2008/12/20

(30)ラースと、その彼女(原題:LARS AND THE REAL GIRL,米)  映画(2007-08年公開)

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愛すべきラースの成長物語

母屋に暮らす兄夫婦は、ガレージを改装して作った離れにひとり暮らす弟ラースのことが気がかりでならない。30近くにもなって女性との浮いた噂ひとつなく、自宅と会社、或いは自宅と教会を往復するだけの毎日なのである。特に義姉のカリンは身重の体で、彼のことを本当の弟のように気遣うのだった。兄のガスはガスで、過去の負い目もあって、今ひとつ弟に本音をぶつけることが出来ない。

ラースはカリンが食事に誘っても気乗りしない様子で、しつこく食い下がると黙り込んでしまう。相手が誰であろうと一定の距離を置き、彼の心に踏み込もうとしようものなら、沈黙で拒んでしまうのだった。

そんな彼がある日、珍しく自分から兄夫婦の家を訪れた。遠い国からネットを通じて知り合った女性が彼を訪ねた来たのだが、自分の家に泊めることは憚られるので、兄夫婦の家に泊めて欲しいと言うのである。ついに弟にも春が巡って来たかと喜んだのも束の間、彼が連れて来たのは等身大のリアル・ドール!兄夫婦の驚きと戸惑いにはお構いなく、ラースは”ブラジル生まれの、ブラジル人とデンマーク人のハーフ”という彼女、ビアンカに楽しげに話しかけるのである。彼の中ではビアンカとの会話は成立しているらしいが、兄夫婦には彼の独り芝居にしか見えない。このところ弟は様子がおかしかったが、とうとう…大変だ!そうだ、バーマン医師に相談しよう!

絵本の読み聞かせをするビアンカ クリックすると元のサイズで表示します

米国中西部の小さな街で、街中を巻き込んでのラースとビアンカの恋物語。彼とビアンカを取り巻く、兄夫婦を始め、同僚、主治医、周囲の人々の眼差しが暖かい。ラースを愛すればこその、街の人々のビアンカへの処遇。ハリウッド映画にありがちな説明過多でないのも良い。さりげなく登場人物の台詞の端々に込められた断片情報から、徐々にラースの人となりが、明らかになるのだ。それにしても写真のビアンカ、遠目に見れば、何の違和感もない。本当に生きているみたいだ。このリアル・ドールなるもの、ネット通販でお好みの物が入手できるらしいが、ビアンカはアンジェリーナ・ジョリーに激似(笑)。ぽってりとした唇は”セクシー美女”の代名詞?!

ラースはけっして人嫌いなんかじゃない。彼の出生に纏わるトラウマと、その後の生い立ちから、他人とうまく関われないだけなんだと思う。人は幼い頃から段階を踏んで、自分以外の人間との関わり方を学んで行くものだろうに、そのプロセスが、諸事情から彼にはスッポリと抜けていただけ。彼はビアンカとの対話を通して〜結局、それは自分自身との対話だったのだろうか?〜初めて、そのプロセスを踏むことができたのではないだろうか?その意味で、この作品は彼の内的な成長物語なんだと思う。劇中、兄に「いつ大人になったの?」と質問するラース。その質問は主治医バーマン医師の指導に従っただけのことかもしれないが、この作品の核心に触れた台詞のように思える。

リアル・ドールに恋する大人の男、という一見奇異な出来事で始まったこの物語は、ひとりの人間の成長物語として至極真っ当な結末?へと至り、見る者をおおいに納得させ、そしてその心に暖かな灯りをともす。ラースとビアンカの恋は果たしてどうなったのか?それは映画を見てのお楽しみ!すごく素敵な作品だ。お薦めです。(後日、出演者等について加筆の予定)

『ラースと、その彼女』公式サイト

2008/11/20

(29)ジョージ・A・ロメロのダイアリー・オブ・ザ・デッド  映画(2007-08年公開)

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やっぱりゾンビより怖いのは人間?!

結構スプラッターで残酷描写も多いゾンビ映画に意外に抵抗感がないのは、昔マイケル・ジャクソンの『スリラー』のPVが好きだったからかもしれない(笑)。加えてジョージ・A・ロメロ監督はゾンビ映画の始祖であり巨匠。後発の数多あるゾンビ映画とロメロ監督の作品とでは格の違いを感じて来たので(でも、亜流の中でも『ショーン・オブ・ザ・デッド』は好きよん♪)、ロメロ監督の作品なら是非見たいと思う。

マイケル・ジャクソン『スリラー』(You-tube)

本作は、大学の映画科の学生達が、「今、目前で起きていることを人々に伝えたい」一心で、恐怖におののきながらもカメラを回し続けると言う設定で、何やらドキュメンタリー・タッチ。”手持ちカメラの映像”で臨場感を誘うが、これを流行(最近多いですね。この手法)の後追いと見るか、はたまた”68歳のチャレンジ精神”と見るか?私は好意的に受け止めた。何より巨匠でありながらその地位にあぐらをかくことなく、 (低予算でも映像作品が作れることから)若手が好む手法に倣ったのは、反骨精神溢れる監督の原点回帰(監督のデビュー作は、CMなどを手がける映像製作会社を経営の傍ら、有志で週末を利用して作った『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』である)のようにも見える。

映画を見終わった後、出口へ向かう帰り客の中から「これはゾンビ映画じゃないなあ」との声が聞こえた。”ゾンビ映画=ホラー”と言う意味で、「違う」と言ったのか?だとしたら、違うかも。ロメロ監督のゾンビ映画はホラーの形を借りた文明批判、人間批判のように私は受け止めている。3年前公開の『ランド・オブ・ザ・デッド』でも、”ゾンビ狩り”を楽しむ残酷な人間の姿が描かれていた。

今回の批判の矛先のひとつは、ネット社会に氾濫する投稿映像だ。”個人の主観に基づく情報発信”と言う意味では掲示板への書き込みやブログ記事も含まれるのかもしれない。マス・メディアが崩壊すると、玉石混淆のこうした主観情報が氾濫すると本作では警告する。

しかし、既にマス・メディアの信頼性は失墜してしまった感があるし、今更ネットのない社会に後戻りも出来ないだろう。誤った情報の流布が誘発する社会の混乱というリスクを負うのと同等に、否、それ以上にネットの恩恵に浴しているのが現代社会なのではないだろうか?現実的な対応としては、ネット情報に限らず、あらゆるメディアの情報から、適正かつ有用な情報を取捨選択するメディア・リテラシー教育に注力するべきなのかなと思う。そもそも全ての物事は正負両面を併せ持って存在するものなんじゃないのかな?光が当たれば自ずと影ができるように。

それにしてもエンディングの映像は、あまりにもイタイ(-_-)。

映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』公式サイト

2008/11/18

(28)ブーリン家の姉妹(The Other Boleyn Girl、英米合作)  映画(2007-08年公開)

クリックすると元のサイズで表示します アンの挑むような眼差しが印象的

アン・ブーリンとヘンリー8世、その血筋が後にイングランドを発展させた

時代は16世紀、イングランド王ヘンリー8世を巡る、アン・ブーリンとその妹メアリ(史実は姉妹の生年が不詳なので、実際どちらが年長なのかも不詳らしい)の愛憎の物語。

王族間では政略結婚が当たり前の時代、新興貴族のトーマス・ブーリン卿は、ヘンリー8世が王妃キャサリンとの間に世継ぎの男児が生まれないことに目を付ける。そして、長女アンを王の愛人に仕立て上げることで、自らを取り立てて貰おうと義弟のノーフォーク公爵と画策する。

多少の後ろめたさを感じながらも、娘を自らの出世の道具として利用する父親。しかしそうした父親の思惑とは別に、アンは自ら王妃の座を貪欲に求め、メアリは思いがけない王の寵愛を受け入れる。王を巡る姉妹の愛憎と言っても、見た限りでは権勢欲にかられたアンが一方的に、王の寵愛を先に受けたメアリに嫉妬し、憎悪している。そう、ヒステリックなまでに。それに対してメアリーは終始一貫して、最初に感じたイメージそのままに、優しく、控え目で、かつ冷静だ。

史実ではその容姿の違いにも言及していて、アンが「黒髪、色黒、小柄、やせ形」なのに対し、メアリーは「金髪、色白、豊満」だったとされる。女性的魅力に長けていたのは、どうやらメアリーの方だったようだ。映画の制作者は二人の性格的な違いを際だたせる為に衣装のデザインや色合いにも心を砕いたらしい。個人的には、姉妹を演じた女優ナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンの”眉の形”に注目した。”アンの勝ち気さ”を示すかのようなナタリーの男勝りな一文字眉と、”メアリの母性的な優しさ”を表すかのようなスカーレットの優美な弧を描いた眉。人相学的にも、それぞれの性格に適った形と言えるようだ。
クリックすると元のサイズで表示します クリックすると元のサイズで表示します クリックすると元のサイズで表示します
生涯6人の妻を娶ったとされるヘンリー8世。映画でヘンリー8世役を演じたエリック・バナは中肉だったが、実際のヘンリー8世はハンス・ホルバインが描いた肖像画で見る限り、堂々とし体躯の持ち主だったようだ。以前、ヘンリー8世ゆかりの宮殿ハンプトン・コートに行った時に見かけたヘンリー8世の肖像画も、このホルバイン作だったのかな?

世継ぎに男子を切望したことは無意味だったのか?

映画では、王をじらすだけじらす作戦でその執心をものにし、キャサリン王妃や妹のメアリを王宮から追い出してまで「王妃の座」を獲得したアンだったが、待望の第一子は女の子。聡明さを武器に、強気で野望に向かって邁進して来たアンの運命が暗転する瞬間だ。史実が伝える通り、その後断頭台の露と消えたアン。一方、映画では移り気で優柔不断な男として描かれたヘンリー8世は、史実では、ラテン語、スペイン語、フランス語に通じ、舞踏、馬上槍試合、音楽、著述とその才覚は多岐に渡り、イングランド王室史上最高のインテリとされている。その二人の間に生まれた赤毛の女児は後にエリザベス1世として、イングランドを未曾有の繁栄へと導くのである。

映画では母亡き後、叔母メアリに引き取られたエリザベスがイングランド女王に就く経緯については詳しく言及していない。これが調べてみると、映画1本作れそうなくらい、これまた波乱に富んだ展開だ。イングランドに限らず、政略結婚を繰り返したヨーロッパの王族は姻戚関係が複雑で、そのことが歴史を複雑なものにしている。イングランド王がローマ・カトリックから破門され、英国国教会を設立した経緯も、映画で語られている以上に複雑な背景を有している。まったく…(-_-)。

この二人の競演は クリックすると元のサイズで表示します 本作の最大の魅力

上掲の写真でも、その美しさの一端が垣間見えるように、映像表現も、特に室内での光の使い方が、まるでバロック絵画を思わせる陰影表現で素晴らしい。

運命が暗転してからの気の毒なまでのアンの脆さと、メアリが見せた芯の強さの対比は見事だ。この若さで、単に容姿の美しさだけでなく、見事な演技力で観客を魅了するナタリーとスカーレットの競演を見られただけでも、この映画を見る価値はあったと思う。

映画『ブーリン家の姉妹』公式サイト 

2008/11/1

(27)レッドクリフ partT(米、中、日、台、韓合作)  映画(2007-08年公開)

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『三国志』と言う壮大な歴史物語の中の「赤壁の戦い」を映像化した本作を、映画の日の今日、見て来た。と言っても私は『三国志』自体をあまり知らない。しかし、『三国志』を知らなくとも、ジョン・ウーならではの演出で、”エンタメ系”歴史スペクタクル、アクション巨編として十分楽しめた。そもそも映画と原作(or史実)は別物と考えて見た方が、映画は映画として心から楽しめると経験的に学んでいるし、原作を知らなかったとしても、これを機会に原作への興味も湧くというもの(その意味では、男女の絡みのシーンは蛇足かな。絶世の美女、小喬の存在感と夫周瑜との固い絆を際だたせる為の演出だったとは思うが、作中そのシーンだけ取って付けたような違和感があった。そのシーンがなくとも、物語は十分成立すると思う)。

導入でのかいつまんだ『三国志』の解説はもとより、主要人物が登場する度に字幕で名前を表記してくれるのは、初心者には有り難い配慮だと思う。登場人物が多いだけに、おかげで頭が混乱せずに済んだし、比較的スムースに作品世界へ没入できた。

個人的には中国の歴史映画と言えば、群雄割拠の戦乱の世を描いた印象が強い。戦記物は比較的苦手な私だが、ヴィジュアル的に吹き出す血しぶきは血色(チイロ)と言うより絵の具の赤に近く、リアルに感じられないのが救いであり、アクション(華麗&超絶な身動き)そのものに注視できた。さらに、圧倒的に兵の数では劣勢な側が、敵方の戦略を見抜いて、巧みな戦法(←この戦法がまた奇抜で面白いのである)で堂々と渡り合うさまは痛快に感じた。

曹操に立ち向かうべく手を結ぶ クリックすると元のサイズで表示します 周瑜と孔明

主要人物では、軍師、孔明と司令官、周瑜、それぞれの知性と教養、両者の盟友関係がそつなく描かれていたし、三者三様に描かれた君主像(曹操劉備孫権)も興味深い。個性豊かな将軍達(趙雲関羽張飛)の超人的な活躍も、それぞれに見せ場があり、単純にアクション・シーンとして楽しめた。あまりの凄さに笑ってしまうほど。その一方で、戦闘シーンにおける両者の敵軍(特に雑兵<ゾウヒョウ>)への容赦ない仕打ちは、覇権と言う大望の下での、人ひとりの命の儚さ(あまりにも軽い)を感じずにはいられなかった。

大活躍の趙雲… クリックすると元のサイズで表示します 白馬を駆る姿も勇壮 

戦術モノとしては、多彩な登場人物の個性が際立つ分、かつて見た、軍師革離が孤軍奮闘する『墨攻』とはまた違った面白さに満ちていた(←比較したら『三国志』ファンに怒られるだろうか?)。本作のスケール感は、映画館の大きなスクリーンと音響設備で体感すべし。DVDでは、その魅力の半分も伝わらないだろう。

「さあ、いよいよ本戦へ突入だ!」と思ったら、「To be continued…」で、しかもPartUの公開は来年の4月と来た。この熱気(血気?)が冷めないうちに、続きを見せてはくれないものか…

2008/10/25

(26)しあわせのかおり〜幸福的馨香〜  映画(2007-08年公開)

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見終わった後、思わず中華料理を食べに行った…
いつにも増して、おいしかった(笑)


今年も例年通り、見ている本数としては圧倒的に洋画が多いはずなのに、なぜか心に残る、ここに感想を書かずにはおれない作品は邦画が割合に多い。この作品も、そんな1本。

舞台は金沢。しかし、私の知る金沢ではない。観光客が見ることのない、すっぴんの金沢。地元の人々の生活が息づく、ジモッティな金沢。

デパート営業部勤務の貴子は、デパ地下の新たな目玉にと、地元で人気の中華料理店「小上海飯店」の出店誘致を任される。しかし老練の店主、王はけんもほろろに、その申し出を断った。それでも毎日ように王の店に出向き、日替わり定食を食べるうちに、貴子はいつしか仕事を忘れて、その味に夢中になる。えも言われぬおいしさ〜心がホッとするような”優しい味”なのだ。

物語が進むうちに、徐々に貴子と店主、王の人となりが明らかになる。それぞれに、家族にまつわる心温まる思い出と傷心の過去があった。

一言で言うと、地味な作品だ。特にドラマチックな展開があるわけでもない。寧ろ容易に読める筋書きだ。そう、途中までは。

ある出来事をきっかけに、貴子は王の押しかけ弟子となる。それほどに、貴子は王の料理に魅せられた。この作品、「グルメ映画」とも言うべき様相を呈している。次から次へと喉が鳴るような料理が、冒頭から登場する。地元の新鮮な食材を使った、目にも楽しい中華料理。料理単独のクローズアップシーンも多いので、料理はこの作品のもうひとつの主役なんだろう。

王役の藤竜也と貴子役の中谷美紀は、この映画の出演に向けて中華料理店で特訓したと言う腕前を披露する。う〜ん、凄い!作品を見た限りでは、王の頑固一徹な料理人気質に貫禄を感じ、貴子がその弟子として徐々に料理の腕を上げて行くさまにはワクワクした。掛け値なしに、二人の俳優は料理人になりきっていた。

俳優は役柄を通して、数多くの人生を経験する。それまでは一切素養がなくても、時には音楽家として楽器を弾きこなし、教師として教壇に立ち、料理人として見た目にもおいしそうな料理を作り上げる。これこそ俳優たる才能だろう。今回も、その才能に快哉を叫びたくなった。

劇中、一番印象に残った台詞は、
「一生懸命生きようとしているあの子に、あなたは何を言うんですか?」
と言う王の叫び。普段は言葉少なで木訥な彼の、内に秘めた情の濃さと熱さを感じた。これは予告編でも耳にすることができる。やっぱり、この作品の見せ場のひとつかな。

見せ場はクライマックスにもある。それは、王や貴子を取り巻く人々の、優しい気遣いが導く奇蹟のようなもの。思わず胸が熱くなった(特に八千草薫田中圭が演じる「??」と「農家の3代目」は常に二人を見守る存在。物語の”その後”が気になるなあ…)

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この作品には悪人は出て来ない。正確に言うと直接的に人間の悪意は描かれない。それが物語の抑揚を削ぐことにもなり、その結果、全体的に平板で、地味な印象の作品になってしまったのかもしれない。しかし、
「地味で何が悪い」
と反論したくなるような滋味深〜い作品なのだ。

関東でも上映館は銀座のシネスイッチ銀座と川崎のチネチッタのみ。何という少なさだろう(もしや中国の食を巡る様々な問題が、暗い影を落としているのか?)。これでは多くの人の目に心に、この作品が届かない。次善の策として、DVD化された暁には、是非ご覧あれ!

【ほぉ〜と思ったこと】

中国の紹興では、地酒である紹興酒を、娘が生まれた年に瓶に入れ、土中に埋めて醸成させた後、娘が結婚する時に、その紹興酒で祝杯を挙げる慣習があるそうだ。これと似たような慣習は沖縄にもある。沖縄では娘が生まれた時に泡盛を瓶に入れて保存し、娘の祝い事で飲む習慣があるそうだ〜と言う話を以前テレビで知った。さすがに琉球王国の時代、中国との交易が盛んだっただけあって、中国の慣習が伝来していたんだね。

【山定食 海定食】

日替わり定食はこの2種類。と言っても、それぞれ日替わりで、多彩な「山の幸」「海の幸」がメインに登場するのだ。中でも卵とトマトを炒めただけの「卵トマト炒め」は、素材も調理法もシンプルなだけに、料理人の腕が問われるのだろうか?

【大人の純愛】

「あなたがいたから私も頑張れた」って、もしかして愛の告白なのでは?この控え目さ加減が素敵かも。

映画「しあわせのかおり」公式サイト

【主演ふたりのインタビュー記事がありました!】

藤竜也(産経ニュース・インタビュー)
中谷美紀(シネマぴあインタビュー)

2008/10/13

(25)イーグル・アイ(試写会にて)  映画(2007-08年公開)

去る10月9日(木)に東京国際フォーラムで開催された『イーグル・アイ プレミアムナイト 〜一夜限りの試写会〜』に行って来ました。主催者発表では約5000人の来場者だったとか。

上映前に約30分のイベントがありましたが、関係者で実際に会場に来たのはD・J・カルーソー監督のみ、主演のシャイア・ラブーフは次回作『トランスフォーマー2』の撮影が押して来日は叶わず、ビデオ・レターでの参加でした。他にゲストとして高橋ジョージ・三船美佳夫妻がステージに上がり、映画の内容と絡めたパフォーマンスを見せてくれましたが、個人的に高橋ジョージが嫌いなので、これはなくても良かったのではと言うのが正直な感想。三文芝居は要らないから、早く映画を見せて欲しかった。

過去に行われたジャパン・プレミアと比較すると、映画製作関係者の来日が監督ひとりのみではあまりにも寂しく、さらにゲストがあの高橋夫妻では二流感が漂う。あまり本作のプロモーションには力を入れていないのかしら?作品が気の毒です。

クリックすると元のサイズで表示します どこにいようと容赦ない指令が下る…

この映画、前半は謎の声の、有無を言わさぬ指令に主人公が振り回され、まさにローラーコースターな展開。畳みかけるようなアクション・シークエンスには片時も目が離せません。特にカーチェイス・シーンは迫力がある(カルーソー監督は激烈なカー・アクションで知られているらしい。過去には『テイキング・ライブス』や『ディスタービア』など)。しかし後半、物語の核心部分に近づくにつれ、謎解き中心の展開になるせいか、前半が怒濤の流れなだけに失速感が否めない。しかも段々と結末も読めて来て、種が明かされれば、それは過去に何度も使い古された感のあるもの。この作品は結末がどうなるかより、そこに至るまでのプロセス(ワケのわからない指令でパニクる様子〜自分がそう言うシチュエーションに置かれたらどうするか想像してみるとか…)、疾走感を楽しむ作品なのかなと思いました。だからこそ後半の失速感が惜しい。

クリックすると元のサイズで表示します 前半はとにかく逃げる、逃げる、逃げまくる…

スピルバーグ氏構想10年、撮影技術?時代?がそれにやっと追いついて映像化が実現、との触れ込みですが、残念ながら、10年前なら斬新だった構想も、10年経ったら既に陳腐化してしまったのかな?それぐらいこの10年の映画コンテンツの進歩・革新は著しい。この映画で描かれている”恐怖”は、既に様々な作品で見た覚えがある。しかも「イーグル・アイ」と言う名前からして、ハリウッド映画を見慣れた人間には、それが何を意味するのか、何となく予想がついてしまう。携帯電話が重要な小道具として使われているのは、いかにも今日的ではあるけれど。

さらについ最近、名古屋工業大学の先端技術をテレビで知ったばかりなので、この映画の肝〜なぜ主人公の青年が選ばれたのか?〜が、技術的に成立しないと言うか、世界で最も厳格、厳密であるべきところで、あり得ない設定となり、リアリティを大きく損ねてしまいました。そう言う意味では、常に時代の先を行っていたはずのスピルバーグ作品らしくないですね。やはり10年という歳月の流れは残酷です。せめてあと5年早ければ…

主演のシャイア・ラブーフに関しては、彼のフィルモグラフィによれば『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』で私は彼を見ているはずなのですが全然記憶になく、最初に印象に残っているのは『コンスタンティン』のチャズ役。その後『ディスタービア』『トランスフォーマー』『インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国』と見て来て、今回は顔つきがかなりシャープになっており、自分の演技に対して自信がついて来たのかなと言う印象。以前、「彼はトム・ハンクスのように大化けするかも」と書きましたが、彼のキャリアを見る限り運の良さを感じますし、スピルバーグという超大物の後ろ盾も得て、今後は若手トップ・スターとして目の離せない存在になるかもしれません。

『イーグル・アイ』公式サイト

2008/10/1

(24)アメコミ映画三昧(『アイアンマン』他)  映画(2007-08年公開)

クリックすると元のサイズで表示します  天才トニー・スターク、パワードスーツ開発中…

何だかんだ言って、アメコミ(Marvel ComicsやDC Comics)の映画化作品は結構見ている。今年だけでも『インクレディブル・ハルク』(超人ハルク)、『ダークナイト』(バットマン)、『アイアンマン』(アイアンマン)を見た。

過去には『スパイダーマン』『X-メン』『デアデビル』『ファンタスティック・フォー』『ゴーストライダー』『ブレイド』『トランスフォーマー』(以上Marvel Comics)、『スーパーマン』『スーパーガール』『キャットウーマン』(以上DC Comics)など。ストーリーは荒唐無稽だし、パワー礼賛(=悪は力でねじ伏せる)色が濃いけれど、良くも悪くも米国を体現しているアメコミ作品群。米国と言う国に対して愛憎相半ばの者にとっては、アメコミやその映画化作品は要チェック項目なのだ(笑)。

◆『インクレディブル・ハルク』は、前作の『ハルク』に比べれば、主演のハルク役に演技派エドワード・ノートン、その相手役に魅力的なリヴ・タイラーを迎え、人間ドラマの部分はなかなか見応えがあった。惜しむらくは、超人ハルクに変身後の格闘シーンで、CG表現にこれと言って目を引くものがない上に、冗長な印象が拭えなかったこと。途中で見飽きてしまった。

エドワード・ノートンがアメコミ映画主演とは意外… クリックすると元のサイズで表示します

冒頭のブラジルの貧民街の描写は、4年前に公開されたデンゼル・ワシントン主演の『マイ・ボディガード(Man on Fire)』の舞台のひとつとなったメキシコの貧民街そのままに、建築基準法など存在しない、丘の斜面にへばりつくようにして縦横無尽に増殖した粗末な住宅群だったのが印象的だった(追っ手から逃れるべく、ハルクはその複雑に入り組んだ街路を疾走する。入り組んだ住宅街を疾走と言ったら、『ボーン・アルティメイタム』もそうだね)。映画の本筋とは関係ないが、なぜか記憶に残る映像である。

◆クリスチャン・ベールをブルース・ウエイン&バットマン役に据えた、クリストファー・ノーラン監督第2作目の『ダークナイト』は、前評判通りの完成度の高さと面白さで出色だった。

特に善と悪のせめぎ合い(バットマンVSジョーカー、また善人然としたデント検事の内的葛藤)とその均衡の危うさ(法治国家の下ではバットマンもまた裁かれるべき存在。あのエシュロンを想起させる盗聴システム=禁断の果実にまで手を出す下りが象徴的)、そして善悪が合わせ鏡のように存在するジレンマが、最後まで緊迫感が途切れることなく描かれ、見応えがあった。

クリックすると元のサイズで表示します それにしても鬼気迫る演技だったなあ…ヒース・レジャー

さる評論家に「ジョーカー役を演じたヒース・レジャーは、過去にジョーカーを演じた怪優ジャック・ニコルソンを凌駕するほどの迫真と狂気の演技で、自らの命を縮めてしまったのでは?」とまで言わしめたほどのヒースの熱演。それは、現実世界に存在する確信犯的な、罪を犯すことそのものを犯行の目的とする、常人には理解不能な犯罪者を想起させ、言い知れぬ恐怖を誘った。バットマン・シリーズは敵役に大物俳優を起用するのがその特徴のひとつだが、本作の場合、ハリウッドの次代を担ったであろう気鋭の若手が、その命を燃やし尽くしたとも言える演技で、完全に主役を喰っていた。この後に演じる敵役は常にヒースを意識せざるを得ず、さぞかし演じづらいだろう。

◆『アイアンマン』は期待以上の出来だった。予告編より本編の方が断然面白い。主演のロバート・ダウニー・Jrが天才兵器開発者を演じるのだが、あり得ない状況下(笑)でのパワードスーツ開発過程の描写など、リアリティという点ではツッコミどころ満載ながら、これが結構面白いのである。試行錯誤を繰り返す中で徐々に完成に近づく、もの作りのワクワク感を追体験できるという感じだ。
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キャスティングも魅力的。有能で、公私に渡って主人公の支えとなるペッパー・ポッツ役のグウィネス・パルトロウ、同じく全幅の信頼を寄せる友人役のテレンス・ハワード、そして、何やら最初からいわくありげな共同経営者役のジェフ・ブリッジス(最初風貌のあまりの変化に誰だかわからなかった)と、役者が揃っている。それにしてもグゥイネス、昔より今の方が、ずっとチャーミング!また、前半で主人公と行動を共にするイェンセン役のショーン・トーブの存在も忘れ難い。イランをルーツに持つ彼は、様々な映画で中東人を演じているが、過去に出演した『クラッシュ』『マリア』『君のためなら千回でも』のいずれの作品でも、鮮烈な印象を残している。

本作でも、善と悪の相互依存性が皮肉だ。善があっての悪。最強の兵器は最悪の脅威となり得る。アイアンマンだって、悪の手に渡れば脅威となる。その危うさが、現実世界にもそのまま当てはまりそうで怖い。
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2008/9/1

(23)おくりびと(試写会にて)  映画(2007-08年公開)

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「人は誰でもいつか、おくりびと、おくられびと…」

見終わった後、このコピーが心の中で何度もこだました。自身の親が老い、友人の中には既に親を見送った者も少なくない年代であるがゆえに、身につまされる物語だった。死は見えないだけで、実は日常と隣り合わせに存在する。愛する者、身近な者の死にどう向き合うか?死者をいかに見送るか、否応なく考えさせられる作品である。

最近義父を見送ったと言う友人との鑑賞。突然旅立ってしまった義父の葬儀は、身内の戸惑いと混乱の中、その殆どが葬儀社任せで執り行われたと言う。この物語の核を成す”納棺師”とは、特に儀式を重んじる地方では独立した職業なのか?私はその存在をこの映画で初めて知った。

愛する者の死に直面して、悲嘆と戸惑いで心が千々に乱れんばかりの遺族の前で、納棺師は死者の体を拭き清め、死装束を整え、美しく死化粧を施して、棺に納める。その厳かな儀式は、悲嘆にくれる遺族の心を癒し、死者との穏やかな別れを演出する。

納棺師を演じる山崎努と本木雅弘の所作が美しい。特に本木はテレビ番組等での露出が少ないせいか、その端正な顔立ちと相俟って、俗世間とは一線を画したかのような品の良さが滲み出て、この作品の品位を高めているように見える。

この作品の中で、私たち鑑賞者は、実に多くの死者の納棺に立ち会うことになる。死者の年齢層も人となりも幅広く、一口に納棺の儀式と言ってもその様態はさまざまだ。目前で悲喜こもごもののドラマが展開し、中にはきれい事では済まないケースもある。これは、なかなか興味深い”体験”であろう。

同時にこの映画はひとりの人間の成長物語でもある。失業をきっかけに故郷に戻り、意外な形で納棺師の職を得た主人公が、その特異な職務に当初は戸惑いつつも、真摯に取り組み、経験を重ねる内に、職業意識に目覚めて行くさまが丁寧に描かれている。

ややもすると納棺師は「人の死を飯の種にしている」と蔑まれがちである。しかし、誰かがやらねばならない仕事であり、死者との別れを告げるプロセスの中で、その職務が果たす役割はけっして小さくない(生活の”穢れ”の部分を引き受けてくれる、と言うことで高報酬でもある)。

どんな職業であれ、人は職務に真摯に取り組むことで、結果的に人々の偏見を払拭し、自らの仕事に、人生に、誇りを持って生きていけるのかもしれない。

さらにこの作品は、主な舞台となった庄内地方の四季折々の風景の美しさと共に、夫婦愛、親子愛、そして故郷の人々の温かさと、みどころは尽きない。細かな点では辻褄の合わない部分もあるが、その欠点を補って余りあるほどの素晴らしさが、この作品にはあると思う。

『おくりびと』公式サイト

【本作が世界でも認められました!】
モントリオール国際映画祭グランプリ受賞!

【2008.09.17追記】
以下は、今朝、ブログ友達のかえるさんに寄せたコメントに多少加筆したものですが、試写会を見てから3週間が経った今感じていることです。

「おくりびと」は素敵な映画です。新人納棺師の成長を通して、「死」の厳粛さと同時に「生」の尊さを教えてくれる、とでも言いましょうか。でも最近ちょっと騒がれ過ぎ(モックン、テレビに出過ぎ、しゃべり過ぎ・苦笑)…できれば静かにしみじみとみたい作品です。

脚本が「料理の鉄人」のシナリオを書いていた小山薫堂という人らしく、物語は「死」を扱いながらもクスッと笑えるようなシーンもあり、けっして湿っぽくないです。出演陣も各自キッチリ自分の仕事をしているし。

広末涼子は私もどちらかと言うと苦手。今回のキャスティングはどうなんだろう?彼女の生活感のなさが、今回のような作品ではどう作用したか?評価は分かれるでしょうね。何れにしても山崎努とモックンの存在感が圧倒的なので、彼女の影は薄いです。妻役が広末涼子である必然性はなかったような…


【2008.09.23 追記】

夫にも是非見て欲しかったので、秋分の日、夫婦50割引で見て来た。2度目は映画館の完璧なスクリーン、音響で見たこともあり、感動は倍加したように思う。試写会で初めて見た時に気になったところが全て気にならないほど、今回は作品世界に浸れた。庄内地方の風光明媚な景色の中で奏でられる、たおやかなチェロの調べが、すごく心地良かった。改めて人の絆の温かさが心に沁みた。自分の身近にいる人を、もっと大事にしたい、と思った。


以下はネタバレにつき…

【ふと、目に付いたところ】
同級生の母親で、昔なじみの銭湯のおかみさん役の、吉行和子の(特殊メイクかもしれないけれど)アカギレの手。銭湯一筋に懸命に生きた証のようで、印象的だった。

【夫婦の絆】
妻の不在中も主人公は結構楽しそうだった(特に食事のシーン)のがチョット引っかかる(笑)。本当に「妻がいないと駄目」なのか?何だか説得力に欠けるなあ…妊娠の時期もいつだったのか?一冬不在だった割にはお腹の膨らみが…計算が合わない?!

【確かに名人芸なんだけれど…】
笹野高史はこのところ露出が多過ぎて、その演技に(自己陶酔を感じて?)、私は素直に感動できなくなっているような気がする。名バイプレーヤーとして重宝がられるのも、良し悪しなのかもしれないなあ…どんな役もそつなくこなしてしまう器用さが、却って仇になっているようにも見える。好きな俳優だけに、ちょっと残念。(←でも2度目の時は素直に感動できた。)


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2008/8/21

(22)アクロス・ザ・ユニバース(Across the Universe、米)  映画(2007-08年公開)

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60年代を駆け抜けた伝説的バンド、ザ・ビートルズの楽曲33曲に乗せて綴られる青春物語。初めに物語ありき、ではなく、既存の曲をつなぎ合わせて物語を紡ぐと言うスタイルは、数年前にロンドン・ウエストエンドで見た舞台ミュージカル『マンマ・ミーア』が記憶に新しい。本作は、NY・ブロードウエイでディズニーアニメ『ライオンキング』の舞台ミュージカル化を大成功させた気鋭の演出家ジュリー・テイモアが、初めて手がけたミュージカル映画らしい。テイモア監督は映画化に当たり、200曲以上に及ぶビートルズの楽曲全てを聴き込み、33曲を選び出したと言う。

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物語としては、若い二人の恋を中心に、彼らを取り巻く若者たちの群像劇とも言える。そこに60年代ならではの、ヴェトナム戦争反戦運動公民権運動と言う社会的背景が絡んで来るのだが、(ビートルズ自体は一切登場しないものの)その語り部として、ビートルズの楽曲が絶妙に嵌っている。しかも、ヒト、モノに惜しみなく予算を費やしたのが窺える、かなりゴージャスな作り。まずは是非、映画館のスクリーンと音響で見て貰いたい1本。

私は世代的にはビートルズの全盛期にドンピシャ当てはまるわけではないが、10代をビートルズを端緒に洋楽で過ごした人間だ。当時、私たちの世代の音楽指向はニューミュージックやフォークの邦楽系か、ポップスやロックの洋楽系に二分されたと記憶している。私のビートルズ指向は、中一の時に仄かに恋心を寄せていた男の子が、大のビートルズファンだったことがきっかけと言う不純なものだったけれども(笑)。実際はそれ以前に、一日中自宅のラジオから流れていた音楽で、ビートルズと意識することなしに、その楽曲の数々は耳に馴染んでいたと言える。

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冒頭、海岸で、画面からこちらに語りかけるように、ジム・スタージェスが"Girl"を切々と歌う。

"Is there anybody going to listen to my story. All about the girl who came to stay…”

この時点で、私の心は鷲掴みされてしまった…ははは。黒々とした眉とクッキリとした瞳が印象的なジム・スタージェスは『ラスベガスをぶっつぶせ(原題:21)』が初見だったが、実際は本作が彼にとっては映画デビュー作らしい。テープ審査で即起用が決まったと言う歌声は甘美で、少し舌っ足らずなところが魅力的だ。そう、物語は彼の恋の歌で幕を開ける。

繰り返し歌ううちに何となく覚え、口ずさんでいた楽曲の数々が、台詞として字幕に表示される。様々なアレンジで、様々な歌い手によって歌い継がれ、物語が進んで行く。恋の歌から、世相を反映した歌、思想的な歌まで。何と多様な仕掛けで、ビートルズの名曲が新たな命を吹き込まれたことだろう。私が考えていた以上に時代状況にリンクした歌詞にも改めて驚く。中年の黒人女性らによるゴスペル・アレンジの" Let it Be"なんて、鳥肌ものだ。そう言えば10年前のNY旅行では、ハーレムの教会でゴスペルを聴く機会があった。日替わりで歌い手が若者、少年少女、シニア層に替わると言う話だったが、私たち家族が聴いたのはシニア層で、それは齢を重ねた人々ならではの味わい深い歌声だった。ゴスペル版"Let it be"で、その時の感慨がふと蘇った。

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ヴィジュアル面でも、そのアレンジは際だっている。特にヴェトナム戦争の泥沼化に伴い、時代がいよいよ混沌として行く後半では、サイケデリックな色調とデザインが鮮烈さの度合いを増し、めまいを覚えるほどだ(当時蔓延したドラッグによる幻覚を表現した、との説がある)。それと反比例するかのように、歌詞は熱を帯びた愛の歌から、時代の熱気と距離を置いた冷静さで、その思考を研ぎ澄ませて行く。表題の" Across the Universe"は、その真骨頂だろう。

Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world


それからすると最後のオチは、"アノ歌"が持つ本来のスケールからすれば、ごく個人的なものに帰結させてしまうのは、矮小化と言うか、無理矢理こじつけた印象が否めない。あのシチュエーション自体は、ビートルズへのオマージュに他ならないだけに、ちょっと惜しいなあ…

【魅力的なキャスティング】
本作にも次代を担う若手俳優らが目白押し。”サラダボウル”を体現するかのように多彩な顔ぶれだ。ジム・スタージェスの恋人役のエヴァン・レイチェル・ウッド、その兄マックスを演じたジョー・アンダーソン、歌姫ディナ・ヒュークス、ギタリストのマーティン・ルーサー・マッコイ、そして薄幸の少女プルーデンスを演じたT.V.カーピオ。数年後にはそれぞれの名前を、さまざまなところで目にすることになるのだろう♪

2008/8/8

(21)旅するジーンズと19歳の旅立ち(2008年、米)  映画(2007-08年公開)

16歳のあの夏から3年… クリックすると元のサイズで表示します

  クリックすると元のサイズで表示します この夏、”彼女たち”が帰って来た! 

なんと言っても、4人の個性の輝きが素晴らしい!!

急遽世界上映が決まったとのことで、きちんとしたプロモーションもなし(TVのスポットCMがたまに流れる位で、公式サイトにも情報が殆どない)、プログラム冊子もなし、上映館数もごく僅か、と言うナイナイ尽くしの中、”彼女たち”が3年ぶりに私たちのもとへ帰って来た。前作もそうだったけれど、どうして、このような素敵な作品を映画会社はもっと宣伝しないのかなあ?これは良質な映画を求める映画ファンにとっても残念なことだと思う。

久しぶりに見る彼女たちはチョッピリ大人びた姿で登場。高校を卒業し、それぞれの道を歩み始めていた。ティビーは映画制作を学びにニューヨーク大へ、ブリジットはスポーツ活動と学業の両立が認められブラウン大へ、リーナは奨学金を得てロードアイランド美大へ、そしてカルメンは演劇専攻?でイェール大へ。皆、優秀なんだなあ〜。

今回は離ればなれになった4人が、夏休みに故郷で一旦再会を果たすも、また、それぞれの目的に向かって散り散りになる。ティビーはニューヨークに戻るが、相変わらずバイト生活(今度はレンタルビデオ店だ)。ブリジットは遺跡発掘プログラムに参加の為トルコへ。リーナも大学の夏季特別講習でヌードデッサンに挑む。カルメンは当初の予定とは違うけれど、大学の友人の誘いに乗って、バーモントで開かれる演劇の夏季セミナーへ参加。かくして、3年経ってかなりくたびれた感のある、あの不思議なジーンズも、再び4人の間を旅することになる。そして、4人はそれぞれの場所で、それぞれの課題(そう、1人の人間として成長する為に乗り越えなければならない壁のようなもの)に直面するのである。

前作に引き続き、4人の個性が輝いている。前作との違いは、それぞれが確実に自立の道を歩み始めたことだろうか?一歩、また一歩と、それぞれに、さまざまな経験を重ねて大人へと近づいて行く4人。その過程で、どうしても起きてしまう気持ちのスレ違い。果たして旅するジーンズは4人の友情を繋ぎ止めることができるのか、と内心ハラハラしながら、その展開を見守った。実は前作とはビミョーに変化した”ジーンズ”の存在感が、この作品の”肝”だったりする。

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こんなに爽やかな余韻の残る佳作には滅多に巡り会えないもの。現役少女も、元少女も必見のガールズ・ムービーと言えるだろう(もちろん、男性でも十分に楽しめると思う!)。

【ブログ内関連記事】
映画『旅するジーンズと16歳の夏』の感想

【邦題】
本作の原題は"Sisterhood of the Traveling Pants 2"。邦題『旅するジーンズと19歳の旅立ち』は、前作の邦題『旅するジーンズと16歳の夏』に引き続き、なかなか好感度の高い邦題だと思う。原題を直訳すると「旅するパンツがとりもつ女性同士の友情」あるいは「…仲間」とでもなるだろうか?(私の翻訳センスが悪いだけかもしれないけれど)一連の邦題は、内容的に的を射ているし、単に1,2とするより、歳月の流れを感じさせて特に前作ファンの懐旧を誘うと思う。

【メルティング・ポットからサラダボウルへ】
私は米国に住んだことはないし、(叔母家族が住んでいるけれど、私自身は久しく音信不通で)親しい友人がいるわけでもないので、米国の最新事情には疎いところがある。以前、掲示板で、米国在住者から、認識の古さを指摘されたこともあった。その一例がメルティング・スポットだ。”人種のるつぼ”なんて認識は既に時代遅れ、今や米国社会は”サラダボウル”なんだそうだ。”るつぼで溶け合わなければアメリカ人になれない”ではなく、キュウリはキュウリ、トマトはトマトとして存在するサラダボウルの種々の野菜の如く、それぞれの民族性を尊重しつつ、「米国の精神」というエキス(ドレッシング)をかけられて、ひとつのまとまった国家を形成するのが今の米国。ことさら人種間の違いを言い立てるのはダサイ。それを体現するかのように、この作品内のカップルの人種構成はとても自由だったのが印象的(米国の”今”を知る好著が最近出版された。尾崎哲夫著『英単語500でわかる現代アメリカ』(朝日新書、2008)と言う本だ。up-to-dateなボキャブラリー500語で現代米国を読み解くというもの)。

【映画の中の少女たちの成長物語は、そのまま出演女優の成長物語でもある】
エーゲ海の青さを映し出したかのような青い瞳が印象的なリーナを演じるアレクシス・ブレーデルは、前作「旅するジーンズと16歳の夏」公開直後の映画「シン・シティ」で全く違った一面を見せてくれて、女優としてのキャパシティの広さを感じさせた。同様にプエルトリコ系の褐色の肌のカルメン役を演じたアメリカ・フィレーラには「CSI」にゲスト出演という形で再会した。現在、彼女はテレビドラマ「アグリー・ベティ」の主演で、エミー賞に堂々ノミネートされている。また、前作撮影当時本格的な女優になるかどうかは未定だったブリジット役のブレイク・ライブリーは、現在主演を務めるテレビドラマ「ゴシップ・ガール」が、ティーンズ・チョイス・アワードに14部門もノミネートされるなど、確実に女優としての道を歩んでいるようだ。そして一見強面ながら、実は繊細な内面を持つティビー役を演じたアンバー・タンブリンも、人気ホラー映画「呪怨」に出演、その続編への出演も決定している。それぞれの今後の活躍が期待される。この映画への出演が、4人に女優としての自信をもたらしたのは想像に難くないし、同時に、この映画の成功は、彼女たちの確かな演技力に因るところが大きいと言えるのではないだろうか。

2008/8/1

(20)『百万円と苦虫女』と『「逃げ上手」ほど生き上手』  映画(2007-08年公開)

クリックすると元のサイズで表示します 最後の台詞が潔く清々しい…

誰の人生も、どんな人生も、愛おしく、かけがえのないもの…

例えば、「殺すのは誰でも良かった」と加害者がのたまう通り魔事件の被害者の、本来ならばもっとずっと続いたであろう人生を想う。

或いは、いつもの美容室で初めて言葉を交わした、名も知らぬ若いインターンの、かいがいしい働きぶりを見て、彼女の”今”を想う。

片や報道で知った、片や美容室でのほんの数時間の関わりで、彼女たちの殆どを知る由もないけれど、それぞれにかけがえのない人生がある(あった)。そのことだけは感じられる。痛切に。

『百万円と苦虫女』のヒロイン、鈴子にもかけがえのない人生がある。都内のマンモス団地のそう広くない自宅で、両親、小学生の弟と暮らす鈴子。短大を出たものの定職には就けず、将来への展望もなくバイトに明け暮れる日々。そんな彼女がバイト先の友人に誘われるままに新しい一歩を踏み出そうとするが、意外な形でその”ささやかな勇気”は踏みにじられてしまう(そこで反撃に転じる鈴子の、楚々とした外見の雰囲気からは想像もつかない内面の激しさには驚かされるけれど)。そして、彼女は「逃げる」ことを決意する。このままでは八方塞がりの現実から。遠慮のない人々の陰口から。そして家族の愛情を感じながらも、何となく居心地の悪さが拭えない家庭の温もりから。

それまでの鈴子を知る人が誰一人いない、見知らぬ土地へ。あてもなく流れて、たどり着いたところで働いて、100万円貯まったら、また見知らぬ土地へ。安易に若さや女性であることを武器にしない鈴子の清廉さと直向きな働きぶりが小気味よい。その働きぶりが、ありのままに褒められる。ささいなことだけれど、人に認められることで、傷ついた鈴子の心はゆっくりと回復して行く。映画『ぐるりのこと』でも書いたように、人の心は思いの外しなやかで強い。そして人と関わり続けることで、逃げ出したはずの社会とも辛うじて繋がっていられる。

クリックすると元のサイズで表示します 人の温もりが、傷ついた心を癒す
 
  不器用な恋も、心を強くする…かな? クリックすると元のサイズで表示します

このブログでも繰り返し書いて来たように、誰にもそれぞれの「分」がある。誰もが同じ方向を見て、同じゴールを目指して、同じレールに乗る必要なんてないのである。学問の世界でも「多様性」の大切さは指摘されているところで、種々雑多な人間が存在するからこそ、この社会は成立するのであって、人それぞれが自らの分をわきまえ、それぞれの人生を全うしてこそ、社会も繁栄し、存続し得るのだと思う。

合わない型に自分を無理矢理嵌めようと悪戦苦闘することはけっして美徳でもなく、社会の利益にもならない。自ら持って生まれた能力や志向を知り、それを生かしてこその、幸福な人生だと思う。もちろんその前提には、「社会的名声や富の獲得だけが幸福の証であり、その獲得者だけが人生の成功者である」という偏狭で硬直した価値観の否定がある。人間の幸福は、地位や名声や富の有無に関係なく、「自らの人生をどう楽しむか、どう味わい尽くすか」にかかっている。それこそ幸福の型は、人の数だけあると言って良いのではないか。人生楽しんでナンボや!

さらに人は誰しも長い人生の中で、一度や二度(もしかしたら何度も)躓くことはあるだろう。それは人の道に外れた過ちを犯してしまうことかもしれないし、夢破れての挫折かもしれない、或いは病に伏すことなのかもしれない。しかし、それらも間違いなく人生の一部である。そして、新たな人生の一歩を踏み出すチャンス(転機)にもなり得る。

だからこそ、時に「逃げる」ことは悪くない。人生をリセットする良いチャンスなのかもしれない。もちろんただ逃げ続けるのではなく、逃げた先で傷を穏やかに癒し、自分の”これから”をじっくりと考える。「逃げる」ことで、自分を生き返らせるのである。こうした「逃げ」を、『「逃げ上手」は生き方上手』の著者栄陽子氏は、「積極的逃げ」と称して薦めている。この「積極的逃げ」によって、人は何度でも再生できるかもしれない。その為には、社会がハード(仕組み)・ソフト(価値観)の両面で、より柔軟な器であって欲しい。

偶然ほぼ同時期に出会った映画『百万円と苦虫女』と栄陽子著『「逃げ上手」ほど生き上手』(ヴィレッジブックス新書、2008)[注1]によって、改めて人間ひとりひとりの人生のかけがえのなさを想い、ひとりでも多くの人々が自らの存在を肯定し(=あるがままを認め←自分がまず認めなくて、他に誰が認めるか、ってことですね)、人生を慈しみ、自分なりの幸福な人生を歩んで欲しいなと思った。

【蒼井優ちゃんについて】
蒼井優ちゃんはやっぱり良い。その透明感と清潔感。儚げで、実は芯の強そうなところ。元バレエ少女(?)の華奢な骨格と伸びやかな肢体(何度となく床や畳に仰向けになる姿は、映画のひとつの見どころになっている?あまりにも無防備な姿に、見ているこちらがドキッとする・笑)。そして確かな演技力。同世代の女優の追随を許さない存在感で、映画を中心に活躍して欲しい。

【そうだ!そうだ!忘れてた!】
鈴子と、年の離れた小学生の弟との関係もなかなか微笑ましい。世間の評判からは窺い知れない姉の芯の強さを知った弟は、”成績優秀児”の評判とは裏腹に学校では辛い日々を送っている。転々とバイト生活を送る鈴子と、辛くても学校に留まって耐える(しかし正面から問題に立ち向かってはいない)弟の姿を交互に描くことで、姉弟それぞれの成長物語にもなっているところが面白いと思う。

映画『百万円と苦虫女』公式サイト

[注1]本書は著者の率直な物言いが特徴的で、かつ平易な文章で綴られているが、その読み易さで、安易に内容も軽いとは判断しないで欲しい。内容はいたって真摯で、読み手を励まし、迷う背中を押してくれるものとなっている。世間で「常識」とされていることに敢えて疑問を呈し、その不確かさを衝いていると思う。私達は案外、こうした根拠のない「常識」や「規範」に振り回されていることが多いのではないか?

2008/7/27

(19)ハプニング  映画(2007-08年公開)

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畏れを知らぬ者たちには恐れを

沖縄に住んでいた時に何が気になったかと言えば、有刺鉄線で囲まれた米軍基地内に広がる青々とした芝生だった。油断すれば強靱な雑草が伸び放題の亜熱帯の沖縄で、あの端正な芝目を維持するのは並大抵のことではなかろう。

かつて「銃剣とブルドーザーで地元住民から土地を強制接収した」と言われたように、あの青々とした芝生は米占領軍の、ひいては米国の征服欲の象徴として見てとれた。それは単に戦争による征服を指すのではなく、自分たち以外のものすべてを、そう”自然”さえも、”征服すべき存在”として捉えている、米国の(←狩猟民族の、或いは西洋の、と置き換えても良いかも。”共生”を旨とする農耕民族とは対極だ)国家としての根本思想とも言うべきものなのかもしれない。

ゆえに、すべてが自分たちで”制御可能”とさえ考える。果たして本当にそうなのか?そもそも人間は、人間を生み育んだ自然を超えた存在なのか?いつから人間は、そんなにエラクなったんだろうねえ…?

米国映画は良くも悪くも米国の姿を反映している。そのひとつが米国万能主義だ。何か問題が勃発しても自らの手で解決しようとする。巨大宇宙船だって米軍の戦闘機で撃破してしまうのだ。

M・ナイト・シャマランは出自がインドと言うこともあってか、その点の描き方が非米国的である。映画「ハプニング」において、米国は国家として、”万能”でも”最強”でもない。(ただ正体不明の敵に恐怖し、右往左往するだけである。)米国人の眼には、そのように描かれた自国のありようが新鮮に映るのだろうか?対して、遙か昔から”畏れるべきもの”の存在をそこここに感じていた日本人にとっては、当たり前過ぎる理(ことわり)にも見え、だからこそ、この作品が発するメッセージには拍子抜けしてしまうかもしれない(ただし日本も、悪い意味で限りなく米国に近づきつつあるかな)

今回はRー12指定を受けているだけあって、視覚的・聴覚的に恐怖を誘う表現の連続なのだが、人間の(特に現代人の)不遜さからしたら、このような展開は十分あり得ると普段から思っているので、個人的にはあまり驚かなかったなあ…

もちろん、こういう映画だって”アリ”、だと思う(そう言えば、ヒッチコック監督ばりに出たがりシャマラン氏、また顔を出していたね・笑)

以下はちょっとネタバレなので反転表示で…

何にでもハッキリ白黒つけたがる人には、シャマラン流のオチは納得し難いのかもしれないが、そもそも物事はそんなに単純なものではないし、謎の”答え”なんて、そう簡単に見つかるものではないのでは?そういう意味では、米国映画の定石から敢えて外した、現実の世界に即したオチだと思った。

2008/7/7

(18)歩いても歩いても  映画(2007-08年公開)

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楽しいと言うより、ほろ苦い。温かいと言うより、切ない…かな

若くして亡くなった長男の命日に、老親の住む実家に集った次男家族と長女家族。ある一家のほんの2日間(正味24時間?)の出来事を綴った物語なのだが、予告編を見る限り心温まるホームドラマかと思いきや、意外にそうでもなかった。映画館の後方の席で、やたらと大笑いをしている年配男性がいたが、私は笑えなかった。何気ない家族のやりとりの中に、身につまされる内容が多かったからだろうか?自分自身を夏川結衣演じる嫁に投影したり、娘役のYOUに重ねたり…そうして物語にのめり込んで見ると、結構しんどかったぞよ。たぶん、見る人の(家族関係における)立場によって、印象はかなり異なるのだろうなあ…

時に、芸達者な樹木希林演じる義母の言動に、底意地の悪さを感じて背筋が寒くなった。映画タイトルの由来だって、結構皮肉が利いているし。年を取ると人間は円くなるなんて、たぶん若い頃尖っていた人にこそ当てはまることなんだろう。善人、良妻賢母と言われた人は、寧ろ年老いてから、いい加減周囲に気遣いすることに疲れて、本音で生きたくなるものなのか?案外、タガが外れたようにズケズケとした物言いで、身近な人間を驚かせているのかもね。ここだけの話、私の義母は定年退職を迎えた義父に「これまで苦労をかけたな」とねぎらいの言葉をかけて貰った時に、「はい、散々苦労しました」と(冗談ではなく真顔で?!)答えたそうだ。妻の意外な返答に、義父は心底驚いたんじゃないかな?何年か前の正月の帰省で台所仕事をしていた時に、義母からその話を聞かされて、私も本当に驚いた。日頃の義母の言動からは想像もつかない言葉だったからだ。

家族関係は難しい。特に子供がそれぞれ大人になり、独立してそれぞれの家庭を持った後の親子関係、兄弟関係は、他人(嫁、婿)が入り込むことによって確実に変質する。互いに気を遣いあい、牽制しあう。時には打算も働く。それは良い悪いの問題ではなく、成り行き上、そうならざるを得ないものなんだと思う(子供が大人になる、親から自立するって、つまりはそういうことなんだろうし)。そうした家族関係の軋轢が、是枝脚本の鋭い人間観察によって容赦なく露わにされたのが、この家族のわずか2日間の物語なのかなと、私は受け止めた。亡くなったわが子への執着も親ならではのもので、無下に否定できないだけに、周囲の人間は気を遣うし、心を傷つけられもする。墓参りのシーンでは温かさを感じつつも、全体的にはほろ苦くて、切ない印象が強いかな。

私は夫婦でこの映画を土曜日の午後に見たのだが、観客の年齢層はかなり高かった。見渡すとシニアばかり。シニアの間で口コミ人気でも広がっているのか?シニアに眼にはどう映ったのだろう?樹木希林の言動に納得したり、溜飲を下げたりしたのだろうか?

【どうしても気になった些細な事柄】

高橋和也演じるYOUの夫が義母におべんちゃらを使いながら、子供たちと台所で麦茶を飲むシーン。麦茶をゴクゴクと飲んでいる間ずっと冷蔵庫の扉が開けっ放しなのだ。おいおい電気代の無駄だ、と思わず突っ込んでいる自分がいた。たぶん、婿のいい加減な性格の一端を示す描写なんだろうけれど。是枝監督、芸が細かいと言うか、人間観察が嫌らしいくらい鋭いと言うか…
これがその証拠写真(笑)→クリックすると元のサイズで表示します

2008/7/5

(17)告発のとき(原題:IN THE VALLEY OF ELAH)  映画(2007-08年公開)

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戦争がもたらす残酷な運命と、それに対峙する人間の勇気

幼い頃、親に連れられて見たヴェトナム戦争写真展の、泥まみれの黒人米兵の屍がいまだに忘れられない。生前の彼は、よもやこのような自身の最期を想像していなかっただろう。たとえ地獄の戦場から生還を果たせたとしても、帰還兵の心身には深い傷跡が残っている。彼らはおろか、彼らを迎え入れる家族や友人やコミュニティにとっても、戦争がもたらす惨禍は計り知れない。だからこそ、特にヴェトナム戦争以降、繰り返しその悲劇が映画でも描かれて来たのだろう(個人的には思春期に見た『ディア・ハンター』や『タクシー・ドライバー』が忘れられない。他に『ジョニーは戦場に行った』や『キリング・フィールド』、『プラトーン』、最近では『父親たちの星条旗』が印象に残る)。

映画を「時代を映す鏡」として捉えている者からしたら、本作は紛れもなく現代米国社会の一断面を映し出して見応えのある1本だと思う。自衛隊がサマワから撤収して2年近くが経過した今、私たち日本人は急速にイラク戦争への関心を失いつつあるが、米国にとってはヴェトナム戦争を想起させるような泥沼化の様相を呈しているのが、イラクの現状ではないだろうか?戦争を始めるのはいとも容易いが、終わらせるのは難しい。その間、おびただしい血が流され続けるのである。米国はその痛みにいつまで耐えられるのか?

同時に本作は、人間としての普遍的な在りかたをも提示して、深い余韻を残す作品である。原題は『旧約聖書』の「サミエル記上(もしくは「第一サミエル記」)第17章」に記された、少年ダビデが巨人ゴリアテを倒した逸話に由来する。後にイスラエルの王となる少年ダビデが、無敵と言われた巨人ゴリアテに果敢に挑んだ場所が「エラの谷」なのである。相手がいかに強大であろうとも、ひとりの人間として信念を持って挑みかかる。その勇気を、人間は自らの尊厳を守る為にけっして忘れてはならないのだ。

ポール・ハギスは当代きっての脚本家のひとりだと思う。そのプロットは緻密で最後まで観客を惹きつけて離さず、さらにその人物造形はしっかりとした骨格で個々の登場人物の存在感を際だたせ、他の追随を許さない。監督としての力量も前作『クラッシュ』で実証済みだ。本作は実話に着想を得て作られた作品だが、ハギスならではの味付けで苦みを伴う重厚な人間ドラマに仕上がっているように思う。彼が脚本を手がけた『父親たちの星条旗』でも確か(似たようなニュアンスで)語られたと記憶しているが、「(私たちの為に戦争へと赴いた彼らを)英雄として尊敬を持って称えよ」と言うような台詞が印象的だ。それは逆に、未来ある若者たちを戦場へと送り出すことへの、自責の念とも受け取れる。


始まりはサスペンス仕立て。元軍警察官のハンク・ディアフィールド(トミー・リー・ジョーンズ)の元に、イラク戦争から帰還したはずの息子が、軍から脱走(無許可離隊)したとの連絡が入る。自らを厳しく律する生粋の軍人気質のハンクには、それは信じがたいことだった。彼はすぐさま真相を探るべく、妻ジョーン(スーザン・サランドン)を自宅に残し、息子の所属部隊のある基地へと赴く。同僚の父として同じ部隊の隊員からは慇懃な扱いを受けながらも、どこか腑に落ちないハンク。さらに現地警察の女性刑事エミリー・サンダース(シャーリーズ・セロン)の協力を仰いだ矢先、息子マイクの変わり果てた姿が軍有地内で発見される。真実をひた隠すかに見える軍当局の対応に納得がいかないハンクは自ら、過去の経験知を頼りに独自に捜査を始めるのだった…


見終わってまず感じたのは、本作はサスペンスフルな展開ながら、”犯人捜し”は大して意味を持っていないことである。寧ろ、さまざまな困難にぶつかりながらも、真相を追究する為にはけっして妥協を許さないハンクとエミリー(映画冒頭では同僚男性刑事らのひやかしにいらつき、軍人妻の訴えを管轄外だと一蹴した彼女が、ハンクと出会い、その人となりに触れることで感化されて、刑事の職務に目覚めて行くさまがドラマチックだ)の粘り強さと、真相の裏に隠された残酷な事実に真摯に向き合うハンク、エミリー、そしてジョーンの勇気(人間としての強さ)を描くことに重きが置かれているように見えた。

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3人のアカデミー賞俳優の白眉の演技は本当に見応えがある。同世代のハリソン・フォードはアクション俳優として十八番(オハコ)のキャラクターを体当たりで演じているが、それに対してトミー・リー・ジョーンズは、いぶし銀の演技でハンクの苦悩と葛藤と悲しみを演じきっている。二人の息子を軍へと差し出した母親を演じるスーザン・サランドンの悲壮感も真に迫って、同じ母親の立場としては胸が引き裂かれるようだった。さらに、シャーリーズ・セロンは交通課から刑事課に転属した、孤独なシングルマザーの刑事の愚かさと強かさを、確かな演技力で表現していた(今回は美人女優であることをあえて封印、金髪を茶色に染め、地味な出で立ちで臨んでいるので、一見するとセロンとは気づかない)。この3人の演技のアンサンブルが実に見事で、ハギス脚本により一層の深みを与えたように思う。

けっして万人受けはしない、観客を選ぶ作品なのかもしれないが、本格的な人間ドラマを見たい映画ファンにはお勧めの1本です。

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2008/6/24

(16)ぐるりのこと  映画(2007-08年公開)

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人は人によって傷つけられ、人によって救われる

私たち夫婦とほぼ同時期に結婚生活をスタートさせた一組の夫婦の、10年間に渡る絆の物語。それは必ずしも順風満帆なものではない。新たな家庭を築く過程での心を通じ合えないもどかしさや(それはそうだ。元々異なった環境で生まれ育った他人同士なのだから)、埋めようのない喪失感に心を病む苦しさや、その苦しみや哀しみを分かち合う優しさ、そして固い絆によって立ち直る人間の心のしなやかさが、丁寧に、繊細に描かれている。ひとつひとつのエピソードが、二人の台詞が、その表情が心に染み入るようだった。思わず自分たちの10年と重ねて見入ってしまった。見終わった後、自分自身の”平凡な日常”に愛おしささえ感じた。

被告の罵詈雑言に思わず絵筆が止まるカナオ… クリックすると元のサイズで表示します

映画は、法廷画家を生業とする夫の目を通して、その10年の間に起きた様々な凶悪事件の公判の様子も伝える。すべてフィクションの体裁を取りながら、実際に起きた事件を容易に連想させる描写になっていて、改めてそれぞれの事件の不条理に愕然とさせられた。

並行して描かれる、ある夫婦の10年と凶悪事件が次々と起こる世相の10年。原作・脚本・編集・監督を一手に担った橋口亮輔監督の意図するところは、世の中でどんなことが起ころうとも、どんなに荒んだ状況にあろうとも、個人のささやかな営みはそれらに影響されることなく連綿と続くものであって欲しい、と言う願いなのだろうか?

人は弱くて強い…一見矛盾するようで、実は人の在りようを言い得ているような気がする。その弾力性に富む心は、たとえ人に傷つけられ一度は閉ざしたとしても、再び人を受け入れ、再生する。その力を信じたい。そうした希望を託したこの作品は、世の荒みに恐怖する人々を癒し、励ます存在になると思う。6年間のブランクを経て(この間、監督の身にはさまざまなことが起きたようですが、それが血肉となった結果の本作ですね。人間転んでもタダでは起き上がりません(笑)。監督自身にとっても本作の制作は「再生の物語」だったのでしょう) 、橋口監督はとても素敵な贈り物を世の人々に届けたものだと思う。感謝。

クリックすると元のサイズで表示します 再び絵筆を取る翔子

【ぐるり】自分の身のまわり、自分をとりまくさまざまな環境

【俳優陣のこと】
これが映画初主演と言う木村多江とリリー・フランキー。二人の演技とは思えない自然体が、普通っぽさが、作品を我がことに引き寄せて見られる効果を生み出しているように思う。この二人を主演に起用した時点で、この映画は8割方(って数値には根拠はないです)成功したと言って良いのかもしれない。木村多江の清楚な、”和”な美しさ(特に二の腕が美しい)は得難いものだよなあ…最近の報道によれば、2月に第一子を出産した彼女は、切迫流産の為に8カ月もの間入院したのだとか。プライベートでは大変な思いをされていたのだね。どうぞ、お大事に。またリリー・フランキーの近年の活躍には眼を見張るものがある。「ココリコ・ミラクル」では下ネタ、エロ・ジョーク連発で、どう見てもヘンなオヤジだったが、その実、撮影中監督を最も励まし、支えた人物と橋口監督が告白したこともあって、私の中でリリー株は上昇中(笑)。脇を固める倍賞美津子や寺島進、榎本明、寺田農らベテラン勢もいぶし銀の演技で、映画の質を高めてくれたように思う。

【自分に引き寄せて考えると…】
生真面目さ、几帳面さは、周りの人間に圧迫感を与えるだけでなく、時として自らを必要以上に縛り、行き過ぎると自らの首を絞め、自らを追いこんでしまう。「もっとゆる〜く生きようよ」「もっと大らかに生きようよ」と、リリー・フランキーの存在自体(それはあくまでもコチラが勝手に抱いているイメージなんだけれども)が、演技を超えて語りかけて来るような気がした。ねぇ、聞いてる?Yちゃん。

何があっても壊れない絆… クリックすると元のサイズで表示します

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