、企業による不正評価が問題になったばかりである。つまり、客を店に誘導する為に、店からお金を貰った会社の社員が高評価の口コミを書き込む、と言う手口である。そのことと同じではないのか?、と先のユーザーは指摘しているのだ。

私も気になって、試みにレビュー投稿者のユーザーIDで過去のレビュー投稿歴を調べてみたら、過去に投稿歴のある人は28人中、わずか6人であった。他は投稿歴が見られない1人を除き、なんと21人もが今回初投稿なのである。こんなに初投稿の割合が高いユーザーレビュー欄って他にあるのか?もしかして、先のユーザーの言うように、事務所ぐるみ?かシンパ?でステマまがいのことをしているのか?

仮にもしそうだとしたら、こんな残念なことはない。傑作とは言わないまでも、そこそこ見応えのある作品なのだから、余計な小細工で作品を徒に貶めて欲しくないものだ。映画ファンに対しても、出演者に対しても失礼だと思う。

因みに、私が敢えてこの作品に点数を付けるなら、3.5点である。

2012/6/22

『ソウル・サーファー』(2011,米国)  映画(今年公開の映画を中心に)

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 実在の女性プロ・サーファー、ベサニー・ハミルトンの不屈の半生を直球勝負で描いた本作。

 試写会の評判がすこぶる高く、気にはなっていたが、サーフィンに全然興味のない私は、見るのを躊躇っていた。しかし、テレビでベサニー本人のインタビュー映像を見た時、俄然彼女という人間に興味が湧いた。苛酷な試練を受けながら、なぜ、そこまで明るく前向きでいられるのか?彼女はいかにして、自身に与えられた試練を克服したのか?それが知りたくて、レディースデイを利用して、本作を見て来た。


 四方を海に囲まれたハワイで、家族の温かい愛情の下伸び伸びと育ち、10代前半で天才サーファーとして頭角を顕したベサニー。サーフィンのジュニア大会で優勝し、よりハイレベルな地区大会出場を控えた13才のある日、彼女は無惨にもサメに肩先から10cm程度を残して左腕を食いちぎられてしまう。

 天才少女の悲劇に、ここぞとばかりに群がるマスコミ。人の不幸に群がるマスコミの習性は何処も同じようだ。しかし、家族や親友とその家族、彼女を幼い頃から知る地元の人々や信仰の仲間、そしてサーフィンを愛する人々は、彼女のことを心から思い、陰に日向に支援する。

 何より驚いたのは、彼女のサーフィンへの強い思いだ。先のインタビューによれば、事故からわずか1カ月で、彼女はサーフィンを再開したと言う。「だって、サーフィンのない人生なんて考えられないもの。」〜サーフィンへの一途な思いが、事故の現場となった海に再び戻ることへの不安と恐怖に優ったと言うのである。

 サーフィンでは、波に乗るためにボード上で左右の腕と体勢でバランスを取るだけでなく、乗る波目指してサーフポイントまで両腕で力強くパドリングしなければならない。だから左腕の欠損は、サーファーにとって大きなハンデとなる。それでも、サーフィンをこよなく愛し、サーフィン抜きの人生など考えられない彼女は、サーフポイントまでのパドリングに悪戦苦闘し、波に乗るどころかボードに立ち上がることすらできず、何度も波にのまれながらも、果敢にサーフィンに挑み続けた。

クリックすると元のサイズで表示します そして、大方の予想を覆し、予定通り地区大会に出場を果たすのだ。以後、彼女がひとりのサーファーとして完全復活を果たすまでを映画は描くのだが、とにかくその不屈の闘志には恐れ入る。

 その闘志に火をつけた、クールなライバルの存在も忘れてはいけないだろう。ベサニーに常に闘志剥きだしのライバルが、事故後も変わりなくライバルで在り続けたことで、ベサニーは自尊心を失わずに済んだと言っても良いのだ。

 そして、彼女が試練を克服する上で、周囲の励ましと共に大きな支えとなったのは信仰であった。本作は、この辺りをストレートに描いていて、キリストの教えがしばしば登場する。日常生活で宗教との関わりが深いとは言えない一般の日本人には、違和感を覚えるところだろうか?

 それにしても…「神は信じる者に、なぜ、敢えて試練を与え給うか?」

 キリストの教えを受け入れられない人間には、現世で救いどころか、試練を与える神の御業(みわざ)は理解し難いものだろう。

 しかし、逆に信仰が人生の一部になっていない人間は、苦境に立たされた時、何を頼りにすれば良いのだろう?日本が欧米やイスラム圏に比べて自殺率が高いのは、信仰の有無(自死を禁忌する戒律による縛り?それからすると、中東で繰り返される自爆テロは教義に反する行為のはずだが…)も関係しているのかもしれない。

 ともあれ、終始一貫、若くして強靱な精神力で苦難を克服するベサニーの姿に、圧倒され続けた。その強さは信仰に裏打ちされたものなのかもしれないが、それに優るとも劣らない彼女の全身から溢れんばかりのサーフィンへの愛情や、ひとりの人間として困難に立ち向かう直向きさにもまた、見る者は心打たれるのだと思う。

クリックすると元のサイズで表示します ベサニー役を演じたアナソフィア・ロブは愛らしい容貌で、大柄でスッキリとした顔立ちのベサニー本人とは似ていないのだが、その力強い目の輝きがベサニーの意思の強さを物語って良かった。
 
 彼女をスクリーンで見るのは、これで5作目。最初が『チャーリーとチョコレート工場』。以後、『テラビシアにかける橋』『ジャンパー』『ウィッチマウンテン』と見て来たが、その存在感と演技力はスター性十分。本作を見る限り、子役から大人の女優として順調に脱皮しつつあるようで嬉しい。

 親友のアラナ役で、名優ジャック・ニコルソンの愛娘、ローレン・ニコルソンが共演。母親役がヘレン・ハント、父親役がデニス・クエイドと、芸達者なベテラン俳優が脇を固めて、両親の細やかで深い愛情を見事に表現していた。劇中では彼らが本当の親子に見えた。こういう実録物では、キャスティングが成否を決める重要なポイントのひとつなんだとつくづく思った。

 最後に、ベサニーの片腕を失った状態はCGで編集していると思うのだが、違和感が全くなく、アナソフィアが本当に片腕を失ったかのように見えた。その技術の進歩には本当に驚くばかりだ。下の写真は、ベサニー・ハミルトン本人。自信に溢れた笑顔が素敵だ。

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2012/5/9

『別離』と『わが母の記』  映画(今年公開の映画を中心に)

映画『別離』より。妻シミンと夫ナデル
クリックすると元のサイズで表示します 『別離』は2011年制作のイラン映画。ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作であり、今年の米アカデミー賞外国語映画賞受賞作

 『わが母の記』は井上靖原作の自伝的小説の映画化作品で、認知症の母を演じた樹木希林の演技が絶賛されている。

 『わが母の記』は全国ロードショー公開で大々的に公開中だが、『別離』は単館系での公開で上映館が少ない。どちらもヤフーの映画ユーザーレビューでは現時点で4.2ポイント前後と高い評価を得ている。

 物語の舞台は遠いイランのテヘラン(夫の会社の中東地域の営業拠点はテヘランにあった。テヘランは多くの日本人が思う以上に大都会なのである)と此所日本ではあるが、どちらも「親の介護」を巡る家族の物語として見ると、彼我の共通点と違いが窺えて興味深い。『別離』の作品レビューとしては、ヤフー映画欄に記載された清水節氏のレポートがほぼ完璧なので、ここでは2作品を比較しながら私なりの感想を述べたいと思う(と言っても、より感銘を受け、いろいろ感じることの多かった『別離』の比重が大きいかな)

 「別離」の時代設定が現代、「わが母の記」が1960年代と言う違いは、そのまま家族の在り方の違いとも言えるだろうか。まだ3世代同居の世帯が多く、また兄弟持ち回りで老親や障害者の身内の面倒を見ることも珍しくなかった1960年代の日本(実際、母は兄弟持ち回りで、当時受け入れ施設がなかった知的障害者の妹の面倒を見ていた。私が幼い頃に、その伯母が私の家族と同居した時期もあった)。その50年後の現代の在りようがそのまま、「核家族化」と「少子化」で老親の介護に右往左往する息子家族の姿として、イラン映画「別離」で描かれている、と思った。

 都市化の進展は人間のライフスタイルを変えた。特に高い教育水準で中流以上の生活水準を手に入れた層は、階層の維持もしくはより上位層への移動の手段としての「教育の価値」を認識し、子弟の教育には熱心だ。しかし、教育にはお金がかかる。加えて医療水準が上がったので、乳幼児死亡率も格段に低下した。かくして、特に中流以上の層には「子供を少なく産んで、しっかり育て上げる」と言う価値観が出来上がった。

 さらに最近、日本では、「個の尊重」をベースにした価値観の多様化や、生活の利便性の劇的な向上もあって、社会的に婚姻圧力も弱まり、生涯結婚しない単身者も増えた。実際、都市部の独身者の比率は高く、前日にも「都内23区の半数が単身世帯」と言う報道を目にしたばかりだ(←世代差を無視した少し大雑把な関連づけかもしれない。だが、例えば40代以降の男性の婚姻率がわずか数%と言う最近の調査結果から類推しても、都内在住の40代男性の3割ないし4割を占める独身男性が生涯独身を貫く可能性は高いのではないか?身近でも有名企業に勤める都内在住の49才の従兄弟が未だに独身で、その行く末を案じる田舎の両親に対して、本人は「現状、独身であることで何の不便も不足も感じていないので、結婚する必然性を感じない」と言ったらしい)。 

 そんな中で都市化の顕著な国々、地域の多くの現代人は、「老親の介護をどうするか」と言う問題に直面している。特に、少子高齢化の進む日本では、「支える側」と「支えられる側」の量的バランスが崩れつつあり、社会保障制度も根本から構築し直さなければならない事態にまで発展している。

 映画「別離」では、その老親の介護と言う問題に、さらに個々の価値観の違いによる衝突が加わり、息子一家は家族離散という深刻な事態に見舞われている(そもそも離婚が妻の側から申し立てられ、その理由も意外。イランは中東の中でも女性の教育レベルが高いとは聞いていたが、中流以上の階層では欧米並みに女性の自立意識が高いようだ。女性アーティストも数多く活躍しているらしい。今日たまたまニュースで目にした、未だ女性のスポーツ振興に理解のない、女性のオリンピック参加にも消極的な姿勢を崩さないサウジアラビアとは大違いだ)

クリックすると元のサイズで表示します それからすると、高名な作家、井上靖の家族をモデルにした「わが母の記」の家族は格段に恵まれている。作家伊上(いがみ)には、故郷で母の面倒を見てくれる姉夫婦がおり、伊上自身、妻と娘3人に、自宅に住み込みの家政婦や秘書や運転手を抱えているので、時折姉夫婦ののっぴきならない事情で母の世話をすることになっても、人手が(もちろん経済的な余裕も)十分にあって困ることはない。

クリックすると元のサイズで表示します だから、伊上はことさら母の介護で悩むことはないのである。彼の関心はもっぱら「幼い日に母に捨てられた」と言う苦い経験から来る母親の自分に対する愛情への懐疑であり、老いた母親にそれを問い質したいと言う思いなのだ。

 もちろん「わが母の記」は、その母子や家族の愛情が主題だとは思うが、自分の経験と関心に照らして見ている側としては、老親の介護が身につまされる問題だからこそ、伊上の恵まれた境遇の上での苦悩に、介護には直接関わらない人目線のお気楽さを感じて、今ひとつ共感できなかった。寧ろ、母の世話の大半を担う、電話口でグダグダ愚痴を並べる姉の心情を慮らずにはいられなかった。それは私が、認知症の父方の祖父と父の介護で、何かと苦労の絶えない母の姿を見て来たからなのかもしれない。


 それでは改めて、「別離」について。

 近年の米アカデミー賞の選考傾向には、ハリウッドの興行的思惑が見えて、私は些か不満を持っている。しかし、こと外国語映画賞に関しては、多少政治的主張が見え隠れするものの、他の主要部門と比較してビジネス的縛りが少なく、概ね良心的な選考が貫かれている印象があって、その結果を好感を持って受け止めている。

 さらに米アカデミー賞は賞の行方もさることながら、受賞スピーチに素晴らしいものが多く、それが楽しみでテレビ中継を見ている部分が大きい。

 今回の『別離』の受賞スピーチも素晴らしかった受賞式でひとり壇上に上がったのは監督なのか、プロデューサーなのか不明だが、彼のスピーチには万国共通の"クリエイターの心意気"のようなものが感じられて、さまざまな体制下で、いかなる制約があっても、映画人が映画を作り続けることの意義を改めて考えさせられた。せっかくなので、以下に書き留めておこうと思う。

 「アカデミー協会とソニー・クラシックス、
  友人のトムとマイケルに感謝します。
  世界中のイラン人が喜んでいることでしょう。
  受賞したからだけではありません。
  戦争が囁かれ、政治家達が攻撃的発言を交わしている中、
  本作ではイランの素晴らしい文化が描かれたからです。
  政治の影で身を潜めている豊かな歴史ある文化です。
  誇りを持って、この賞をイラン国民に捧げます。
  あらゆる文化文明を尊重し、対立や怒りを嫌う人々に。

  どうもありがとうございます。」


 『シリアの花嫁』でも感じたことだが、芸術文化には「互いを尊重しあう」と言う理念の下、現実世界での利害関係や、思想信条の違いや、それに伴う対立を軽々と越える力がある。芸術文化を介した交流は平和裏に互いを知る機会であり、相手を知らないが故の誤解を解き、互いの距離を縮める働きがある。

 つい先日まで、竹橋の東京国立近代美術館で開催されていた米国の鬼才ジャクソン・ポロックの回顧展では、テヘラン現代美術館から、彼の最高傑作の誉れ高く、時価200億円とも言われる作品《インディアンレッドの地の壁画》(1950年)が出品された。本作は1976年、パーレビ国王の時代にテヘランに渡り、32年前のイラン革命以降、門外不出とも言われた曰く付きの作品だ。

 今日のポロックの評価を考えれば、彼の作品を所蔵した当時のイラン美術界の見識の高さが窺え、昨今、(欧米の「イラン包囲網」とも言うべきメディア戦略の結果か、)一般的には「米国と対峙するガチガチのイスラム原理主義国家」としてのイメージで捉えられがちなイランの、文化国家としての素晴らしい一面が見えるようだ。ポロック作品がイランでも20世紀アートの至宝として認知されていることは、芸術文化には国境がないことを如実に物語っているとも言える(おそらく、イランが偶像礼拝が固く禁じられているイスラム国家であるが故に、ポロック絵画の抽象性が受け入れられ易かったと言うこともあるのだろう)

 ジャクソン・ポロックは、20世紀の半ばには既に経済と軍事で世界のトップに君臨し、さらに文化の中心国としての地位も得ようと切望していた米国の"切り札"とも言うべき存在だったらしい。床に広げたキャンバスに絵の具を降り注いで描く「アクション・ペインティング」で一世を風靡したポロック。

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 興味深いのは、彼が遺した言葉によれば、彼もまた20世紀の巨匠ピカソを強烈に意識し、ピカソを越えようと、自身の画風の確立に苦悶しながら邁進した点だ。パリに学んだ岡本太郎も然り。当時のアーティストは、誰もがピカソと言う巨大な壁に挑んでいたのだなと思う。

ピカソ《男と女》国立西洋美術館蔵 
クリックすると元のサイズで表示します 一方、ピカソは他の誰でもない、まだ出会っていない"自分"を求めて、「創造と破壊」(=どの作風も一定の評価を得られたのに、その評価に胡座をかくことなく、ひとつの作風に拘泥することもなく、飽くなき探求心で新たな作風の確立を目指した)を繰り返した、まさに何人分もの作家人生を、ひとりで歩んだ人と言えるだろうか?多くの作家はただ一つの画風を完成させることに、その一生を捧げるものなのに!その膨大な創造のエネルギーに匹敵する作家を、私は他に知らない(写真の作品、実際は畳1畳半ほどの大きさ。明るい色調で描かれた大胆に絡み合う男女の姿に、大らかなエロチシズムと生命賛歌が感じられる。ピカソの"老いてもなお旺盛な創作意欲と生命力"を物語る88才の時の作品)

 先日、「もしかしたら戦争が勃発するかもしれないから、《インディアンレッド》はこのまま日本に置いておいた方が安全じゃない?」と軽口を叩いている人がいたが、とんでもない寧ろ戦争が勃発しないよう、政治家も外交もあらん限りの手を尽くすべきである。ただ、「核開発を許すな」と言う大義名分の陰に、どうも戦争ビジネスの匂いプンプンなので、何が何でも戦争に持って行きたい勢力が確実にいそうだ。その点では市民弾圧の続くシリアも、他国に軍事介入の言い訳を与えて危険な状態だろう。何と言っても人類の近代には、不況の出口が見えない閉塞感に覆われた時代に、戦争特需で国家経済を回復させて来た歴史があるだけに、今後の動向には油断ならないものがある。

クリックすると元のサイズで表示します 少し脱線が過ぎたみたいだ映画に話を戻すと、先のスピーチでは特に後半部分に感銘を受けたのだが、半ばの「本作ではイランの素晴らしい文化が描かれたからです。」の部分が、個人的には引っ掛かっている。

 本作のどこに、イランの誇るべき文化が描かれていると言うのだろう?老いて病んだ父を、妻と別れてまで介護する男性の親孝行のことなのか?別れてもなお、トラブルに見舞われた夫を気遣う妻とその家族の優しさか?両親のかすがいになるべく、両方に気を遣う娘の健気さか?失業で心を病んだ夫を、身重な身体で働きに出て支える妻の献身か?或いは、トラブルに見舞われた生徒の親に助け船を出す、教師の親切心か?

 確かに、誰もが誰かを気遣う優しさに溢れてはいる。しかし、その為に誰かを傷つけたり、信頼関係を損なう結果にもなっている。この1度結んだ人間との絆の深さは、今日の日本では失われつつあるものなのかもしれない。もしかしたら、これが宗教を強固なバックボーンとする人間社会の強さなのかもしれない。しかし、私は寧ろ、こうした人間関係の在り方そのものよりも、この複雑な人間ドラマを、キャストの繊細な感情表現と監督の巧みな演出で、あたかもドキュメンタリーのような現実感を持たせながら、サスペンスタッチでスリリングに描き出したことが、イランの映像文化のレベルの高さを見せつけて素晴らしいと感服するのだ。

クリックすると元のサイズで表示します また、本作では各々の登場人物が、自身のプライドや秘密を守りたいが為にちょっとずつ嘘をつくことが、事態の混乱に拍車をかけるのだが、そこで気になるのが、男女問わず、やたらと「名誉を汚された」と憤ることである。

 彼らにとって名誉とは何なのか?ことほどさように守りたいものなのか?守るべきものなのか?江戸時代の武士ならいざ知らず、現代の日本では殆ど耳にしない言葉なので、劇中で何度も登場する度に違和感を覚えた。男女差、身分差に関係なく拘るプライドの正体とは、一体何なんだろう?やはり一神教の選民思想に基づく強烈な自尊心が、その根底にあるのだろうか?

 翻って、現代の日本人にはイラン人のような強固な精神的バックボーンがないせいか、プライドも希薄で、他者からどんな扱いを受けても、憤ることがないのだろうか?この頃、周りを見ても、怒るべき時に怒らず、何事も事なかれ主義で済ます人が多いような気がする。これでは、良くも悪くも「主張したもん勝ち」がグローバル・スタンダードである国際社会で、日本人はその立場を危うくする一方だと思う。
 
 「ギリシャが破綻」と言うニュースで日本の円が買われ円高となる時代。否応なく海外との距離は縮まっており、関係性も深まっており、今後積極的に海外に打って出なければ経済的にもジリ貧が決定的な日本。謙虚さが美徳と教えられて来た日本人にはなかなか頭の切り替えは難しいのかもしれないが、最早グローバル・スタンダードに照準を合わせるしか、選択肢はないのかもしれない。

 しかし、互いに主張して譲らない訴訟社会は、人を信じることが難しく、それ故に心も安まらず、生き辛い社会に思えて仕方がない。正直なところ、日本がそんな社会になるのは嫌だな。




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