2009/11/24

(6)ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない  映画(2009-10年公開)

クリックすると元のサイズで表示します 昨日、夫と映画を見た。小池徹平主演の『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』と言う長たらしいタイトルの映画だ。中学時代に受けたイジメをきっかけに8年間自室に引きこもり状態にあった若者が、一念発起して就活したものの、よりによって労働基準完全無視の所謂「ブラック会社」に就職してしまった顛末を、面白おかしく描いている。原作者の実体験に基づく実話らしい(←どうも2ch発らしい)

 全編ブラックなユーモアに包まれているが、お笑いタレント品川ヒロシ演じるゴーマンなリーダーが、何かにつけ「バーカ」を連発するのが正直不快だった。お笑いタレントにゴーマン役を配して笑いを取る狙いらしいが、それで人を人と思わないそのゴーマンさが薄まるわけでもない。人を蔑ろにしている本質は変わらないのだ(ただし、常々書いているように、他人に対して威圧的な態度を取るのは、自分の自信のなさの裏返しだったりするものだ。「暴言」は自分の弱さをひた隠す為の鎧のようなもの?!)。「何が何でも納期を守ります」と言うリーダーの姿勢は、かつてのモーレツ社員の名残りなのかもしれないが、怒鳴って、脅して、人が動くわけがない。

 本作ではIT業界のピラミッド構造の底辺に位置するソフト製作会社の劣悪な就業環境が辛辣に描かれているが、ピラミッドのより上位に位置する発注会社の無謀な納期設定で、何日も続く徹夜作業を強いられる(←業界用語で”デスマ”=Death Marchと言うらしい)姿が気の毒だ。しかし、そんな中でも(半ばヤケクソで?!)仕事をやり遂げる主人公。

クリックすると元のサイズで表示します 劇中劇としてしばしば登場する戦場での戦闘服姿は、そのままIT業界の底辺で働く彼らの立場を表している。「ソルジャー」とは、仕事の前線で働く実動部隊要員を指す隠語で、管理部門の人間が実動部隊の人間に対して、ある種の侮蔑を込めた呼称である。主人公の仕事への直向きさは、そうしたソルジャーとしての立場を甘受してまでも、過去の弱かった自分と決別しようとする彼の覚悟のようなものが見えて、同じ年頃の息子を持つ身には感涙もの。

 「NEET」であろうが、「中卒」であろうが、本人に自分を変えたい、変わりたいと言う強い意志があれば、途中いろいろ困難はあっても人は変われるのである。逆に「NEET」や「中卒」を理由に人を侮蔑し、その努力を嘲笑う人間の方こそ、人の在り方としては醜悪だと思う。

 子ども社会にも、大人社会にもはびこる、こうした差別やいじめの構造には根深いものがある。同じグループに属するメンバーの中で、自らが少しでも優位に立ちたいと思う人間がいる限り、いじめはなくならないだろう。そういう人間は常に同じグループ内のメンバーの差異に敏感で、それをいじめの材料にするものだ。一方で、そうした人間のアグレッシブさは社会を活性化させるエネルギー源となるのも事実。「霊長類」と自負してみても、所詮人間も「弱肉強食の世界」に生きる動物と変わらないと言うことだろうか?となれば、「いじめられっ子」は自ら強くなるしかない(もっとも根っからの悪人や冷血人間は、そうそういないと思うが…自分の行いを時々省みる謙虚さは持って欲しい)

 本作で次々と主人公に立ちはだかる壁は、顧みれば彼の人間的成長を促す課題だった。そして壁の前で苦悩する彼を支えたのもまた、人であったのだ。良き先輩の励ましの言葉が彼を支え、前へ進むよう導いた。こうした人との出会いは、主人公が自室から外へ一歩踏み出して初めて可能だったと言える。とどのつまり、自分で動き出さなければ、状況は何も変わらないと言うことなのだろう。本作は、ブラック会社の実態を描いた暴露話の体裁を取りながら、その実なかなか一歩を踏み出せない若者への応援歌、とも言うべき作品なのかもしれない。

 「君はなぜ働くんだ?何の為に働くんだ?」〜その問いに対する答を、主人公は彼なりに導き出したようだ。

 
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2009/11/1

(5)母なる証明(原題:Mother,韓国)  映画(2009-10年公開)

クリックすると元のサイズで表示します「究極の母性愛」に恐怖するも、共感する自分がいる

 久々に映画の感想を書いてみようと思う。選んだ1本は韓国映画『母なる証明』。韓国の鬼才、ポン・ジュノ監督の最新作である。監督が「韓国の母」と呼ばれるベテラン女優キム・ヘジャの「美ぼうの内側に秘めた感情の激しさと繊細さにインスピレーションを受けて企画した」(2009.5.19シネマトゥデイ記事)作品らしい。

 とにかく、先ずキム・ヘジャ演じる「人目も憚らず息子を溺愛する母ありき」の作品。この母の人物造形があまりにも特異で、冒頭から印象が鮮烈。

クリックすると元のサイズで表示します 究極の母子愛を描くべく、この「強烈な母」の息子役に選ばれたのは、兵役後本作で本格復帰の人気俳優、ウォン・ビンである。

 5年と言う長いブランクを経て再登場した彼は、ファンが彼に対して常々抱いていた、或いは期待しているイメージを敢えて壊すような役柄に挑んでいる。そこにウォン・ビンの復帰への並々ならぬ意気込みを感じて、個人的には好印象。

 ポン・ジュノ監督作品は『殺人の追憶』『グエムル-漢江の怪物』と見て来たが、1作ごとに違う作風で、今回もどんな作品かと期待したら、昔からよくある「母もの」と来た!しかし、そこは奇才ポン・ジュノ監督。描いているのは、従来の「清く、正しく、美しい母性愛」ではなく、「力強くもエゴ丸出しで、他人のことなどお構いなしの特異な母性」なのだ。その身も蓋もないえげつなさが、母性と併存する人間の本性の負の部分を率直に描出していて、理想像を求めて止まない美談仕立てよりも、却って胸に迫るものがある。


 物語は、韓国のとある田舎町で起きた殺人事件を巡るサスペンスだ。その中心に据えられたのは、薬草の加工、販売で細々と生計を立てる、貧しい母ひとり子ひとりの家庭。母(キム・ヘジャ)は、知的障害のある息子トジュン(ウォン・ビン)をひたすら溺愛している。その溺愛を一身に受けるトジュンはと言えば、遊び仲間のジンテとつるんで度々警察沙汰を起こすものの、周囲には理解者も少なくない。

クリックすると元のサイズで表示します そんな彼がある日、町で起きた殺人事件の容疑者として逮捕される。

 田舎町で久しぶりに起きた凶悪事件に、不謹慎にも色めき立つ警察や町の人々。衆人環視の中、執り行われる実況検分。ズサンな田舎警察の捜査。母の切なる訴えにも、真摯に取り合おうとしない弁護士。度重なる面会時のやりとりでも、一向に判然としない息子の事件当日の記憶。そんな状況の下、息子の無実を信じて疑わない母は、自ら真犯人の追及に乗り出す…


 思い起こせば2年前の韓国周遊旅行は、釜山を起点にソウルまで、ワゴン車を駆って4日間で韓国に点在する世界遺産を巡る旅だった。後半のソウル及びその近郊は殆ど雨に祟られた為、比較的天気に恵まれた前半の慶州を中心とする地方の方が、より強く印象に残っている。その意味では、本作で描かれた風景、町並み、人々の暮らしは、私が個人的に抱く韓国のイメージにかなり近いものであったと言えるだろうか。

 どんな国も首都や商都と言われる所にはその国の富が集中し、国の威信をかけて厚化粧を施している。文明生活の利便性を享受すると言う意味では、東京もソウルもケニアのナイロビもそれほどの差はないのである。とどのつまり世界に数多ある国々を先進国、中進国、開発途上国とカテゴライズしているのは、地方のインフラ状況であったり、些細な点を挙げれば、トイレット・ペーパーやティッシュ・ペーパーの材質であったりするのだろう(実際、韓国旅行中、地方の食堂のトイレはどこも一応水洗トイレではあったが、浄化槽の問題なのか、些か固めのトイレットペーパーを流すことができなかった。しかも個室の隅に使用済みのトイレットペーパーが堆く積み上がっていて、不衛生極まりなかった因みに3泊4日で約12万円の、けっして安くないツアーでの話である。経済成長著しいトルコも地方に行けば、似たような状況であった)。その意味で、各国の原風景や独自性は、地方の風土・風俗でこそ見いだせるものなのかもしれない。


 物語の舞台である地方の田舎町は、首都ソウルの繁栄とは対極の、ひなびた佇まいを見せている。映画が始まって間もなく、その郊外にあるゴルフ場を目指して、黒塗りの高級車が閑散とする町中を走り抜けるシーンがある。そのシーンはほんの一瞬の出来事を映しながら、弥が上にも都市と地方の経済格差を見せつけているようだ。と同時に「厚化粧を施した都市」と「良くも悪くも素顔をさらけ出している地方」、さらには「従来の”母もの”」と「一種異様な本作」の対比を暗示して、何やら象徴的である。

 最初から最後まで「母」の強烈な"存在感"と"執念"と"狂気"と"愛"に圧倒されながらも、同じ一人息子を持つ身としては、共感する部分もある。それは自分の内に、彼女と同種の母性(偏愛?それとも狂気?)の存在を感じるからだろう。敢えて「母」の名前が劇中で登場しないのも、そのキャラクターに普遍性を付与しているようで意味深。あな恐ろしや。

 それにしても韓国映画。数多ある韓国での公開作の中から、日本では厳選された作品が公開されているのだとは思うが、所謂”ハズレ”がない。特に人間の逃れられない「業」のようなものを描かせたらピカ一である。必要とあれば残酷描写にも躊躇なく、その徹底したリアリズムは、見る者の心をエグるようである。毎回見終わって直後は後味の悪さに辟易しながらも、その本物(本格?)志向が病みつきになり、韓国製サスペンス映画の新作が出る度に見てしまう自分がいる。

『母なる証明』公式サイト



【トジュンの悪友ジンテのキャラクター】

ジンテはトジュンが知的障害者であることを利用して自分の犯罪行為の言い逃れをするような卑怯な男で、友人の親から平気で金を巻き上げるような薄情な男だが、その一方で、彼の相手に有無を言わせぬ”ジャイアン”的腕力は時に頼りになる。こういう小狡い男は個人的には嫌いだが、案外世渡り上手に(要領良く)生きて行くタイプの人間なんだろうなあ…

【不謹慎にも、映画を見ながら顔面相似形が気になって気になって…】

「母」役のキム・ヘジャさんが「オノ・ヨーコさん」に見えて仕方なく、ウォン・ビンは以前から指摘のある「若かりし頃のキムタク」を彷彿させ、悪友役のジンテ演じるチン・グが角度によって「中居正広」に見えたり、「成宮寛貴」に見えたりで、物語に集中したいハナコとしてはチョット困った

【トジュンのアキレス腱】

自分が幼い頃にも、身近にトジュンのような人がいた。知的障害がそれほど重篤でなく、自分の知的障害にある程度自覚があるから、他人の心ない言葉により一層深く傷つくのかもしれない。果たして彼の心の目に、この世界はどのように映っているのだろう。

ただし、トジュンには無垢で邪気のない行動の中に、時折年齢相応の性衝動が織り込まれ、どこか危ういところがある。障害者の性をタブー視せず、障害者の人物造形にも徹底したリアリズムが貫かれている点が、本作を見応えのある人間ドラマにしている。

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2009/7/22

2009年上半期 映画ミシュラン はなこ版(2)  映画(2009-10年公開)

◆当初の記事が長くなり過ぎたので、前編、後編に分割しました。以下は後編です。


なかなかの佳作(この辺りからは順位は関係なし、見た順)

★★★

写真は『ディファイアンス』より。ダニエル・クレイグ
クリックすると元のサイズで表示します11.永遠の子どもたち:哀しく切ないファンタジー。母の我が子への思いは永遠に…

12.禅〜ZEN:生真面目なまでに曹洞宗の開祖、道元の生涯を描く。

13.ディファイアンス:WWU時にあった、知られざるユダヤ民族の物語。ダニエル・クレイグ主演。地味だけれど見応えある佳作。

14.誰も守ってくれない:名子役、志田未来が加害者の妹を演じ、加害者家族の悲劇的側面を描く。マスコミの自己批判とも取れる内容に、あのフジテレビが作ったと言うのが意外。

15.ジェネラル・ルージュの凱旋:堺雅人の好演が、最後まで惹きつけてくれた娯楽作。

16.ザ・バンク〜墜ちた虚像:今更のように感じる、国際紛争が巨利を生むビジネスとして成立してしまうシステムの恐ろしさ。巨悪に立ち向かう個人の非力に慄然とする。強大な権力を得たかに見える組織の人間でさえ、すげ替え可能な部品(パーツ)に過ぎないのだ。

17.おっぱいバレー:これも実話に基づく作品。際どいタイトルとはミスマッチな青春賛歌。綾瀬はるかの清潔感が好ましく、後味爽やかな佳作。その際どいタイトルゆえに、マトモな観客を遠ざけ、ちょっと危ない観客を惹きつけたように見受けられるのが残念(制作側が期待したほど観客動員数が伸びなかったらしい。私が見た時は後方に変態オヤジがいて、上映中に奇声を発して大迷惑だった。本作は「タイトルで損した」と言う声が少なくない)

18.ニセ札:吉本のキム兄初監督作品。終戦間もない奈良の山里で起きたニセ札事件を描く。何より倍賞美津子が素晴らしい。顔に深く刻まれた皺を隠すことなく、演技力で魅せる彼女の代わりが、現在の邦画界に果たしているだろうか?(後に続く女優としては、『ディア・ドクター』でも好演した余貴美子の名が浮かぶ)

倍賞美津子インタビュー記事(産経新聞)

19.チェイサー:韓国の犯罪サスペンス映画。その残虐性、猟奇性は同種の米国映画を陵駕する。そこまで徹底して残酷描写できる冷徹さは理解不能。日本では絶対作れない映画。トム・クルーズがリメイク権を買ったらしいが(←夫からの情報)、おそらくクライマックス部分は内容を改変するんだろうなあ…トム・クルーズ的甘さで。スマートに描いたら、オリジナルの怖さは再現できないと思う。

20.天使と悪魔:ラングドン教授再登場。前作『ダ・ヴィンチ・コード』より分かり易く面白かった。イタリア観光名所をジェットコースターな展開で見せてくれる。同時に知られざるヴァチカン内部をのぞき見る面白さ。

21.レッドクリフ パート2:いよいよ物語は核心の「赤壁の戦い」に。とにかく中国ならではの人海戦術で見せる合戦シーンは大迫力。

22.チョコレート・ファイター:タイ発の本格アクション。しかも主人公は可憐な少女。テコンドーの名手らしいが、恐るべき身体能力で怒濤のアクション・シークエンスをこなす。エンドロールのメイキング映像で、撮影時の凄まじさが垣間見える。我が日本の阿部寛がヤクザ役で登場し、日本では絶対見せないであろう全裸シーンも交えて熱演。正直、ビックリした。

23.消されたヘッドライン:よくあるマスコミの不正追及ものと思いきや…どんでん返しに次ぐどんでん返し。いつもながらラッセル・クロウは巧い。名女優ヘレン・ミレン、今や中堅となったベン・アフレックが脇を固め、手堅い演技で魅せる。

24.ハゲタカ:数多あるテレビドラマの映画版にしては上出来な仕上がり?!大森南朋が主役を張って好演。経済ドラマと言えば、今や中国を無視できないと言うことか。しかし、国営?放送局発ドラマが、よくここまで中国を狡猾に描けたなあ…と驚く。

25.いけちゃんとぼく:幼い日の、”心の友”と言う存在のかけがえのなさ。大人は懐かしく、子どもはリアルタイムに共感するのだろうか?

番外編〜評価控え(これはもう私の”趣味”の問題なので、映画としての出来不出来は言えないと言うか関係なく楽しめた作品、順不同)

1.ザ・ムーン:アポロ計画に関わった宇宙飛行士へのインタビューと当時の映像を中心としたドキュメンタリー。今や70代、80代であろう彼らの若々しさ、格好良さには驚かされる。月面から見た地球の姿は必見だ。

2.マンマ・ミーア:アバの楽曲がすべて。些か雑な作りもご愛嬌。

3.ベンジャミン・バトン〜数奇な男の人生:実はブラピとケイト・ブランシェットの共演が見たかったのだ。ブラピの若返った姿は、昨今のCG技術の凄さを物語る。特殊メイクだって、年老いた姿より、若返った姿の方が技術的には難しいのではないか?

4.ターミネーター4:前作の壊滅的駄作ぶりからすれば、ファンは本作に救われたのではないだろうか?本作から新たに三部作ということらしいが、いよいよ「ターミネーター」シリーズも大河ドラマの様相を呈して来たようだ。

5.スタートレック:SFドラマの古典が、今をときめく才能によっって新たな命を吹き込まれた、と言う感じだ。本作の成功を受けて、早々と続編制作が決まったとかで、今から心待ちにしている。

クリックすると元のサイズで表示します6.トランスフォーマー・リベンジ:続編でさらにスケール、パワー共にアップした。日本生まれのおもちゃ「トランスフォーマー」。このおもちゃに纏わる我が家の思い出は尽きない。息子の部屋にはいまだにそのコレクションが幾つもある。今回はロケ地に懐かしのエジプトやヨルダンの遺跡が登場。ダブルに嬉しい作品となった。それにしても主人公が入学した東部?の名門大学、学費が年4万ドルだって?!ひぇ〜劇中、父親がさりげなく言っていたけれど、印象に残ったなあ…

◆上映中、殆ど爆睡してしまった作品

ブッシュ

◆2009年上半期映画ミシュラン はなこ版(1)へ戻る…




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2009/7/17

2009年上半期 映画ミシュラン はなこ版  映画(2009-10年公開)

 光陰矢のごとし〜もう既に2009年も半分が過ぎました。そこで、私的な上半期公開映画の総まとめです。

 今般、「どんだけ上から目線?」と言う言い回しが流行しているようです。もちろん批判的ニュアンスを含んだもので、「そう言うアンタは何様のつもり?」と同義語のようです。そもそも「目線」と言うのは、映画・演劇・テレビ業界の用語らしいですね。それがテレビのバラエティ番組等でタレントらが多用するにつけ、広く一般にも使われるようになったらしい。

 個人日記で、あくまでも私見を述べているだけのブログ上での書き込みに対しても、最近は「どんだけ上から目線」批判が向けられるようです。ブログ上の書き込みなんて、殆どささやかな個人の行動や思索の記録でしかなく、書き手個人にとっては大事なログであっても、対外的には殆ど影響も及ぼさない人畜無害な、ある意味健全なガス抜き装置なのに、一部ではエライ叩かれようです。これは叩くべき相手を間違えていると思う。

 と言うことを踏まえて、はなこなりに「上から目線」で忌憚のない映画ジャッジをしたいと思います。

はなこ的に堂々【ベスト1】に推したいのは「グラン・トリノ」

クリックすると元のサイズで表示します 写真のクリント・イーストウッドの表情をご覧下さい。何と慈愛に満ちた表情でしょう?映画タイトルにもなっている「グラン・トリノ」とはかつて一世を風靡したアメ車で、アメリカの人々がモノ作りに励み、自国に何の疑いもなく誇りを持って生きていた時代の象徴であります。

 かつてマカロニ・ウエスタンでガンマンとして勇名を馳せ、ダーティ・ハリーで、向かうところ敵なしの豪腕刑事を演じたクリント・イーストウッドが、好々爺然とした姿で、慈愛に満ちた視線を向けている相手は、合衆国の礎を築いた白人の子孫でもなく、奴隷として強制移住を余儀なくされたアフリカ系アメリカ人の子孫でもなく、ネイティブ・アメリカンでもない。ベトナム戦争で米国側についた為に、ベトナム戦終結後、国外脱出をせざるを得なかった、アジアの少数民族モン族の少年です。
 
 ふとしたきっかけから、このモン族の少年やその家族と関わりを持ち始めた孤独な老人(クリント・イーストウッド)が、彼らとの交流を通じて導き出した、自らの人生の総決算は哀しくも胸を打つものです。余韻が深く濃く残る結末に、クリント・イーストウッドの老練な演出と演技を賞賛せずにはいられません。 

 1月1日から6月30日までの期間、試写会も含めて、はなこが見た新作映画の総数は48本です。内1本は、米アカデミー賞外国語映画賞受賞の凱旋リバイバル上映の「おくりびと」でした。月8本のペース。自宅近くにシネコンが3つもあるので、以前のように映画を見に渋谷、日比谷、銀座まで繰り出すことは殆どなくなってしまいました。どんなに楽しみなことでも無理をすると、それが楽しみでなくなってしまう。だから自分の体力や財布と相談して、無理な遠出は止めることにしました。それが試写会参加数の激減に繋がっているようです。遠出を止めることで、渋谷や銀座や六本木や岩波ホール等でしか上映されない映画は必然的に見られなくなりましたが、人間、諦めることも大事だと思うから、これでいいのだ!(って、天才バカボンのパパ風に(^^;))


まず、今年上半期見た中で、文句なく五つ星を上げたい3作品

★★★★★

1.グラン・トリノ

クリックすると元のサイズで表示します 2.ディア・ドクター:西川美和監督は、前作「ゆれる」で見せてくれた手腕を、本作でもいかんなく発揮している。何より1年をかけてじっくりフィールドワークを行い、その観察力と集中力と粘り強さで、その道のプロ(医師や看護師や医療問題ジャーナリスト)を唸らせるほどのリアリティ溢れる作品世界を構築したことに感嘆する。

 嵌り役の鶴瓶を主役に起用したのは、師匠?である是枝監督の薦めだったらしいが、鶴瓶の演技とも地ともつかない、つかみ所のない人物造形が、深刻な無医村問題の物語にユーモアを与えている。大事なことは、何もストレートに、まなじりを決して主張すれば良いというものでもないのだろう。どんなアプローチの手法であれ、人の胸に響き、その結果、人を動かせば良いのだ。

 そして本作でも冴え渡る監督の人間観察は、今回はその眼差しに、過ちを犯す「弱い存在」としての人間への優しさと寛容を内包するから、見ていてどこかホッとするものがある。前作『ゆれる』とはまた違ったアプローチで、人間の在りように迫って魅せた監督の力量は、まだその片鱗をチラリと見せているに過ぎないのではないか。そんな期待感を抱かせる会心の1本だと思う。

3.チェンジリング:これもクリント・イーストウッド監督作品。実話に基づく作品らしいが、子を思う母の強さに感銘を受ける一方で、自らの保身の為には個人の人権を平気で蹂躙する組織の冷酷さに戦慄を覚える。そして今日的だと思っていた犯罪が、既に当時存在していたことにも驚愕する。このことは、文明がいかに進歩を遂げようとも、人間の本質には変わりがないことを意味するのだろうか?アンジェリーナ・ジョリーの熱演が光る(彼女の今にも折れそうな細い身体と体当たりの熱演を見ると、公私共に全力投球の彼女が生き急いでいるように見えて、実は心配である)

 "changeling"とは、(民話で妖精が子どもをさらい、代わりに残す醜い[ばかな])取り替えっ子、転じて「すり替えられた子」を意味する(『ジーニアス英和辞典』より)。

上位3作に準ずる面白さ、感動を覚えた作品

★★★★

クリックすると元のサイズで表示します 4.愛を読むひと:「レボリューショナリーロード〜命燃え尽きるまで」と撮影時期が重なった為、一度はハンナ役をニコール・キッドマンに譲ったケイト・ウィンスレットだったが、ニコールの妊娠により結局ハンナを演じることになった。その曰く付きのハンナ役が、6度目のノミネートにして、彼女に米アカデミー賞主演女優賞をもたらしたのである。原作を読んでみると、ニコールよりケイトの方が作者が描いたハンナ像に近く、適役な印象を受けた。

 物語では15歳の少年の、21歳も年上の女性との恋を軸に、ナチの傷跡残る戦後ドイツの一断面が描かれる。人目を憚る二人の関係は一度は断たれたかに思われたが、数年後意外な場所で二人は再会し、その曰くゆえに一定の距離を保ったまま密やかに静かに続くのだ。自身のある秘密を守る為に、ナチ弾劾裁判で罪の加重も厭わなかったハンナ。その秘密を知る、かつてハンナとの恋で身を焦がし、その幻影に翻弄され続けて来たかに見えるマイケル。彼は今、法曹界に身を置き(原作ではミハエルで、法曹史研究者)、自らの立場と彼女への愛との狭間で苦悩するのだ。ハンナの不器用なまでの実直さを見るにつけ、時代、境遇が違えば、彼女にも違った人生があったであろうにと悔やまれた。

 スティーブン・ダルドリー監督の手堅い演出で、様々な障害ゆえに深く潜行する男女の愛の物語が、哀切を極めた上質な人間ドラマに仕上がった。さらに戦争を巡る世代間ギャップは、埋めがたい溝として両者の間に厳然と存在することを、見る者は収容所跡に言葉もなく佇むマイケルの目を通して、今さらのように思い知らされるのだ。心に深く余韻を残す1本だと思う。

5.レボリューショナリーロード〜命燃え尽きるまで:レオとケイトが「タイタニック」以来の共演で話題。それ以上に二人の俳優としての成長ぶりが、息詰まるような演技対決という形で見られる至福。詳しい感想はこちら

6.スラムドッグ$ミリオネア:本年度の米アカデミー賞作品賞ということでかなり期待して見たら、期待し過ぎたせいか、どうも感動や印象が薄まってしまったような…高水準には違いないけれど、本作の魅力はインドと言う舞台装置自身のもつ力に依るところが大きい。作品賞授与は、巨大マーケットを意識したハリウッドの宣伝活動でもあるのか?

7.重力ピエロ:伊坂幸太郎原作映画は「アヒルと鴨のコインロッカー」以来、嵌っている。主演の岡田将生の清潔感が母心をくすぐって(「こんな息子が欲しい」と誰しも思うだろう)、本作の「無理矢理な部分」を帳消しにするほど魅力的。描きたかったのはファンタジーでくるんだ”家族の絆”なんだろうなあ…

8.フィッシュ・ストーリー:これも、伊坂幸太郎原作。劇中歌が懐かしいノリで耳に残り頭の中でエンドレス。思わずサントラを買ってしまった。奇想天外なストーリー展開は織り込み済みで、○○話も、ここまで壮大に描いてくれれば、いっそ清々しい。

9.フロスト×ニクソン:感想はこちら

10.「チェ28歳の革命」と「チェ39歳の別れ」の2部作:ベネシオ・デルトロの熱演に、20世紀革命のカリスマの人間的側面を垣間見ることができた。チェの革命家としての原点を描いたガエル・ガルシア・ベルナル主演の「モーターサイクル・ダイアリーズ」と併せて見たい。

◆2009年上半期映画ミシュラン はなこ版(2)へ続く… 


 
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2009/4/8

(4)フロスト×ニクソン(FROST×NIXON)  映画(2009-10年公開)

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「ウォーターゲート事件」だけでは語れない
リチャード・ニクソンという人物像


映画の本筋とは離れるが、アメリカ合衆国大統領経験者はホワイトハウスを去った後も、生涯プレジデンシー("The Presidency"; ”大統領職の地位と名誉”とでも訳しましょうか?)を背負い続けるものなんだなあ…と言うのが、まず感じたこと。

劇中、既に引退したニクソン氏を、誰もが「Mr. President」と言う敬称で呼ぶのが印象的だった。それは傍目にも、その職務の重みをヒシヒシと感じる瞬間である。だからこそ、米国及び米国民は、大統領職への背信とも取れる犯罪スキャンダルでの辞職を許せなかったのだろう。彼は大統領経験者でありながら、その葬儀は国葬で執り行われなかったのである

本作は、第37代アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン氏が、ウォーターゲート事件をきっかけに自ら大統領の職を辞した後、汚名にまみれた自身の名誉を回復し、政界復帰を期すべく臨んだインタビューを巡る物語である。既に結果は出ている話なので、物語の結末がどうこうと言うより、息詰まるトーク・バトル(論戦)のプロセスと裏話を楽しむタイプの作品だと思う。

この映画が描かれた時代を私の個人史に重ねてみると、私が中学生の頃の話である。こうしたインタビューが行われ、それがニクソン氏の政界復帰を絶望的なものにしたことを、この映画を見るまで私は知らなかった。そもそも、「ウォーターゲート事件」でさえ、それが現職大統領を辞任に追い込んだ、米国政治史上特筆される大事件であったことも、記憶の彼方に押しやられた格好だ。はて、「ウォーターゲート事件」って、どんな事件だったっけ?

「ウォーターゲート事件」(ウィキペディア)

上記リンクのウィキペディアには事件の経緯が詳細に紹介されているが、かいつまんで言えば、

ウォーターゲート・ビルに入居していた民主党本部に盗聴器を仕掛けた侵入犯とニクソン大統領との関わりが、マスコミの追求によって明らかにされ、大統領が任期途中で辞任に追い込まれた事件、である。

この事件をマスコミの側の視点から描いたのが、ダスティン・ホフマン&ロバートレッド・フォード主演の映画『大統領の陰謀』(1976)。傑作の誉れ高い同作だが、事件発覚から僅か4年後の公開で、あくまでも記者の視点から描いた作品であることを考慮すれば、謎解きミステリードラマとしては面白いのかもしれないが、「ウォーターゲート事件」の全容を理解するには不十分なのかもしれないと、今回、本作を見て思った(因みに、当時再選確実と言われたニクソン陣営が、なぜ民主党本部へ盗聴器を仕掛けたのか、未だ謎だそうだ)。「歴史的事件」と称される過去の大きな出来事や歴史上の人物について公正な評価を下すには、さまざまな角度から慎重に検証を行う必要があり、その為にもそれ相当の長い歳月を要するのではないだろうか?

私は特に感銘を受けた作品、内容をより深く理解する為に、その背景を知りたいと思った作品は、鑑賞後にパンフレットを買うことにしているが、本作は何れの理由にも当てはまるので、迷うことなく買い求めた。このパンフレットの類は、その販売形態の特殊性から、書店で本を買うのとは勝手が違って中身をチャックすることなく買うしかないせいか、結構当たり外れがある。本作のパンフレットはなかなか読み応えのある内容で、映画の内容を十分に補完するものだった。大当たりの部類に入ると思う。

そのパンフレットで、映画では詳しく語られていないニクソン氏の生い立ちや彼の政治家としての業績、さらにニクソン時代に対メディア戦略の重要性が認識されたあらましが、数人の書き手により紹介されている。

【生い立ち】

1913年、米カリフォルニア州生まれ。学業成績優秀。討論会でも連続優勝し、加州のハーバードクラブから万能優等生の賞を受け、ハーバード大学の奨学金を得る。しかし、貧しい雑貨商を営む彼の両親はボストンまでの渡航費と生活費が用意できず、彼はハーバード大への進学を断念し、近隣の大学に通う。


【政治家としての業績】

特に外交手腕を発揮し、デタントと呼ばれる国際間の緊張緩和に大きな貢献を果たした。晩年はレーガン大統領の陰の使者として北京・モスクワを訪れて米外交を支えた。

・中華人民共和国との関係正常化
・ソ連とのSALTI(第一次戦略核兵器制限条約)締結
・前政権から引き継いだベトナム戦争からの完全撤退
・$と金を切り離し、変動相場制へ移行
・環境省を設立


【マス・メディアとニクソン氏】

・1952年、アイゼンハワー大統領の副大統領候補に選ばれた際、政治資金疑惑で窮地に立たされたが、全国ネットのテレビ放送での演説(その時一緒に映った犬の名前にちなんでチェッカー演説と呼ばれる)で、起死回生に成功した。
・1960年、自身初の大統領選では当初接戦であったにも関わらず、対立候補のケネディ氏とのテレビ討論で、テレビ・メディア戦略に長けたケネディ氏に大きく差をつけられたのを機に、選挙戦でも敗北を喫した。
・1968年、再び大統領候補となった際には、テレビ生番組への出演やCMの大量出稿等、テレビを積極的に活用し、その戦略が奏功して大統領選に勝利した。以後、記者会見は嫌う一方、直接国民に呼びかけるテレビ演説を好んで行った。


クリックすると元のサイズで表示します フロスト陣営の作戦会議

本作は舞台劇の映画化である。フロスト、ニクソン両氏のインタビュー対決シーンに時間の多くが割かれてはいるが、時折挟み込まれるそれ以外のシーンに、映画ならではの味付けがなされていて興味深い。例えば、両者のブレーンを交えた戦略会議や、「カサ・パシフィカ」と呼ばれるニクソン氏の別邸、当時の芸能界を代表するセレブが顔を揃えたフロスト氏のバースデイ・パーティ等の描写、さらにニクソン氏がピアノを弾くシーンや動物との何気ない触れあいを描くことで、フロスト、ニクソン両氏の人となりや心理状態、インタビュー対決の楽屋裏での奮闘が手に取るようにわかる作りになっている。

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一部フィクションを盛り込んで劇的効果を高めてはいるが、歴史の1ページとして記憶されただけのフロスト×ニクソンのインタビュー対決が、それから32年後の今、こうして目にできるのは素晴らしいことだと思う。4日間に渡るインタビューで3日まで圧倒的優勢に立っていたニクソン氏が、4日目にあっけなく形勢逆転される点が腑に落ちないとの映画評を目にしたが、私が思うに、常に攻撃する側、優位にある側の人間が、不覚にも守勢に回った時には、驚くほど脆いものなのではないだろうか?往々にして攻撃な態度、強気な姿勢は、自らの弱さをひた隠す為の方便であったりするものだと思う。

またしてもメディアの魔力(フロスト氏の方がその力を使うことに長けていた!)に敗れたニクソン氏だが、それだけで彼の業績が全否定されるのは酷過ぎる。米国で最強の権力を一度は手に入れたニクソン氏の、弱さを含めた人間的側面を描くことで、彼への同情や共感を呼ぶ作品に仕上がっているのが、この作品の面白いところだろうか?

また生粋のテレビ人であるフロスト氏の、さらなる成功への鍵を見つけ出す嗅覚の鋭さ(当時、誰もが「無謀な挑戦」と、企画への出資には消極的だったのだから)と、インタビュー対決での圧倒的不利に動揺するブレーンを一喝する力強さ〜自らを信じる力と仕事への集中力、大博打に打って出る神経の図太さ〜には舌を巻く。やはりただ者ではない。その強気な策士ぶりが、彼を大逆転勝利に導いたのかもしれない。その鮮やかな逆転劇(それまでは苦労の連続だが)は、約30年前の甲子園において、対豊見城高校戦で9回裏に、当時東海大相模高校の中心選手だった原辰徳・現巨人軍監督がホームランを放ってチームを勝利へと導いたシーンを、ふと思い出させもした。生まれながらに運を自らに引き寄せる強運の持ち主が、歴史を作ると言えるのかもしれない。

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◆映画映画『フロスト×ニクソン』公式サイト
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2009/2/18

(3)マンマ・ミーア!(原題:MAMMA MIA!)  映画(2009-10年公開)

ミュージカル映画としての完成度はさておき、楽しみましょう♪

既に昨夏には欧米で公開されていたこの作品。真冬の日本にギリシャの目映いばかりの陽光と暖かな風を運んで来た。それにしても待たせるなあ…

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ミュージカル『マンマ・ミーア』が上演された
ロンドン、ウエスト・エンドのプリンス・オブ・ウェールズ劇場


言わずと知れた、1999年にロンドンのウエスト・エンドで初演の舞台ミュージカルの映画化作品である。私は2006年春に、上掲の写真の劇場で舞台を見た。さすが皇太子の称号を冠した劇場だけあって、外観も内部もゴージャスだった。ticketmasterと言うサイトでオンライン予約して息子と二人分のチケットを確保したのだが、運良く前から2番目の真ん中に近い席が取れ、1mも離れていない所にオーケストラ(バンド?)の指揮者がいた。舞台下にはオーケストラ(バンド?)が控えており、奏者の表情も見えるほど。舞台上の出演者の飛び散る汗も届くような近距離だった(笑)。なんでも、舞台クライマックスでは観客も総立ちで一緒に歌い踊ると聞いていたが、マチネーで子供連れが多かったせいか、それほどでもなかった。

とにかく、これはABBAの音楽を楽しむミュージカル。”歌自身が持つ魅力が全て”と言って良い作品なのかもしれない。始めにABBAの音楽ありきで、ABBAの音楽が持つ明るさ、大らかさ、温かさ、優しさを味わう為に、無理矢理こじつけてミュージカルに仕立てたようなもの(笑)。巷では、そのストーリーの他愛のなさを指摘する声もあるが、そもそも芸術の中の芸術、総合芸術と呼ばれるオペラだってストーリーは他愛のないものが多い。最近、パブリック・ビューイングを利用してMETやUKのオペラを何本も見ているが、その多くは愛だの恋だのと歌っている。それを大仕掛けの舞台装置やドラマチックな歌唱で、高尚な芸術に昇華させているに過ぎない(って言ったら言い過ぎか(^_^;)しかし、そう考えるとオペラがより身近に感じられるのも事実)。

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映画が舞台に勝るのは、やはりロケーションの魅力だろう。舞台では視点は一点のみだが、映画ではさまざまな視点から、物語の舞台を、人々の姿を映し出す。ギリシャと言ったらエーゲ海。あの陽光降り注ぐ紺碧の海は、それだけで見る者の心を解き放つ。そもそも北欧スウェーデン生まれの歌が、ギリシャを舞台とする物語にうまく嵌ったのが不思議だが(と言うか、やはり無理矢理嵌め込んだ?)。

ドナ役のメリル・ストリープは9.11事件後にNYのブロードウエイで、舞台版を見て以来、その突き抜けた明るさにフアンとなり、ふたつ返事でドナ役を引き受けたそうだ。意外にも彼女にとって初のミュージカル作品だが、学生演劇出身の彼女は学生時代にはよくミュージカルに出演していたらしい。それでも女優として既に揺るがない地位を築いた彼女が、新たな分野に挑戦する、そのチャレンジ精神は天晴れとしか言いようがない。来年には還暦を迎えようとしている彼女が、画面狭しと弾けまくっている(笑)。群舞で揃わないのはご愛敬か。歌唱はけっして上手くはない(音域が狭いかな?)が、演技派なだけあって情感豊か。

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この映画はなんと言っても女性が主役。総じて男性陣は影が薄い(個人的にはコリン・ファースが大好きなんだけれど。彼もすっかりオジサンになっちゃった。しかも今回の役は…!)。これは女性、しかもABBA世代(40〜50代)には堪らない作品だろうが、果たしてそれ以外の人にはどうなんだろう。とにかく、今の時代、最も元気な世代をさらに元気にさせる映画であることは間違いないと思う。

因みにタイトルの『マンマ・ミーア!(MAMMA MIA!)』はイタリア語で、直訳したら「私のお母さん」。しかし会話では「なんてこった!」と言うような驚きを表す意味で使われる。英語の"Oh my god!"や"Oh my goodness!"に近いニュアンスかな。この作品は確かに「なんてこった」なストーリー展開だし、母子の物語でもあるので、両方をかけたタイトルとして解釈できるだろうか。

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2009/2/11

(2)レボリューショナリー・ロード〜燃え尽きるまで  映画(2009-10年公開)

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「青い鳥」に気づけなかった夫婦の物語

かの『タイタニック』以来11年ぶりの共演でも話題となったレオナルド・ディカプリオ×ケイト・ウィンスレットの主演作である。監督は舞台演出をキャリアの出発点に、初映画監督作『アメリカン・ビューティ』(1999)で米アカデミー監督賞、作品賞を受賞したサム・メンデス(ケイト・ウィンスレットの夫でもある)。その冷徹な人間観察に基づく人物描写は容赦なく、時に痛々しいまでに登場人物の心を丸裸にする。今回もその演出は冴えわたり、見る者の心に鋭く突き刺さるような葛藤のドラマが展開した。

【あらすじ】

時代は1950年代、米国は高度経済成長期を迎えていた。フランク(レオ)エイプリル(ケイト)は娘と息子の二児に恵まれ、コネチカット州郊外のレボリューショナリー・ロードと呼ばれる新興住宅街に小綺麗な住居も構え、傍目には幸せな中流家庭の暮らしを実現しているかに見えた。

しかし二人は現在の生活に、内心納得の行かないものを感じていた。かつて描いていた理想と現実のギャップに、悶々としていた。特に、女優を志したエイプリルにとって、「平凡な郊外での暮らしに埋没すること」は受け入れ難い現実だった。彼女は夫のフランクに訴える。「かつての私たちは輝いていた。私たちはここの住人の誰よりも優れている。このままでいいの?」〜そして、フランクの30歳の誕生日に、パリへの移住を提案するのである。

「思い切って貴方は仕事を辞め、自宅を売り払い、一家でパリへ移住する。パリでは貴方の代わりに私が国際機関で秘書として勤め、家計を支えるわ」〜エイプリルの突拍子もない提案に最初は戸惑ったフランクも、次第にその気になって…しかし、運命の歯車は思わぬ方向へと二人を導いて行く。

【感想】

辛辣な人物描写が印象的だ。登場人物全員が、悪人とは言わないまでも、その言動に何かしらの毒を含んでいる(キャシー・ベイツが登場した時点で毒を感じたのは配役の妙?)。他人の成功を妬み、失敗に安堵する。自分たちの幸福を、他人の不幸で相対化する。ここでは善意も友情も薄っぺらい。出る杭は、必然的に打たれるものなのだろうか。

ただし、人間関係も鏡のようなものだ。”自分たちは選ばれし者”と言う、主人公達の傲慢さや独善性が、周囲の悪意を呼び覚ましてしまったとも言えるのだ。彼らが優位に立つ限りは周囲も美辞麗句で賞賛するが、一旦ほころびが見つかるや、周囲は手のひらを返したように冷たく突き放す。強気であればあるほど、失敗には手痛いしっぺ返しが待っているのだ。

個人の上昇志向は、国勢も上向きだった時代にはそれほど珍しいことではなかったのかもしれない。”フランスに行きさえすれば道が開ける”とは暢気なものだ。数年間も専業主婦だった女性が、いきなり国際機関の秘書業務に就けるものなのか?そうした楽観主義も、”いけいけどんどん”な高度経済成長の時代の空気が生み出したものなのか?

しかし、過剰な上昇志向は、そうでない者には”鼻につくもの”であり、妬まれる要因にもなる。”現状に安住し、新たな一歩を踏み出せない、意気地なしの現実主義者達(←しかも、こちらの方がマジョリティ)”を、内心蔑んでいた主人公達は、その傲慢さが周囲の人間達には見透かされていたのかもしれない。

主だった登場人物の中でも、マイケル・シャノン演じるジョンの吐き出す言葉は、そのことごとくが真実を衝いて、主人公二人の心を掻き乱す。ドラマの中ではキー・パーソンとも言える存在だ。彼が登場する度に、見ているこちらまで緊張した。

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それにしても、過剰な上昇志向がもたらした結果は、あまりにも哀しい。主人公達は既に確かにある幸福に気づけずに、さらなる幸福を求めて”外”を目指した。しかし、幸福とは”外”にあるのではなく、自らの”内”にあるものなのではないか。それに気づけなければ、どこまで行っても、いつまで経っても充足感は得られないと思う。

【気になったこと】

ヒロイン、エイプリルのチェーン・スモーカーぶりには驚いた。喫煙は彼女の苛立ちを表す重要な行為なのかもしれないが、それにしても凄い。調べてみると、1915〜1950年にかけて、米国では急激に煙草の消費量が増えたそうだ。当時は喫煙行為と健康被害の因果関係についての調査もなされておらず、喫煙は嗜好品として堂々と市民権を得ていたようだし、女性の社会進出とも関係があるのだろう。それでも彼女のチェーン・スモーキングは常軌を逸している。その異常なまでのニコチン依存は、彼女の精神的均衡の喪失を暗示しているかのよう。

【スピーチ・ライター】

オバマ米大統領の演説原稿を手がけているのが、若干27歳のスピーチ・ライターと報道されて驚いたばかりだが、そもそも私はスピーチ・ライターなる存在も知らなかった。実は、この映画の原作小説の作者、リチャード・イェーツは、当時の司法長官ロバート・ケネディのスピーチ・ライターだったらしい。演説の骨格はスピーカー自身が作るものだろうが、それに肉付けするのはスピーチ・ライターの役目のはず。さまざまなデータの裏付けを取り、社会動向を見極めた上で聴衆の心を掴むような内容にまとめ上げる。そういうスピーチ・ライターの仕事は、彼の小説作りにも大いに生かされたのではないかと想像する。特に時代の空気を読み取るのは、彼の最も得意とすることだったのではないかな?


『レボリューショナリー・ロード〜命燃え尽きるまで』公式サイト 
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2009/1/22

(1)禅〜zen  映画(2009-10年公開)

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まずは、映画で”心穏やかに”1年のスタートを切る

今年の見初めはこの作品となった。日本曹洞宗の開祖、道元の伝記映画である。二大総本山のひとつ、総持寺は我が家の近隣にあり(私には石原裕次郎の菩提寺?と言うイメージが強い)もうひとつの総本山、永平寺には昨夏行ったばかりである。これも何かの縁であろうと思い、本作を新年見初めの1本に選んだ。

因みに選択に迷ったもう1本は、これまた伝記映画の(こちらは20世紀のカリスマ革命家だけれど)『チェ 28歳の革命』である。映画で”心穏やかに”1年のスタートを切ろうか、それとも”高揚感で”いきなりスタート・ダッシュをかけようか、という二者択一で、前者を取ったのだった(笑)。

まず、この作品を見ながら、数年前に見た聖女マザー・テレサの伝記映画を思い出した。両作品共に、良くも悪くも生真面目な作りである。映画としてはドラマ性にも、面白みにも些と欠けるかな。映画『マザー・テレサ』は同時期に、赤裸々な性生活の研究レポートで世間に衝撃を与えたキンゼイ博士の伝記映画『キンゼイ・レポート』も公開されていて、娯楽性も十分に備えた手慣れた演出の『キンゼイ〜』と『マザー〜』はどうしても比較されがちだった。今回も映画作品としてのドラマ性という意味では、『チェ〜』の方に軍配が上がりそうである。

ただ道元禅師にしてもマザー・テレサにしても宗教者であり、多くの信者の信仰のよすがでもある”聖人”の生涯を描くことには、作り手にも自ずと遠慮や自己規制が生じるものなのかもしれない。それを無視すれば、メル・ギブソンの『パッション』のように、解釈の偏向性や過激描写が物議を醸すことになる(だからと言って、こうした作品を否定するものでもない。カトリック保守派として知られるメル・ギブソンが、ある実在した修道女の記述を元に、大真面目に取り組んだ結果なのだから。それでなくとも、宗教の教義解釈の違いは、しばしば対立を生むものである。映画作品としては、一般の鑑賞者がどう受け止めるかに懸かっていると思う)

奇しくも今年、日本では年頭から、20世紀のカリスマ革命家と750年前の曹洞宗開祖の伝記が同時期に公開されたわけだが、映画作品を時代を映し出す鏡として見た場合、この2人の登場は社会全体を覆う”閉塞感”を打破する人物の登場を、社会が、人々が待ち望んでいることの反映とも受け取れる。それは例えば米国で"Yes, we can (change)!"をスローガンに、黒人(正確には黒人と白人のハーフ)のバラク・F・オバマ大統領が登場したのと符合しているのだ。

つづく…
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